op.13 偉大な芸術家の思い出に(2)
リコルドはクレモナの西側にある小さな町だ。
思いのほか早く馬車を確保できたのが功を奏して、町に着いた時にはまだ日は沈んでいなかった。
「これからどう致しましょう」
「一旦宿を取りたいところだが、思ったより早く着いたからな。サルヴァトーレさんが言っていた診療所までこのまま行ってしまおうか」
日が沈むまでは小一時間と言うところだろう。
今話ができないのであれば、明日の早い時間で面会時間を確保したい。リチェルをカステルシルヴァに置いてきている事もあるし、出来る限り滞在時間は短縮したかった。幸いヴィオとソルヴェーグだけであれば、多少遅くまで動いても構わない。
町の人に聞くと、すぐに診療所の場所は教えてもらえた。
礼を言って、ヴィオとソルヴェーグは歩いて診療所に向かう。
診療所はリコルドの外れに位置していた。
周りは閑散としていて、人の気配がない。本当に医者がいるのかと疑わしく思いながら、扉をノックをすると『はい、ただいま!』と意外にもすぐに明るい男性の声が返った。
少しだけ待ってくださいね、という言葉の数分後、医師と言うよりは実業家にでも見える若い男がヒョイと扉から顔を出した。
「おや、お客さんですか? お茶でも飲みに来たのかな?」
朗らかな男性の態度に正直面食らった。
男性の態度は、ヴィオの知る医師とは種類の違う気さくなものだ。歳は父より少し若いくらいだろうか。
「あ、いえ。突然すみません。実はお尋ねしたい事があってお伺いしたのです。少しお時間をいただく事は可能でしょうか?」
「なるほど。ではお茶ですね。用意しますので、中の椅子にかけてお待ちください」
にこやかに笑って男は診療所の中に入っていった。ソルヴェーグと顔を見合わせて、とりあえずヴィオ達も診療所の中に入る。
中の様子もヴィオの知る診療所とは一風変わっていた。ソファにテーブルが置かれた部屋は、診療所というより応接室と言った方がしっくりくる。
「どうぞ」
湯気を立てた飲み物は紅茶で、香りからハーブを使ったものだと分かる。
元々ヴィオは紅茶をほとんど飲まなかったが、リチェルが紅茶を好んでいたので最近は口にする機会も増えていて以前よりは親しみがあった。
新しい茶葉を口にすると、リチェルが嬉しそうに教えてくれるのだ。
戻ってきた医師はベネデッティと名乗った。挨拶もそこそこに父のことを聞くと、内容が意外だったのかベネデッティは目を丸くする。
「おや、ということは本当に僕に用があっただけなのですね」
「そうです。失礼ですが、患者か別の用かはすぐに分かるものではないのでしょうか」
ヴィオが不思議に思って尋ねると、ベネデッティは朗らかに笑った。そうですね、普通は。と含みのある返事をこぼす。
「僕のところに来る患者さんは、他の病院では仮病だと言われ続けた人が多いですから。自分を病気だと口にすることや、そもそも医者自体を怖がっていたりするんですよ。だからまずは気を楽にしていただこうかと。そういう病院ですからここは」
笑ってそういうベネデッティの言葉に自虐的な響きはない。
この診療所の専門はサルヴァトーレに聞いている。ベネデッティは精神に関わることを専門にする医者だ。ヴィオも母親の病気がなければ、そう言った分野がある事を知ることは無かったかもしれない。
心の疾患というのは、一般的にはほとんど認知されていないし、信じていない人間の方が圧倒的に多い。実際下手に口に出すと余計な隙になるから、母の病状は外部には秘されているのが侯爵家の現状でもある。
「あまりに医者らしい格好をしていると、それだけで緊張してしまう患者さんが多いので、僕の所へはお茶を飲みにくる気分でどうぞ、とお話をするんです。こんなだから同業者からは爪弾きにされているのですけどね」
穏やかに口にして、それでお父様のことでしたね。とベネデッティが言う。
「とても残念な事なのですが、実を言うと僕には覚えがありません」
予想外の言葉だった。
「ディルク・ローデンヴァルトさん、ですよね? うちに来た患者さんの中にはいないな。これでも記憶力は良い方なので、いらした方の名前はおぼえているはずなんですが」
「来ていない、ですか……?」
「えぇ」
うなずいたベネデッティには嘘をついている様子はない。そもそも嘘をつく理由もない。ソルヴェーグが『立ち話をされたなどと言うこともないのでしょうか?』と重ねて聞いたが、ベネデッティは首を横に振る。
「ここに来ているのは間違いないのですか?」
「そうです。父は知人の紹介で先生の元を訪ねているはずです。余程の事がない限り、行かないと言う事はないかと……」
そう言いながら考え込む。
途中で引き返したとすれば理由は二つ。必要がなくなったか引き返さざるを得ない事情が出来たかだ。だが実家に連絡があった形跡はないし、今の所どちらの要素も見当たらない。
「なるほど。それは心配ですね。もしかすると町には来られたかもしれませんし、一度町の方を当たってみてはどうでしょう」
「そう、ですね……」
「ただ今日はもう遅い。良かったら泊まって行かれますか? 遠方から来られる患者さんもいるので部屋はありますよ。この町には宿はありませんから」
ソルヴェーグがヴィオの代わりに『それは有難いです』と返事をしてくれる。確かに気づけばもう日は沈みかけていた。ヴィオ達が座る部屋ももう随分と薄暗い。
「暖炉に火をいれなくてはいけませんね。上に移動しましょうか。案内しますよ」
そう言うとベネデッティは立ち上がる。
「ありがとうございます」
遅れて礼を伝えながら、ヴィオは重苦しい気持ちを押し殺す。実家の状況を考えると、ここで痕跡を見失うわけには行かないのだ。何としても、父親の消息を掴まなければいけない。