op.12 月に寄せる歌(6)
「町に着くまであと二時間ほどはかかるそうです。どこかで休憩を挟みましょうか」
馬車の前に座るソルヴェーグの言葉に、ヴィオは頷いた。ここ最近は馬車での移動も多く慣れたものだが、どこか違和感を感じるのはきっとリチェルがいないせいだろう。
『リチェル、ちゃん……?』
あの後リチェルの名前を知っていた年配の職人はすぐに勘違いだと弁明していたが、リチェルの事情を聞いて何かしら納得したらしい。
話を聞こうとしたが、まずは親方から聞いてほしいの一点張りだった。
『親方が今手を離せなくて申し訳ないんだが、ミケの話は俺から中途半端に聞くより親方から直接聞いた方がいい』
その後ならいくらでも思い出話はする、と語る言葉は誠実なものだった。
ソルヴェーグとの合流の時間もあり一度宿に戻って、再び三人で工房に出向いたのだが明日まで親方の手は空かないということだった。
『ヴィオ、私は残るからお二人はどうかお父様の方を優先して』
予想通りリチェルはそう言った。
その言葉にいつものように付き合うと言えなかったのは、今回はそう出来ない理由があったからだ。
一つはソルヴェーグが手配した馬車が早ければ、今日の内には出発出来ると聞いたこと。
もう一つは思っていた以上に本家の状況が良くないと分かったことだ。
リチェルの事はヴィオの私情で、それ以上に優先しなければならない事がヴィオにはある。
その順位だけは、ヴィオが絶対に違えてはならない一線だ。
それでも迷ってしまったのは、どうしようもない自分の弱さだと知っていた。
どちらにせよいつかはリチェルと離れなければいけない。
勿論リンデンブルックには送り届ける気ではいたが、それだって送り届けるのがヴィオでなくてはいけない理由はどこにもない。
本家の状況次第ではヴィオはリチェルを置いて帰らなくてはいけないし、必ずしも最後まで一緒にいられる保証はないのだ。
『ヴィオさん。用事があるならリチェルをしばらく預かりましょうか?』
迷うヴィオに、そう切り出したのはマルコだった。
『俺の家、最近姉貴が嫁いだばっかりで部屋が空いてるし、母親も寂しがってるんで大歓迎だと思いますよ』
『本当ですか?』
リチェルが嬉しそうに手を合わせる。
まぁ、俺は工房にいるから家にはいないけどな! と引き受けておいて自信満々に言い放つマルコは別段ヴィオに気を遣った風でもない。ただ単に本当に都合が合ったから提案しただけなのだろう。それが逆に有り難く思えた。
『……頼んでいいか』
結局そう言うと、マルコはパッと顔を輝かせた。任せてください! と言うマルコに、リチェルも安堵したような表情を見せる。
リコルドへの滞在がどれくらいになるかは分からなかった。だけど長くかかるならまたその時に考えることにして、ヴィオは一旦リチェルと別れた。
きっとリチェルも父親の話は気になるだろうし、そうするのが一番だと思ったのだ。
「ところでヴィオ様。フォルトナーからの連絡についてですが……」
ソルヴェーグの言葉に我に返った。
あぁ、と返事をしてすぐに思考を切り替える。ソルヴェーグが言及したのは本家からの連絡の文についてだ。
トトに断って、本家の執事であるフォルトナーからの連絡先をトトの店に指定していたのだ。ラクアツィアの帰りにカスタニェーレに寄ったのは、フォルトナーからの連絡が来ていないかを確認する為だった。
「……あまり良くはないな」
そう答えて、昨日目を通した手紙の内容を思い出す。
叔父であるルートヴィヒがヴィオに対して苛立ちを募らせているのは想定内ではあるが、そのルートヴィヒが連れてきたマイヤーがいよいよ動き出したらしい。
父と叔父の方針はほぼ真逆で、昔から良く意見は対立していた。
叔父は軍に入った頃から、領地の経営は父の領分だと割り切り何も口に出さなくなったが、代理を任されてはそうもいかない。父は本家より領地の運営に資金を使う傾向にあったが、その予算配分に問題があるとマイヤーからの指摘を受けたそうだ。
「フォルトナーは私に比べてルートヴィヒ様との関係が薄い。それにアレは家令ではなく執事です。肩書きや役割をルートヴィヒ様は重んじますので」
「領地の経営には口を出し辛いだろうな」
ヴィオの生家であるヴィッテルスブルグ侯爵家では、財政や実務を管理する家令を置いていない。
ヴィオの父であるディートリヒが領主として卓越した手腕を持っていたからでもあるし、執事のソルヴェーグとその妻であるメイド長のエレオノーレが非常に優秀だったこともある。
本来執事の領分である私的な空間の事務をエレオノーレが一部肩代わりする代わりに、ソルヴェーグが家令の業務の一部を担っていたのだ。
フォルトナーに代わってからも、ディートリヒはその傾向を変える気は無かったらしく、ソルヴェーグもそのつもりで後継であるフォルトナーを育てていた。それがルートヴィヒからすると気に食わないのだ。
執事は執事の領分の仕事をやれば良い、と言うのが軍属の縦割り社会に馴染んだルートヴィヒの考え方だった。今思えば、初めからそのつもりでルートヴィヒはマイヤーを連れて来たのかもしれない。
実際手紙にはマイヤーが積極的に屋敷の人員を入れ替えようとしたという動きも書かれていた。
「人員の編成は流石にルートヴィヒ様が止めてくれたようで良かったです。自分はただの代理だから、お父君が配置した人員を咎もなしに勝手に変えるわけにはいかないと思ったのでしょう」
「だが新しい人間を引き入れ始めてはいるのだろう」
「そうですね。マイヤー殿の弱みは侯爵家が全く縁もゆかりもない場所であることです。まずは周りの地盤を硬めにかかるのは定石かと」
「……気に入らないな」
ぼそりと呟く。
地盤を固めに動いていると言うことは、今後も侯爵家に根付くつもりだと言うことだ。それはディートリヒやヴィオの存在を完全に無視していると言う事でもある。
「叔父上は自分からあの家の当主の座を欲しがるようなお人ではないはずだが……」
「それはもちろんです。ルートヴィヒ様はお父君とは意見が合わなかっただけで、実力は認めていらっしゃいます。ヴィクトル様が後継であることについても口を出したことは一度もありません」
「その事を考慮に入れていない、訳はないだろうな……」
恐らくマイヤーはルートヴィヒの性格を熟知している。
フォルトナーの立場を押さえて、どこまで内部に手を入れられるかも冷静に判断していると考えてまず間違いない。
(何か、見落としている)
そしてそれは決定的な何かだ。
叔父上が自分こそ当主につくべきだと思わせるような何かが、マイヤーの算段には確実に練り込まれているはずだ。それが何かが全く分からない。
(それにマイヤーの考えには絶対的に必要な要素が欠けている)
そしてその要素をひっくり返すための手段は、運しかないのだ。
「ソルヴェーグ」
「何でしょう」
「一旦は父上の消息を掴むのが最優先だ。どちらにしろ今の状況だと動きようがない。引き続きフォルトナーから定期連絡をもらう為のルートは確保しておいてくれ」
かしこまりました、とソルヴェーグが頷く。
「ヴィクトル様。もしルートヴィヒ様と対立するような事態になった場合はどうなされるおつもりですか?」
「叔父上と対立するつもりは俺にはない。だが叔父上の意志を、家の今後を操作しようとする人間がいるなら手加減するつもりもない。それだけだ」
淡々と言い切ると、ソルヴェーグは微笑を浮かべて『御心のままに』と頭を下げた。
そのまま馬車の中には沈黙が降りた。
カタカタと揺れる音を聞きながら、家のことについて思考を巡らせていると、不意にソルヴェーグが口を開いた。
「ヴィクトル様。出過ぎた事を一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
それはいつも冷静であるソルヴェーグからはついど聞かない、迷いのある声音だった。
「何だ?」
「リチェル殿の事です」
静かに口にされた名前に、心臓が跳ねた。思わず黙ったヴィオをソルヴェーグは静かにじっと見据えている。
「…………」
軽く目を閉じると、ヴィオはゆっくりと息を吐き出した。
(いつか……)
いつか聞かれるとは思っていた。むしろ今までずっと黙っていてくれたことは、ソルヴェーグの優しさ以外の何物でもない。一度跳ねた心を鎮めて、ヴィオはソルヴェーグに向き直った。分かった、と答えて笑う。
「何が聞きたいんだ?」
そう、出来るだけ落ち着いた声で問いかけた。もう何を聞かれても、きちんと答えるつもりだった。
「リチェル殿を、これからどうされるつもりでしょうか」
「もちろんサラさんの所に連れて帰るよ。元々そう頼まれていたんだから」
「それ程大切に想っていらっしゃっていても、ですか?」
「…………」
息を呑んだ。
目を瞬かせて、ソルヴェーグの言葉を反芻する。長年一緒にいるのに、リチェルの話になるとこの忠臣の考えていることが本当にヴィオには分からなかい。
どう答えるべきか迷って、正解を探そうとして、やめた。
「──そうだな」
代わりに、ただ自分の気持ちを認めた。
大切に想っている。
きっとソルヴェーグが言っているのはただそれだけの意味ではなく、ヴィオもそのつもりで答えた。
「お前には、本当に心配をかけたと思っている。家に戻った時にもし追求されることがあるとしたら、間違いなくその点だから。私情を通したことも、ここまで何も言わずについてきてくれたことも、本当に感謝している」
自分の肩にかかっている物の重みを忘れた事はない。
ソルヴェーグはヴィオではなくディートリヒに長く仕えている人間だ。ソルヴェーグの忠誠はヴィオではなく、侯爵家にある。だからリチェルのことは、ヴィオに対して十分に心を砕いてくれた結果だということを知っている。
今まで恋愛や結婚の自由が自分にあると思ったことはない。
貴族の家の婚姻は何より家が優先されるものだ。家の存続や利益を考える上で欠かせないカードだと言ってもいい。ヴィオの場合は一人っ子だった為、手札は一枚きりだ。自由に相手を選ぶ権利などないし、自分がそれを望むことがあるなどとは今まで考えたこともなかった。
リチェルに出会うまでは。
他人がずっと隣にいることが、少しも苦痛でなかったのは彼女が初めてだった。
誰かが隣にいて、こんなにも気持ちが穏やかになることがあるのだと初めて知った。
彼女が笑うと嬉しくて。
彼女が望むことがあるなら全て叶えたいと思った。
出来るならずっとそばにいたいと、いつしか強く願っていた。
(だが──)
息をついて、ヴィオはソルヴェーグに向き直る。
「……お前の心配しているような事は決してしないから、どうか安心してほしい」
ただそれだけを、真摯に伝えた。
自分の気持ちに気づかなければ、そばにいる事を許される気がしていた。
だけどそれももう終わりだろう。リチェルと一緒にいたかったのはヴィオの願望で、この旅の間だから許された奇跡みたいな時間だった。
「もし……」
ソルヴェーグが静かに口を開いた。
「もし?」
「御身が望むなら、リチェル殿をそばにおくことは不可能ではないと思いますが……」
予想外の言葉に目を見開く。だがすぐに苦笑した。
「それをお前が言ったらダメだろう」
家のことを想うなら、ソルヴェーグは絶対にそれを言ってはいけない。
(……あぁ、でも)
そう言うことか、と腑に落ちた。
ソルヴェーグの今までの言動をようやく理解した。
きっとこの忠臣は随分前から、家のことを考えながら同じくらいヴィオの気持ちを重んじてくれていたのだ。切り捨てた方が楽な感情と、ずっと真剣に向き合ってくれていたのだ。
ともすれば、それは初めから諦めていたヴィオ以上に。
「──だけど、ありがとう」
静かにそう口にすると、ソルヴェーグがぐっと言葉を呑み込んだのが分かった。
それだけで、どれ程ソルヴェーグがヴィオを想ってくれていたかを理解する。
だからずっと、言わずにいた事をヴィオも口にした。
「本音を言うと、考えたことがないわけじゃない」
貴族階級の者が爵位のない市民階級から妻を迎え入れた事例はないわけではない。
爵位があると言うことはそれだけで力を示すわけではなく、都市部の資本家たちや大土地経営者の力は馬鹿にできない。
きっと今後もその勢いは衰えることはないだろう。ともすれば、古くからある階級制度は終わりに向かっているのかもしれない。だけどそれはきっとまだ何十年も先の話だ。
階級を超えた婚姻はそれなりの理由を必要とする。
血と爵位を欲する有産層と、彼らが有する資産を必要とする貴族の間で婚姻関係が交わされる例がない訳ではないが、あくまでお互いに利があってこそ実現する事だ。
だけどリチェルには、何もない。
あの社会で彼女自身を守れるものを、リチェルは何一つ持っていない。
(いや、例え持っていたとしても──)
「……母上でも、ダメだっただろう」
ポツリとこぼした言葉に、ソルヴェーグが目を見開いた。
「ヴィクトル様……」
「お前が何と言うかは分からない。だけど母上が幸せだったとは俺には思えない」
ヴィクトルの母親であるマルガレーテは、皇家の遠戚だ。
公爵家の令嬢。本来であればもっと有力な家に、引いては皇家にさえ嫁ぐ事も出来た彼女は、侯爵家に嫁いだ時『下げ降ろされた』と周りに揶揄された。
原因は明確で、マルガレーテが病弱だったからだ。
貴族にとって家の血を繋ぐことは、後継を産むことは嫁いだ娘の大事な役目だ。
マルガレーテは唯一ヴィオは産めたものの、身体が弱くそれ以上子どもを産むことが出来なかった。
幼いヴィオの耳にさえ入ったことがある陰口は、一体どれくらいの頻度で母の耳に入っていたのだろう。
「父上が母上を大事に思っていることは知っている。母上も父上を心から愛しているだろう。だけどそれでも、母上は心を壊したんだよ」
きっとマルガレーテにとっては、ディートリヒだけが救いだった。だけど父は忙しく、会えない時間を『仕方がないのよ』とマルガレーテはいつも自分に言い聞かせるみたいに口にした。
『父様は、母様がお役目を果たせない分まで頑張ってくださっているの』
寂しそうに笑っていた母は、一体どんな気持ちでその言葉を息子に言ったのだろう。
そうして彼女は持ち堪えることが出来なかった。
「もちろんお前達の事を悪く言うつもりは全くない。うちに仕えてくれる使用人にはお前やエレオノーレ、フォルトナーを含めて、本当に恵まれていると思う。だからこそ、今の環境でも母上の心を守れなかった場所が俺のいる場所だと分かるんだ」
諦観ではなく、事実として受け止めている。リチェルは……、と小さく呟く。
リチェルはただ純粋で、心が優しいだけのただの少女だ。
その価値はヴィオにとってはかけがえのないものでも、他の人間にとってはそうではない。
「俺は家を守らなきゃいけない立場で、俺の肩書きはリチェルを守るどころか傷つけるものになるだろうから」
ずっとそばにいる事なんて物理的に出来ないのだ。
家を空けることも多いだろう。
あらゆるものから守るだなんて、そんな無責任なことを言えるわけがない。
リチェルには笑顔でいて欲しい。
誰より幸せになって欲しいと思う。
だったら、わざわざ傷つく場所に連れていく必要なんてない。
「だからリチェルはサラさんの所に帰すよ。そう決めてる」
「…………」
ソルヴェーグはヴィオの言葉を、ただ黙って聞いていた。
ヴィオの言うことを肯定する訳でも、否定する訳でもなく、黙ったまま。
ただ思い詰めたように、静かに目を伏せた。