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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第4章
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op.13 偉大な芸術家の思い出に(8)

「何か、あったの……?」


 リチェルを抱きしめていたのはきっと、ほんのわずかな時間だった。かすかに震える声でリチェルに問いかけられて、ヴィオは我に返った。


「……っ」


 息を呑んで、弾かれたようにリチェルの身体を自分から引き剥がす。

 引き離されたリチェルは驚いたようにヴィオを見ていた。その表情にヴィオは今自分のしでかした事を自覚する。動揺したまま、かろうじて謝罪を口にした。


「ごめん……っ。動揺、していて……その」


 いきなり男に抱きしめられたら、女性は怯えて当然だろう。


 元々リチェルは男性を怖がっていたし、最近そう言った素振りを見せなくなってきたとしても、流石にこれは度を越した振る舞いだ。


「怖かった、よな……。すまない……」


 口の中に苦いものが広がるのを自覚しながら、押し殺したようにそう言って頭を下げる。


「ヴィオ?」


 そのヴィオの顔を恐る恐ると言った様子で、リチェルが下からのぞきこんだ。その表情からは戸惑いが見てとれたが、怯えた様子は見えなかった。代わりにこちらへそっと伸ばされた手が、ためらいがちにヴィオの手に触れる。


「大丈夫」


 小さな手が、きゅっと弱い力でヴィオの手を握った。


「平気よ。ごめんなさい、わたしこそ驚かせてしまって……」


 怖くないわ、とリチェルが続ける。


「ヴィオのことは、怖くないの。だから大丈夫。ごめんね」


 両手で包むようにヴィオの手を握って、リチェルが『どうかしたの?』ともう一度聞いた。


「ヴィオがそんなに動揺しているところ、初めて見たわ。何かあったの?」


 その声は、どこまでも優しかった。

 ヴィオがした振る舞いを当然のように許して、リチェルはヴィオの心配をしてくれる。その優しさにつけこむような真似を決してしてはいけないと思っていたのに、自分が情けない。


 だが何か言わなくては、とヴィオは回らない頭で必死で言葉を捻り出す。


「父を、見つけて──」

「お父様を? 見つかったの?」


 パッと顔を明るくしたリチェルに申し訳なくなる。

 今日は本当に頭が回らない。リチェルを傷つけない言葉が、うまく見つからない。


「いや……、亡くなっていたんだ」

「────」


 リチェルの目が大きく見開かれる。息を呑んだその唇がなにか言いかけて、だけど言葉を発しないまますぐに固く結ばれる。


「……良いんだ。それ自体は、予想していたことだったから」

「え?」


 そう。予想していた。

 本当はずっと、その可能性を考えていた。


 いくら父が連絡を寄越さない人間だからと言って、数ヶ月もの間音信不通なんてあるはずがないのだ。


 だから一番最初に、その可能性を考えた。

 フォルトナーも、叔父も、ソルヴェーグも。一度として口にしなかったが、誰もが考えていないはずがない。


 ずっと口にしなかったのは多分、それでも生きている事を信じたかったからだった。

 連絡がない以上、生きていたとしても意識のない状態にあるか、はたまた記憶が混濁しているか。どちらにせよ限りなく悪い状態なのは間違い無いだろう。

 それでも生きてさえくれれば、と思っていた。そのわずかな可能性にすがりたかった。


「そんな顔しないでくれ」

「……っ」


 リチェルは人の不幸や悲しみに共感してしまう人だから。優しい人だから、ヴィオの話を聞いたらきっと泣いてしまうのだろうと思っていた。


 実際リチェルの瞳はかすかに潤んでいたし、泣くのを堪えるように唇は閉ざされたままだ。その頬にためらいがちに空いた手で触れる。


「大丈夫。分かっていたから。むしろちゃんと分かって良かったくらいだ。あとは、この後どうするかの方が問題で。実際俺はまだ学生の身で、父上から引き継いでいないことの方がずっと多い。だけどそれも、ソルヴェーグもいるし、家には優秀な人材もいるから何とか……」

「……ダメよ、ヴィオ」


 不意に、震える口調でリチェルが口を挟んだ。

 優しいその声はヴィオを慮ってか遠慮がちで、それなのに瞳は強い意志を宿していた。リチェルの手がきゅっと強くヴィオの手を握りしめる。

 

「ヴィオの事情はわたしは詳しく分からないけれど、貴方が責任感の強い人だと言うことは知っているわ」

「……リチェル?」

「貴方が負わなければいけない責任も、これから考えなければいけない問題がたくさんある事も、お父様の死を予期していたこともきっと本当のことなのでしょう。……だけど」


 春の陽光を灯した瞳が懸命に何かを訴えるように、ヴィオを見ている。


「だけどそれは、貴方がお父様の死を悲しんではいけない理由にはならないわ」

「……!」


 予想外の言葉に、言葉を失った。


「ううん。何も理由なんてならない。ヴィオは悲しい時に悲しんでいいのよ」


 悲しい?


 言われた言葉を反芻する。

 父の死が分かってからここに来るまでずっと思考が空回りしていた。考えなければいけない問題は山積みで。だけど何を考えなくてはいけないか分からなくて。その事に焦燥感さえ覚えないことを、不思議に思っていた。だけど──。


(──そうか)


 父の死が分かってから、どこか心にポッカリと穴が空いたようだった。それは侯爵家にとっての当主が欠けた事だと思っていたけれど、きっと違った。

 

 幼い頃、眠れない時は父の書斎を訪ねた事を思い出す。

 仕事のことを話す落ち着いた声や、父が弾いてくれたヴァイオリンの音色が鮮やかに蘇る。


 それはきっと、父が侯爵家の当主だったこととは何も関係がない。

 あれはヴィオにとって、たった一人の父親の思い出だ。


(どうして君に会いたかったのか──)


 分かった気がした。


「……ごめん。出来れば、少しだけ……」


 そう言って、目の前にいる少女の身体をもう一度引き寄せる。リチェルは拒まなかった。

 代わりに背中に伸ばされた手が、ゆっくりとヴィオの背を撫でた。


「──っ」


 こみ上げるものを押し殺すように、腕の中に収まった華奢な身体をキツく抱きしめた。


 心が痛かった。

 その痛みすら、今初めて自覚した。


 腕の中のぬくもりが、背中に感じる小さな手の感触が、少しずつその痛みの在り処をより明確にしていくようで──。


(父上、俺は……)


 憧れだった。

 ずっと、尊敬していた。


 だから例え貴方が、もう当主として立てなかったとしても。例えば、何も覚えていなかったとしても。


(俺は、貴方に生きてて欲しかった──)


 そう気付いて、ようやく。

 熱い雫がポツリと、閉じた瞳からこぼれ落ちた。






 その光景を、開いた扉から見ていた人影があった。

 思い直して主人を探しに来た老紳士は黙ってその光景を見つめていたが、やがて声をかけないまま踵を返した。







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