煙草
帰り道にふと煙草屋が目についた。商店街の外れにポツリと建つその店に二人の青年が立っていた。一人は刈り込みを入れていて、もう一人は金髪だった。二十代くらいに見える。煙をくゆらせながら、店主らしい割烹着姿の老婦人と雑談をしていた。
「そうなんですか」
聞こえた会話はそれだけだった。具体的にどんな話していたのかは分からない。ただその構図が何故か私の心に響いた。
冬近い青空のもと、煙草を咥えながら微笑む青年たちと彼らを見上げる笑顔の老婦人。古めかしい煙草屋を舞台に、時代の異なる人々の交流を見た。それはなんだかノスタルジックな光景であった。ただし私の心を響かせるものはそういった類の懐かしさではなかった。その光景を見たあと、彼らを尻目に通り過ぎる私が感じたのは、一種の恥ずかしさだった。
私は煙草を嫌っている。煙草を吸うものを愚かだと感じる。歩き煙草をするものは何より、外で煙草を吸う人間は皆、その吐き出そうとする毒ガスを誰かに吸わせている自覚がない恥知らずであり、害である。そんなに煙が好きならば、今その肺に溜まっている煙をすべてその身体の中で楽しんで、一切外に出さないといい。そう思っていた。いや、今なおその考えは変わらない。
しかし、その煙草を介してあのような温かい場面が生まれ得るのだと言う発見は、煙草を吸う人間をひとまとめに嫌う私の価値観を波立たせた。煙草を吸う者には煙草を吸う者たちの物語がある。その中にはかような時代を超えたコミュニケーションがある。対する私はコンビニに行って弁当を買って帰るだけ。果たして煙草を吸う彼らを批判できるほど、私は有益な存在なのだろうか。
私の吐く息は誰の健康も害さない。色もなく瞬く間に霧散する。私の生は誰にも意識されない。
そういえば、溜息をつくときだけは煙草を羨ましく感じるのを思い出した。もやもやとした気持ちを捨て去るように吐き出した生暖かい溜息が、寒さで仄かに白くなった。