op.12 月に寄せる歌(10)
雨が、降っていた。
土砂降りの雨だ。
お腹のところで、何よりも大切な、温かな生命が静かに呼吸を繰り返していた。
宿の人は明日にすればいい、と言ったけれども一日も早く離れなければいけないと思った。
そばにいればいるほど、愛しさは募るから。
一日でも早く、この子のそばにいられる父親になりたいから。
たどり着いた孤児院の入り口でベルを鳴らす。二度鳴らして、少し厳しそうな目をした修道女が扉を開けてくれた。
「……何か御用でしょうか?」
それは思いのほか硬い声で、僕は少したじろいだ。
怖い人だったらどうしようか。この人に預けても良いのだろうか。そう思いながら、大切な包みを注意深く懐から取り出す。
「まぁ」
包みから伸びた小さな手に、修道女の表情が和らいだ。
それだけで、僕は大丈夫だと思った。この人はきっとこの子を大事にしてくれる、そう思えた。
小さな身体を包む臙脂の布は、僕の部屋に置いてあった彼女の忘れ物だった。きっと、この子が持っているのが一番良い。
修道女は僕に中で休むように言ってくれたけれど、僕は一刻も早くこの場を離れたかった。
だって、一秒でも長くそばにいれば決心が揺らいでしまいそうだったから。
「この子を預かっていただけませんか?」
焦燥感でいっぱいになりながら、僕は必死で何とかそれだけを口にする。
「いつか必ず迎えに来ます。どうか、この子をお願いします」
僕が、きちんと君を育てられるようになったら。一人前のヴァイオリン職人になったら。きっと迎えに来るから。
そう言って帰ろうとした僕を、その人は引き止めた。
「待って。せめて火に当たって行かれてはどうです?」
きっと優しい人なのだろう。だってこんな怪しい僕を気遣ってくれる人なのだから。この人なら大事な子どもを預けてもきっと大丈夫だと、僕は自分に言い聞かせる。だからもう、行かなくちゃ。
「必ず迎えに来ます」
そう言うと、彼女は少し迷って、ずっと預かれる訳じゃないのだと説明してくれた。
僕は少し恥ずかしくなった。気を遣われただけじゃなくて、子供を預ける時にはきっと説明しなければいけない事もたくさんあるのだろう。
大人しく話を聞くと、彼女は孤児院も無限に子どもを預かれるわけではなく、子どもたちはある程度の年齢になったら奉公に出されるのだと言うことを丁寧に説明してくれた。
その歳は十二歳くらいが一般的だと聞いて、僕は胸を撫で下ろした。きっとその前には、迎えに来れるはずだから。
「それでも、その前に迎えに、来ます」
仕事と掛け持ちをしながらだから、当初の予定よりは長くかかってしまうけれど、あと五年もあればきっと一人前になれるはずだ。そう頭の中で計算しながら、僕はそう口にした。
彼女は僕の言葉に呆れたようにため息をついて、だけど赤子を僕に返そうとはしなかった。
代わりに、別のことを聞かれた。
「最後にお名前を教えてくださる?」
「あぁ、えっと……」
慌てて自分の名前を口にすると、彼女は首を振る。
「貴方ではありません。この子の名前です」
そう言われて、僕はこの大事な大事な命に、一番最初の贈り物をしていないことに気がついた。
──ぁ、ぅぅ。
いつの間にか起きたのか、リゼルさんの瞳をかすかに薄くしたような淡い緑の瞳が僕を見ていた。小さな手が、まるで別れを知っているかのように僕の方を向いて伸ばされる。それだけで、胸がいっぱいになった。すぐに胸に抱いて、今すぐ元来た道を連れて帰りたくなる。
この子はリゼルさんと僕の、愛しい娘なのだ。
手を伸ばしたい衝動を必死で押さえた。今日が土砂降りの雨で良かったと思う。涙が頬をつたっても、雨だと誤魔化せるから。
(名前……)
こんな大事なことをどうしてきちんと考えてこなかったのだろう。自分の中で今まで出会った人たちの色んな名前を思い浮かべながら、僕は必死で考える。その時──。
『リチェルよ。どうぞリチェルと呼んで下さいな』
僕の人生に春を呼んだ、明るい声が耳の奥に蘇った。
「……ル」
忘れもしないあの春の日。
僕は春の妖精に出会い、そして恋に落ちた。
この子はその結晶だ。
だからきっと、ふさわしいのはこれしかない。
「リチェル、といいます」
それは僕があの日出会った愛する女性の名で──。
この先僕が生涯をかけて愛を注ぐ、たった一人の女の子の名前だ。