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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.01 昔、一人の旅人が(10)

 ゴソゴソと部屋の隅で音がする。鼠だろうか。


 木箱に身体を預けたまま、リチェルは闇の中で光った一対の眼を無意識に視線で追いかける。

 放り込まれた時は身体中が痛かったけれども、今はもう痛みを感じない。幸い大きな怪我にはなっていないようだった。

 地下室に放り込まれて、二日が経った。


 やる事がなかったから、普段の短い睡眠時間を補うようにこんこんと眠った。

 時間の経過が分かったのは、夜間から明け方にかけてぐっと気温が下がるからだ。地下室には毛布の代わりになるものはなくて、その寒さにリチェルは何とか耐えた。

 今が冬でなくてよかった、と思う。冬だったらとっくの昔に凍え死んでいただろう。


 意識的に何も考えないようにした。

 不安になったら気持ちが潰されるし、それに応えてくれる人はいない。何も感じなければ良いのだ、と気持ちを殺す。ずっとそうしてきたから難しくはない。


 食事は二度、使用人が運んできてくれた。

 彼女たちはリチェルに話しかけることはなかったけれども、表情で気の毒に思ってくれていることだけは分かった。


(どこに売られるんだろう……)


 世情に詳しくないリチェルでもここにはいられない、と言うことだけは分かる。奥方の口ぶりだと、今より酷い扱いになることは想像するべくもなかった。リチェルはクライネルトの家しか知らないけれども、他を経験してきた使用人たちの話ではこの屋敷は随分良心的だという話だった。


(放り出されるよりも、良いのかしら……)


 だって放り出されてしまったら、リチェルはどうやって生きていけば良いのか分からない。ずっと自分は誰かの庇護の下で生きている。仕事の探し方も、そもそも何が出来ると言って良いのかも、良く分からなかった。


『でも、歌うのは好きだろう?』


 ふと、そんな言葉が頭をよぎった。

 

 好きだと思う。好きだと気付けた。

 その声と言葉は、リチェルの一番柔らかい部分を優しく揺らす。


 じわりと視界が揺らいだ。


「ぁ……」


 ポツリと熱い雫が手の甲に落ちた。


「なん、で……」


 思い出した声に触発されたみたいに、感情が戻ってくる。ポツポツ、と続け様に涙が滑り落ちた。朝の寒さでかじかんだ足と手は冷たいままで、思い出したように痛みだす。

 

 こわい。

 

 孤児院にいた時は、悪いようにはならないのだと信じられた。リチェルを引き取ってくれた紳士は優しかったし、歌えるのだと信じていた。

 歌えなくなった時は辛かったけれども、生きる場所だけは保証されていた。

 

 だけど、今からは分からない。

 どうなるのか分からない。

 きっともっと酷いことが起こることだけは分かっていて、それはとても怖いことだと言うことを、リチェルは自覚する。


(どうして、今更──)


 怖い、だなんて。


『君もそんな風に笑うんだな』


 ハッとした。

 そういえばもう、少し前からリチェルは感情を思い出していた。

 悲しいも、楽しいも、嬉しいも、好きも、全部。

 

 ヴィオに会ってから思い出した。 

 

 身体から力が抜ける。それなら、仕方ないのだとすとんと受け入れた。

 

 だってあれは奇跡だった。

 リチェルにとっては、神様がくれた宝物みたいな時間だった。

 

 その代償が今感じている恐怖なら、リチェルにとってそれはもう仕方のない事だ。

 震える声でぽつ、ぽつ、と歌い出す。


「 Auf Flügeln des Gesanges 」

 

 屋敷の中で歌うなんて、正気の沙汰じゃない。

 イルザに聞かれたら言い訳のしようもないけれども、怖い、と言う感情に対して抗う手段はもうこれしか持ち合わせていなかった。


 小声で歌いながら、あのヴァイオリンの音色を思い出す。それだけで、手足の痛みも、恐怖も温かく包み込まれるような気がした。

 

 出来る事なら最後に一度だけ会いたかった、と思って首を振る。


 ただでさえリチェルは身分の低い使用人で、奥方の不況を買った今となっては顔を合わせるだけで迷惑がかかってしまう。だからこれできっと良かったのだ。


 どれだけ酷い環境が待っていたとしても、ヴィオとの思い出はこれからリチェルの心を温める陽だまりみたいになるだろう。


 目を閉じて、リチェルはただ歌い続ける。

 

 だから地下室の入り口がにわかに騒がしくなっていることには気づかなかった。耳を澄ませば聞こえる使用人の足音も、歌い続けるリチェルの耳には聞こえない。地下室に差し込んだ光が、スッと一筋の線を引く。


「────」


 違和感を感じてリチェルが瞳を開いた。

 

「リチェル?」


 聞き覚えのある声が、リチェルの名を呼んだ。

 ぱちりと目を開いて、驚いたようにパッと振り返る。


「……ヴィオさん?」


 空耳かと思った。


 だけど地下室の入り口にいたのは、間違いなくヴィオだった。その後ろではクライネルト家の使用人が少しだけ戸惑った様子で、鍵を持ったまま佇んでいる。


 床に腰を下ろしたまま、リチェルは呆然として入り口にいるヴィオを見つめていた。


「ちょっとあなた……っ」


 慌てたようにリチェルを嗜めようとした使用人を、ヴィオの手が制した。それにようやく自身の不作法に気づいて、リチェルはヴィオから目線を外した。


「こちらでお待ちください。私が連れて参ります」

「構わない。主人の許可は取っている」


 穏やかな声で返されて、使用人は大人しく引き下がる。軽い足取りで地下室に降りてきたヴィオにリチェルは戸惑うばかりだった。


「立てるか? 手を」

「た、立てます!」


 急いで返事をして立ち上がろうとしたが、かじかんでいる足の指は力が入らない。気づいているのかいないのか、ヴィオは差し出した手を引っ込めようとはしなかった。その手をリチェルはじっと見ているだけしかできない。

 だって、手を取っていいか分からない。


 黙っていると、ヴィオが気遣うようにリチェルの手首をそっと引っ張って立たせてくれた。


「……ありがとうございます」

「あぁ。歩けるか?」

「はい」

「それなら良かった。おいで」


 促されるままに、リチェルはヴィオの後に続いて地下室から上がる。

 事情を知っているのか、ヴィオはリチェルが地下室にいた事に対しては何も触れなかった。ヴィオの後をついて歩きながら、後ろを歩く使用人がチラチラと不躾な視線をリチェルに投げかけてくる。当然だが、彼女たちも何も知らされていないのだろう。


 屋敷の中に足を踏み入れたことのないリチェルは、どこを歩いているのかも分からなかったが、やがて辿り着いた場所は玄関ホールだった。


 そこに立っている人物の姿を目に留めて、リチェルは急いで頭を下げた。


「無理を言って申し訳ありません」


 そう言ってヴィオが目の前の御仁、クライネルトの当主であるゲオルグに歩み寄ると頭を下げる。


「いや、これで良かったのでしょう。……君、彼が君の新しい引き取り手だ。急ではあるがこのまま屋敷を出なさい」

「は、い……」


 途中からの言葉が自分に向けられたものであることを、リチェルはどこか夢のような心地で受け取った。当主の言うことに無論口答えなどする訳にもいかず、リチェルはただ頭を下げる。


 だけど混乱したままチラリとヴィオに視線を向ける。それに気づいたのか、ヴィオはリチェルを落ち着かせるように小さく頷いた。


(……?)


 ふと、ゲオルクの視線が自分に向いていることにリチェルは気付いた。だがゲオルクが物言いたげにリチェルを見たのは一瞬で、すぐにヴィオに向き直る。


「では、お気をつけて」

「はい。失礼します」


 短いやり取りだった。

 当然と言えば当然だ。使用人の引き渡しに当主が出てくる方が、普通であればどうかしている。


 ヴィオに促されてリチェルはヴィオに付いて家から出て行こうとする。背後でゲオルクが背を向けたのが分かった。

 きっとこれで最後だ。

 そう思ったら、リチェルはパッと身を翻していた。


「あ、あの……!」


 突然声を上げたリチェルに、ゲオルクに付いていた執事が口を開こうとして、当のゲオルクに手で制されて黙った。


「……何かね?」


 視線は温かいものではなかった。緊張で口の中が乾く。それでもこれが最後ならば伝えなければいけないことがある。



「わたしを、置いてくださって、ありがとうございました──」



 そう言って、深く頭を下げた。


 ゲオルクは頭を下げたリチェルを静かに見下ろしていた。そしてふぅ、と長く、深く息をつく。


「元気でやりなさい」


 一言そう告げると、今度こそゲオルクは背を向けた。リチェルもそれ以上は何も言わず、もう一度深く礼をするとヴィオの後ろに付いていく。


 バタン、と扉が閉まった。

 


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