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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.01 昔、一人の旅人が(9)

 いつものように薪を取ってこようとしたリチェルに声をかけたのはアンナだった。ハウスメイドのまとめ役であるアンナが、普段リチェルに直接声をかけることなどない。見かけることも珍しい。

 

 そういえば前回の茶会の時に外へ出た罰をまだ受けていないからその事だろうか、と思ったがアンナが怒る様子はなかった。


「こっちへ来なさい」


 静かな声だった。だけど少し苛立っているようでもあった。ただリチェルを見下ろすその表情にはいつものさげずむような色がなくて、それが逆に不気味に感じる。


「……まったく、……かづくなと……ほど言ったのに」


 前を歩くアンナがぶつぶつと呟く声が聞き取れない。


「あの、どこへ……」


 勇気を出して問いかけると、アンナはチラリとリチェルを見て、ため息と共に吐き出した。


「奥様がお呼びです」


 口調はいつも通りのつっけんどんとした言い方だったが、やはり棘がない。え? とも思わず聞き返したリチェルに、アンナはもう一度大きくため息をつくと繰り返した。


「だから、奥様がお前をお呼びなんです。失礼をするんじゃありませんよ」


 どうして?


 リチェルの疑問に答えは返らなかった。アンナはずっと無言だったし、質問が許される雰囲気ではない。だからアンナの後をただ小走りで追いかける。


 チラリとアンナがリチェルの格好を一瞥して、屋敷の裏口を開ける。促されるままに屋敷へ入ると、踏んだことのない柔らかいカーペットの感触に一瞬戸惑った。


 廊下を抜け、ある一室の前でアンナが止まる。コンコン、とノックの音。


「奥様、連れて参りました」

「入りなさい」


 冷たい声だった。


 実を言うと、リチェルはクライネルトの奥方に直接会ったことはない。見かけた事はあるがそれだけだ。現当主の奥方は決してリチェルを目に入れようとはしなかったし、徹頭徹尾その存在を無視していた。


「失礼します」


 アンナが扉を開け、連れられて入る。失礼のないよう頭を下げて部屋に踏み入れると、背後で扉が閉まった。瞬間、視界が遮られた。


「……っ!」


 悲鳴を上げなかったのは、こう言ったことが初めてではなかったからだ。

 

 額に走った痛みとポトポトと滴る透明の液体。

 厚いカーペットが落ちた音もこぼれた液体も等しく吸い取った。

 鼻腔をくすぐる香りと足元に落ちたカップを見て、飲み物の入ったカップを投げつけられたのだと理解する。こちらに歩いてくる足音。


「奥さ……」

「貴女は黙っていなさい」


 額を押さえて顔を上げる間も無く、頬を引っ叩かれた。


 叩かれた勢いで床に膝をついた。痛む頬を押さえて恐る恐る上を見上げると、デニスに良く似た女性がリチェルの前に立っていた。

 その視線はまるで害虫でも見るかのようで、無意識にこくりと唾を呑んで視線を下げた。


「お前がデニスをたぶらかしたのね?」


 底冷えのするような声だった。


「ちが……」

「うるさいっ!」


 何かを口にする前にもう一度頬を打ち据えられた。


「発言は許していないわ」


 奥方の手が落ちたカップを拾い上げる。


「まっ……」


 本能的に頭を庇った。

 

「あの子は! お前みたいなみすぼらしい娘が! 声をかけていいような子じゃないのよ! それを売女のような真似をして! お義父さまが連れてきたからと思い上がるのもここまでになさい!」


 暴力を受けたことが無いわけじゃない。髪を引っ張られたり、突き飛ばされたり、小突かれたり。そう言う事は今までも日常的にあった。


 だけど彼らは決してリチェルを決定的には傷つけなかった。


 何故ならリチェルは『クライネルト家の所有物』だからだ。幸いにもクライネルト家の使用人への扱いは酷いものではなく、彼らの使用人への扱いは大っぴらには主人に倣ったものになった。


 だけどこの人は違う。この人はリチェルの所有者なのだ。所有物を傷つけたとて、そこには何の罪も認められない。


「……っ」


 声を出さないように歯を食いしばる。声を出すなと言われたから、許しを請うことすら許されない。これまでに出されたちょっかいなど可愛いものだったのだと思い知る。


 散々打ち据えられた後に、乱暴に髪を掴まれて顔を引き上げられた。ビクリと身を震わせたけれども、リチェルは奥方の向こうの景色を見つめる。


「アンナ」

「はい」

「これを地下室に閉じ込めておきなさい」

「……はい」


 もう用はないとばかりに奥方の手がリチェルの髪を離した。床に座り込んだリチェルを見下ろして、貰い手を探すわ、と今までとは打って変わって弾んだ声で奥方は告げる。


「これをデニスの目の見えないところに置かなくちゃ。紹介書はいらないわね? とびっきり酷いところを探すように伝えて」


 その言葉をどこか他人事のようにリチェルは聞いていた。

 ジンジンと耳の奥が痛む。


 暴力が終わったことにホッとして、だけどこれから起きるだろう最悪には理解が追いつかない。


 立ちなさい、とアンナの低い声がリチェルの耳を打った。その声に促されるように覚束ない足取りで立ち上がったリチェルの肩をアンナが押す。声とは裏腹にその手はことさら乱暴ではなくて、それだけが救いだった。

 



   ◇




『リチェル、君の友人になる子だよ。ご挨拶なさい』


 恩人であるグレゴール・クライネルトがまだ幼い少女をイルザに引き合わせたのは、久しぶりに屋敷へ帰ってきたその日のことだった。柔らかな亜麻色の髪、春を思わせる若葉の瞳。オズオズとこちらを見上げる幼い少女は自分とは全く正反対の少女だった。


 歌いなさい、とグレゴールに促されて少女は聖歌を歌った。透き通るソプラノ。無邪気な春の歌声。声の特性まで自分とは正反対で、イルザは切長の瞳をさらに細めた。


『イルザの声はアルトだろう。得意分野は被らないと思うんだ。きっとこの子は素晴らしい歌い手になるよ』


『君が歌を教えてやっておくれ。あとこの子も孤児でね。慣れるまで君が世話をしてやっておくれ』


 グレゴールは懸命に話していたけれども、イルザにとってはどれも気に食わない。

 明らかにイルザを怖がっているリチェルの態度にも苛立った。不安そうにチラチラとグレゴールを見るリチェルの様子に、当のグレゴールは全く気付いていない。まぁ、そういう人だ。


 それにイルザは、連れて来られたばかりのミソッカスより顔色が悪いグレゴールの方が気にかかった。


『グレゴール。長旅で疲れてるんじゃない? 顔色が悪いよ』

『あぁ、ごめんごめん。少し体調が悪くてね。熱が出たかな』


 歌姫たちにうつしてしまっては大変だ、とグレゴールはおどけて笑うと、小雨で濡れた外套を羽織り、帽子を被り直した。


『リチェル。君は今日からここで生活しなさい。面倒はイルザが見るよ。君のレッスンについてもまた後日話をしよう』


 グレゴールがゆっくりと一音ずつ区切って話をする。その話し方からまだリチェルはこちらの言葉に不自由なのだと分かった。何度かグレゴールが言うと、意味を理解したのか明らかにリチェルは顔を曇らせた。

 

 イルザと取り残されるのが怖かったのだろう。だったら泣いてみせれば良いのに、気を遣う性格なのかリチェルは大人しく頷いた。そういうところも気に食わなかった。


 グレゴールはリチェルの頭を撫でて、それから隣にいたイルザの肩をぽんと叩く。


『リチェルをよろしく頼むよ、イルザ』


 イルザがただ一人決して頭の上がらない、優しい声が言う。それが、イルザが最後に聞いたグレゴール・クライネルトの言葉だった。



 三日後、グレゴール・クライネルトが息を引き取ったと知らせがあった。


 

 急性の肺炎だったそうだ。医師が来たときにはもう手遅れだったらしい。

 しばらくは当主が亡くなった事で本家は忙しく、楽団は放っておかれた。幸い事業についてはもうほとんど長男が切り盛りしていたのもあって、そこまで混乱することはなかったようだ。


 だが落ち着いてしばらく、楽団に訪れたグレゴールの息子はリチェルを見て驚いたそぶりを見せた。その様子に、あぁこの人は何も聞かされていないのだ、とピンときた。


『そういえば亡くなる直前に一人孤児を連れてきたと聞いていた。君は何が出来るんだ?』


 訪れた当主はリチェルを連れてきた紳士に似てはいたけれども、少し顔つきはキツい。元々人見知りもあるだろうリチェルがモゴモゴと口籠り、その隙にスッと歩み寄って口を開いた。



『この子は雑用係だよ』



 リチェルが驚いてイルザを見る。ハッキリとした物言いは、まだこちらの言葉に慣れないと思っていたが、リチェルにも意味が聞き取れたのだろう。

 

 心中で舌打ちする。戸惑うリチェルの肩をグッと強い力で押さえ込むと、イルザは言葉を重ねた。


『アタシ達は練習があるから、手が足りてなくて。一通り家事がこなせる子を連れてきたみたい』

『そうか。世話はイルザが見てるのかい?』

『そう。だからご当主が気にかける必要なんてないよ』


 イルザの言葉に当主は納得したようだった。何度か頷いて、他の楽団員の所へと行ってしまう。残されたリチェルが呆然としてイルザを見上げた。


『何さ。文句があるのかい?』


 自信たっぷりに言ってやると、リチェルは黙る。

 リチェルはまだ楽団の人たちにろくに挨拶もまだ出来ていないし、歌を聞かせてもいない。リチェルが歌ったことがあるのは、イルザの前だけなのだ。いくらでも誤魔化せる。

 流石にリチェルも怒ったのだろう。キッとイルザを睨みつけるその瞳を一笑する。


『アンタここを追い出されたら行くところないだろう?』


 アタシと同じで。


 その言葉は呑み込んだまま、ハッとした表情のリチェルを見下ろす。よく分かるように、初日にグレゴールがしたようにゆっくりと一音ずつ区切って言ってやる。


『ここに置いてもらいたいんだろう?』


 リチェルの手が小刻みに震えている。

 ようやく自分の状況が分かってきたようだ。


 リチェルが歌い手として連れてこられたことを、イルザが言うつもりがないこと。そしてイルザの言う通り、リチェルにはここを追い出されたら行く場所などどこにもないこと。


 約束しな、とイルザは低い声で言う。


『二度と人前で歌わないこと。いいね?』


 リチェルの唇が震える。

 春の瞳に、涙が浮かぶ。

 だけどイルザは知っている。この娘には選択肢がない。

 


『…………はい』



 やがてか細い声でリチェルは答えた。


 その事に満足して、イルザは踵を返した。この場所を誰かに譲るつもりなんかなかった。彼の息子は芸術への関心が薄い。グレゴールがいなくなったのであれば余計に、自分の身は自分で守らねばならない。



──リチェルをよろしく頼むよ、イルザ。



 心は痛まない。

 後悔なんてある訳がない。

 蹴落とす機会があれば、あの子だって迷いなく自分を蹴落とすだろう。

 それでいい。後腐れがなくて。

 自分にはそれが、ちょうどいい。


 

──とう、ございます



 ノイズのように記憶の欠片が蘇って、すぐに消えた。







「こんにちは」


 振り向いた青年はなるほど噂になるのも頷ける、整った顔をしていた。


「貴女がリチェルがお世話になっている方?」


 入り口で立ち止まった青年が訝しげにイルザの方を見る。


「……リチェルの知り合いか?」

「あの子の保護者のようなものです。お世話になったと聞いたものですから」

「礼? 俺は特に何もしていないが……」


 青年の言葉は本心からのようだった。その事に笑いが込み上げる。


「何かおかしいことを言ったか?」

「あらいやね。アタシったらごめんなさい。予想通り優しそうな方で安心したんですよ。それに人の目利きには少し自信がありましてね。貴方こんな小さな宿を利用するような御仁ではないでしょう。気のせいかしら?」


 青年の表情は変わらない。


「用件はそれだけか?」


 少しの動揺も見せず、青年はただそう尋ねた。その落ち着きぶりはイルザを満足させる。芝居かかった動作でイルザはゆっくり首をふる。


「いいえ」

「……あの子に何かあったのか?」


 勘がいい。クスクスと笑いながら、イルザは自然にヴィオの腕を取ると声に艶を含ませて囁いた。


「少しばかり内緒の話ですの。できればもう少し人気のない場所でお願いしたいわ」




   ◇




 その日、クライネルトの現当主であるゲオルク・クライネルトが自分の屋敷へ帰る頃には、日はすでに沈んでいた。


 部屋に入り着替えを済ませているかたわら、執事から事のあらましを聞かされて大きくため息をつく。


「それで、アレは満足したのか?」

「奥様のことでしたら、落ち着かれたようです。ここ最近は随分頭を悩ましておいでのようでしたから」


 ならば仕方あるまい、とゲオルクは息をつく。


 父が昔連れてきた孤児のことだ。

 デニスがあの娘に執着しているとの噂は耳に挟んでいた。妻が気を揉んでいたのも知ってはいたが、所詮は身分のない使用人なのだから大したことにはなるまいと放置していた自覚もある。正直に言うと死ぬ間際に国を渡って父が連れてきたその孤児を粗末に扱うのは、どうにも気が咎めたのだ。


 音楽の才があれば出自に関係なく自身の作った楽団に引き入れてしまうというのは、ゲオルクの知る限り父の最大の悪癖だ。


 一時期は楽団自体が見世物小屋と囁かれたほどで、その為父の死後ゲオルクは率先して楽団員の整理を行わなければならなかった。具体的には身分のある子息を団員に引き入れ、身分の低い者を放逐したのだ。

 その頃には名が売れていたイルザは使い勝手も良く残したが、それ以外は全て首をすげ替えたと言ってもいい。


 だが幼い頃から父を見てきたゲオルクには、本人も意識しない部分で使用人への情が深かった。

 幼い娘が国を離れ、たどり着いたその先で自分を連れてきた保護者が死んでしまったのでは気の毒ではないかと思った。もしかすると他の楽団員を放逐した罪悪感もあったのかもしれない。せめてこの子くらいはうちに置いてやろうと思っていた。


 だがそれもここまでだ。


 妻が強く求めたのであれば、敢えて止めるのは要らない火種の元になる。使用人の為の騒動などあまりに馬鹿げている。


(可哀想だが、せめて少しはマシなもらい先を探してやらねばな)


 執事に命じようと顔を上げたその時、コンコン、と控えめにノックの音が響いた。扉をチラリと見ると、ゲオルクの代わりに執事が短く応答した。

 

 礼をして扉を開いたメイドはまだ若く、主人の部屋をノックしたことに随分と恐縮しているようで、執事にニ、三告げるとすぐに扉を閉めていなくなった。


「どうした?」

「来客があったようです」


 執事の言葉にゲオルクは顔をしかめる。


「こんな時間にか? アポイントはなかっただろう。追い返しただろうな?」

「いえ、それが……」


 執事が珍しく口ごもった。

 不可解なこともある。こんな時間に約束もなく訪れた来客など、当然追い返すものだろう。


「メイドの聞き間違いでなければ──」


 執事の言葉に今度こそゲオルクは眉間の皺を深くした。

 しかし迷ったのは一瞬で、すぐに息をつくと厳しい声で執事に命じた。


「すぐに客間に通してくれ」



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