op.13 偉大な芸術家の思い出に(3)
ヴィオが廊下に漏れる明かりに気付いたのは、夜も更けてそろそろ休もうかという頃合いだった。
扉の隙間から、ランプに火を灯して書き物をしている医師の後ろ姿が見える。その姿にどこか既視感を覚えた。
(よく父上も夜遅くまで仕事をしていたな……)
幼い頃、寝付けない夜は時たま父の書斎を訪れた。
扉の隙間から揺れる灯りを見るとほっとしたものだ。大抵父はすぐにヴィオが来たことに気づいて、部屋の中へ迎え入れてくれた。父の書斎にあるソファでソルヴェーグが淹れてくれた温かいミルクを飲みながら、ただ父の仕事姿を見ている時もあったし、父が仕事の話をしてくれることもあった。
共通していたのは、いつも気づけばヴィオは書斎で寝入っていて、朝は自分のベッドで目を覚ましたことだ。大きくなるにつれ、夜父の書斎を訪れることはなくなったが、たった一度も早く寝なさいと追い返されたことはなかったように思う。
ベネデッティの机は雑多で、所狭しと本や紙が積み上げられていた。どこか父の姿がかぶったのは、恐らくベネデッティの温和な物腰が父の持つそれとどこか似ていたからだろう。
部屋に戻ろうと、足を引いた瞬間廊下がかすかに軋んだ。
「ん?」
その音に気付いたのだろう、ベネデッティが振り返って目が合う。
おや、と言ってかけていた眼鏡を外して机に置くと、ベネデッティは部屋の前に出てきてくれた。
「すみません。覗くつもりはなかったのですが」
「いや、いいんですよ。ちょうど行き詰まったところだったんです。良かったら少しお話しでもしますか? コーヒーでも入れますよ」
ベネデッティの提案に、ヴィオは目を瞬かせた。
『眠れないのか? それなら何か温かいものでも飲んでいくといい』
不意に耳の裏に蘇った声に、かすかに動揺した。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
少し思案して、ヴィオは頷く。もう休むつもりではあったが、ヴィオも考える事が多くてすぐに寝つけそうにはなかったから。
「そうですか、お母様が」
執務室の椅子に座るベネデッティが心配そうに相槌を打った。
話をしている内に父がどうしてここを訪ねたと思うのか、と言う話になり母のことを話したのだ。元々父の目的も母の病気の事だったのだから、話しても特に問題はないだろう。
「確かに症状をきくと、僕に話が来るのは分かります。僕が見ているのは一般的には神経症と呼ばれる症状なんです。記憶の混濁はありえますし、足の痺れも確かに……。でもお母様は元々お持ちの病気もありますし、それだけではなく併発している気もしますね……」
「特に外傷がある訳ではないのですが」
「脳の損傷は外傷だけが原因になるとは限りませんからね。脳という器官は僕らにとってはまだまだ未知で、どんなに優秀な医者でも全ての傷が見えるとは限らないのです」
どちらにせよ本人に会わないことには……、とベネデッティは目を伏せる。そうですか、とヴィオは息をついた。母を国外まで連れ出すのは難しいだろう。とはいえ、ベネデッティに往診に来てもらうにはあまりに距離が遠い。
「それにしても隣国からこんな所まで来られるとは。お父様は余程お母様を大事になさっていたのですね」
不意にベネデッティがこぼした言葉に、ヴィオは顔を上げた。
大事に思っていたから、家を出た。その言葉はヴィオの中では矛盾する。
「……そう、でしょうか」
気付けばそう口に出していた。
「大事にしていたのであれば、むしろそばにいるべきなのではないでしょうか──」
それはこの旅が始まってから、一度も他人に吐露した事がないヴィオの本音だった。
家を出てから少しずつ、ディートリヒの事を理解出来るようになってきたと思う。それでも唯一、どうしても理解できない事は初めから変わらない。
どうして他でもない貴方が、家を出なければならなかったのだと。
母が大事ならそばにいて、病気の事は他人に任せた方がいい。実際父は医学に関しては門外漢だしそうすべきだろう、と思う。父が自ら探しにいく必要などどこにもない。
言ってしまってから、それを口に出した自分に驚いた。
その疑問を口にしてしまったのは、ベネデッティが父に少し似ていたからで、同時に決して父ではなかったからかもしれない。
だけどそれ以上に多分、ヴィオ自身がこの旅で変わったからだ。他人に対してどこか線を引いていた自分が、色んな人に触れて、変わってきた結果なのだろう。
ベネデッティは目を瞬かせて、やがて柔らかく微笑んだ。
「えぇ。大事にしていたから、ですよ」
お父様は本当にお母様のことが大事だったのです。とベネデッティは繰り返す。
「ヴィオ君。本当に大事なことは、他人に委ねられないんです。信頼していないとか、力があるとかないとか、そういう事じゃない。理屈じゃなく、自分でなくてはダメだと思ってしまうことが人にはあるのです。例えそれが、他人から見れば愚かな選択だったとしても」
ヴィオ君にはありませんか? とベネデッティが尋ねる。
「自分じゃなくても良いと分かっていても、どうしても動いてしまう時はないでしょうか?」
聞かれた瞬間、脳裏によぎったのは一人の少女の事だった。
言葉を詰まらせたヴィオに、思い当たることがあるようですね、とベネデッティが優しく笑う。
「それは決して愚かなことではありません。何かと比べる必要などありません。他人が見て愚かでも、それは貴方の心にとってはとても大事なことなのですよ。大事にしてあげていいのです」
きっとお父様も、と穏やかな声が紡ぐ。
「お母様のことが何よりも大事で、自身で動かずにはいられなかったのでしょう」