op.13 偉大な芸術家の思い出に(5)
「ここでね、よく兄ちゃんと休憩するの」
ジョヴァンニが案内してくれた場所は町のはずれの土手だった。ジョヴァンニに連れられるがままにヴィオは土手まで荷車を運んで、ジョヴァンニの兄であるアルフとソルヴェーグの帰りを待っていた。
ジョヴァンニは川沿いの土手に足をぷらぷらとぶら下げて、ふいに何かに気付いたのか顔を上げた。
「どうかしたか?」
「お兄ちゃんのそれ、ぼく知ってる」
ジョヴァンニが指差してるのは、ヴィオが背負ったヴァイオリンだ。
これだけはいつも肌身離さず持ち歩いているので、今日も当然持ってきていた。ヴィオが持ち歩くことを予期していた執事のフォルトナーが知らぬ間に、背負って持ち歩けるようケースを特注で作ってくれていたのだ。
「見たことがあるのか?」
「うん。とっても綺麗な音がするでしょう。あのね、前に聴いたことがあるんだよ」
誰か知り合いにヴァイオリンを演奏する人間がいるのだろうか。
ジョヴァンニが鼻歌を歌いだす。調子は外れていたがヴィオにはそれがすぐに何の曲か分かった。
とても、馴染みのある曲だった。
「……それを、誰かが弾いていたのか?」
「うん。お兄ちゃんも弾けるかしら?」
「あぁ。聴くか?」
「本当? 聴きたい!」
パッと顔をほころばせたジョヴァンニの前でヴィオはケースを下ろすと、ヴァイオリンを取り出す。わぁ綺麗! と嬉しそうな声が響いた。
ヴァイオリンを構えると、小さく息を吐いて演奏を始めた。
J・S・バッハ「管弦楽組曲第3番BWV1068第2楽章『アリア』」
ヴィオが演奏するのはヴァイオリニストであるヴィルヘルミがソロヴァイオリンでの演奏用に編曲した『G線上のアリア』ではなく、バッハが作曲したニ長調の原曲の方だ。子どもに聞かせるにはどこか物悲しく、夕暮れ時を思わせるようなゆったりとしたメロディーが空気を震わせる。
この曲を弾くと郷愁のような感情が胸に去来する。メロディーはどこまでも優しく、美しい。
よく父が弾いていた曲だった。
父の私室から聞こえてくるその演奏が好きで、耳にすると自室の窓をすぐに開けた。窓辺にもたれながら、じっと演奏に耳をすませていた。
時間にしてほんの三分ほどだろうか。
子どもであればあまり長くては飽きるだろうと演奏を切り上げて、弓を持った手を下ろすと、ジョヴァンニは目を細めて笑って、手をパチパチと叩いた。
「お兄ちゃん、とっても上手だね。ぼくが聴いた人もね、とってもお上手だったんだよ」
「……ジョヴァンニ。その、君が演奏を聴いた人というのは──」
ヴィオが呟いた瞬間、遠くから『ヴィオ君!』と声がかかった。思わず振り返ると、町の方からベネデッティが駆けてくるところだった。
「先生?」
「ハァ、見つかってよかったよ……!」
ずっと探してくれていたのか、ベネデッティは息が上がっていた。
キョトンとしたジョヴァンニがヴィオの方を見上げる。知り合いだから安心しろ、とヴィオが言うとこくりとジョヴァンニが頷いた。
「昨日の話でね、思い出したことがあるんだ……っ」
肩で息をしながら、ベネデッティはそう言うと、呼吸を整えている。
「昨日の……、母の事ですか?」
「いや、違う。お父さんの方だ」
「父の?」
思わず前のめりになって聞くと、ベネデッティはようやく息が落ち着いたのか顔を上げて真っ直ぐにヴィオを見つめた。その瞳を見て、何か言いようのない不安が込み上げる。
真剣な顔をして、ベネデッティが重い口を開いた。
「君にとっては、良くない話になるかもしれないんだけど……」
◇
アルフ・ガロにとって、その日はいつも通りの一日のはずだった。
いつものように牛乳を売って、一時間かけて村に帰って、家の手伝いをして、夜は眠りにつく。そんな何でもない一日になるはずだった。
だけどその日は親にお使いを頼まれたせいで、いつもは軽いはずの荷車が帰りも重たかった。帰り道は上り坂が多くて、荷車を引くのに全く力にならない弟の存在にことのほか苛立ったのだ。
だからいつもならそんな事しないのに、その日に限って八つ当たりして、町に放っていってしまった。
『兄ちゃん!』
走ってくるジョヴァンニについてくるな! と怒鳴った。荷車も弾けないくせに迷惑なんだよ! お前はそこで待ってろ! とそう言ったのだ。
ジョヴァンニは馬鹿だから、アルフの言うことを聞いていつもの休憩場所の土手に座り込んだ。
日差しがいつもより強くて、道の脇を流れる川がとても気持ち良さそうで。それなのに自分はこうやって重い荷車を引いて村へ帰っている事にイライラした。
ジョヴァンニが全然家に帰ってこない事に気付いたのは、村へ帰ってしばらくしてからだった。
『アンタ、ジャンニはどうしたの?』
母に言われて、ハッとした。もしかしたら弟はずっとあの土手で待っているのではないだろうか。
『迎えに行ってくる!』
そう言ってアルフは駆け出した。
頭の中はジョヴァンニへの文句でいっぱいだ。待ってろ、って言われたからってずっと待ってる馬鹿がいるのか? アイツは犬か何かなのか? そう心中で悪態をつきながら、また町まで行くのかと苛立った。自分の足でジョヴァンニが帰ってくれば、アルフがこうしてまた町まで往復する必要なんてなかったのに。
荷車がなければ、町までは一時間もかからない。ジョヴァンニの姿が途中で見えないか確認しながら、アルフは走った。村までの道には足を踏み外せば川に落ちるような危なっかしい所もいくつかあるのだ。ジョヴァンニはぼんやりしているから、蝶に誘われて落ちたっておかしくない。
間の悪い事に昨日は雨で川の水かさは増えていた。もしかしたらどこかで溺れたりしてないだろうか、と考えると背筋が冷えた。
(くそ、何で俺がこんな心配……!)
そう思いながらも足を止めないのは、ジョヴァンニに待てと言ったのはアルフだからだ。ジャンニ! と弟の愛称を時たま叫びながら、アルフは町への道をひた走った。
『兄ちゃん!』
そして、前からジョヴァンニが歩いてくるのが見えたのだ。
ホッとしたのも束の間、弟は知らない大人と一緒にいた。誰だろう。ジョヴァンニは馬鹿だから、変な大人に騙されてなければいいけど。そう思って前もロクに見なかったのが悪かった。もしくは前の日が雨で、地面がぬかるんでいた事に気づかなかった事が悪かったのか。
アルフは足を踏み外したのだ。
道のギリギリを踏み込んで、足を滑らせた。
『────あ』
気付いた時には、川に向かって真っ逆さまだった。
衝撃はそんなに強くなかった。だけど息が出来ない。代わりに口の中に水が流れ込んできてパニックになった。
泳ぎは得意だった。
得意だったはずなのに、少しも泳げない。
水かさの増した川は容赦なくアルフを呑み込んだ。空気を求めて喘いで、水をのんで咳き込んで、そうするとまた水が入ってきて。苦しくて。
そうしてもがいている内に、強い力で引っ張り上げられるのを感じた。必死で息を吸うと、今度はちゃんと空気が入ってきた。
無我夢中で目の前にある誰かにつかまった。その誰かも、アルフを離さなかった。
『……大丈夫か?』
やがて声がした。にじむ視界の中、目に入ったその人の顔をアルフは今でも良く覚えている。
優しそうな人だった。
大丈夫だ。もう大丈夫だから。何度も、何度も。言い聞かせるみたいにその人はアルフに口にした。
ボヤけた視界の中で、鮮明に映る赤い色。
それが何を意味しているか、アルフには理解できなくて。
理解できないまま意識を失った。
そこからはほとんど何も覚えていない。ただその人に背負われて、村まで連れて帰ってもらったのだと、思う。思うと言うのは、そうでなくては説明がつかないからだ。大人は誰も、説明してくれなかった。
アルフが目を覚ましたのは、そこから二日後の事だった。
『……お前を助けてくれた人ならもう帰ったよ』
母と父は、そう言った。
だけどそう言う両親は、どうして自分と目を合わせないのだろう。どうしてそんな、ぎこちない笑顔を浮かべるのだろう。
どうして父と母は、知らない──に花を────。