プロローグ
その夜は酷い雨だった。
窓を打ち壊すかのような強い雨音。吹き荒ぶ風がビョウビョウと音を立てて、建物全体を揺らす。
────。
ふと、風の音とも雨の音とも違う音が聞こえた。修道女は書き物をしていた机から顔を上げて、居室の扉の方に視線をやる。
気のせいだろうか。
こんな嵐の日に、誰が好き好んでこんな丘の上までやって来ると言うのだろう。借金取りだってもっとマシな日を選ぶ。
そう自分に言い聞かせて書き物に戻ろうとした修道女の耳に、また音は届いた。
リーン──ッ。
今度は間違いではない。それはこの建物の裏口に取り付けられた呼び鈴の音だった。
到底孤児院を訪ねる時間ではないし、表口は閉ざされている。しかしこんな夜更けにやってくる客の類に彼女は覚えがあった。ため息をついて立ち上がると、部屋を出て早歩きで裏口へと向かった。
この嵐の中とはいえ何度もドアベルを鳴らされては、寝静まっている子供たちが起き出してしまう。
「はい」
落ち着いた、だけど心なしか低い声で修道女は裏口を開けた。瞬間、雨の音はクリアになった。横殴りの雨が室内に吹き込み、容赦なく床を濡らす。
「……何か御用でしょうか?」
一瞬の間を開けて、修道女は努めて普段通りの声を出した。
訪ねてきたのは外套を目深にかぶった男だった。
全身ぐっしょりと濡れて、裾からポツポツと水滴が絶え間なく落ちている。だけど男はそんな事は気にした素振りも見せず、懐から大事に大事に、幾重にも布に包まれた何かを差し出した。
「……まぁ」
途端に修道女が破顔する。
包みが柔らかく開き、そこから小さな手がのびる。あ、あ、と舌ったらずで動物的な、幼子の声。
「この子を──」
差し出された包みを、修道女は思わず受け取った。幸い外套の中には水は染み込んでいなかったようで、赤子をくるむ品の良い臙脂の布は微かに湿り気を含んでいる程度だ。それはこのドブネズミのように濡れた男が、嵐の中どれほど大事にこの赤子を抱えてきたかを物語っているようで、修道女の態度も自然先ほどより柔らかくなる。
「……まずはお話を伺いましょう。あなたもずぶ濡れです。休んでいかれては?」
といっても用などもう分かっている。この修道院は孤児院が併設されている。子どもを連れてくる用などただ一つしかないのだ。
「この子を預かっていただけませんか?」
かすれた声が、予想した通りの言葉を吐き出した。
修道女は困ったように男を見上げる。孤児院とて、無限に子供を預かれる訳ではない。ましてやこんな乳飲み子を連れてくるなんて、余程深い事情があるのだろう。
「いつか必ず迎えに来ます。どうか、この子をお願いします」
その声は切実な響きを帯びていた。
赤子を預ける親は黙って子を捨てていく者が大半なのだ。この男がそうしなかったのはそれだけで誠実さを思わせた。用件を告げてすぐに背を向けようとした男を修道女は呼び止める。
「待って。せめて火に当たって行かれてはどうです?」
修道女の誘いに男はただ首を横に振って断った。
「必ず迎えに来ます」
そうしてただそれだけを繰り返す。
修道女は迷った。こうやって直接親が子を預ける時彼らは決まってそう言う。勘ではあるがこの子は非嫡出子だろう。だとしたらそういった子を親が引き取りに訪れることなどほとんどない。
孤児院も無限に子どもを預けられるわけではないから、適齢になれば子供たちは奉公に出される。そしてその数は親が引き取りに来る子供の数より圧倒的に多い。
その事を伝えると男は息を呑んで黙った。
「それでも、その前に迎えに、来ます」
頑なな言葉にため息をつく。
これでは待ったなしだ。そして押し付けられた子どもを保護しないと言う選択肢は彼女達にはない。諦めて修道女は男へ問いかける。
「最後にお名前を教えてくださる?」
「あぁ、えっと……」
男が口にした名前に修道女は首を振る。男が口にした名前は彼自身の名前でそれはもちろん必要だが、彼女が聞きたいのはもう一人の名前だった。
「貴方ではありません。この子の名前です」
そう言うと、男は黙って自分が手放した赤子を見つめた。
──ぁ、ぅぅ。
いつの間にか起きたのか、開いた瞳は若草のような淡い緑をしていた。偶然なのか伸ばされた小さな手は父親の方を向いている。その手を、瞳を痛ましい表情で見つめて、しかし決して手を出そうとはせず、男はかすれた声で呟いた。
「……ル」
雨の音がうるさい。問い返した修道女の声に、男はかすれた声でその名を呟いた。
「リチェル、といいます」