第9話 アタランタ
「ソイヤァァァッ!」
気合とともに思いっきり地面を蹴り、跳躍する。
ズザァッ! と着地した地点に、爪先でぞりぞりと印をつけ、
「くっそお……まだ、ボイスカの跳躍には、届かないかッ」
道のかたわらにおいた長い棒と見比べて、アタランタはため息をついた。
乙女たちの鍛錬が始まるまでには、まだ時間がある。
そんなわけで、アタランタは朝から道ばたで自主練に精を出していたのだった。
地面には、すでに数えきれないほどの印がきざまれている。
だが、そのどれもが、踏切り線にあわせて道のかたわらに置いた棒の長さには届いていない。
棒の長さは、ボイスカがこれまでに跳んだ最高記録だ。
徒競走で、アタランタがボイスカに負けたことがないように、跳躍競技では、ボイスカがアタランタに負けたことはない。
「フッ……さすがは、私の宿敵だなッ! これでこそ、倒しがいがあるというものッ! 待ってろよ、今に――」
誰もいない空中に向かって、アタランタが拳を突き上げていた、そのときだ。
「アタランタァァァァァッ!!」
「うお!?」
とんでもない咆哮に、アタランタは思わず飛び上がった。
討入りのごとき気迫で叫びつつ、道を突っ走ってきたのはボイスカだ。
彼女は勢いあまって一度アタランタの前を通りすぎ、後ろ走りで戻ってきたかと思うと、
「た、た、大変よッ! もう……もう、本当に、大変ッッ!!」
アタランタの両肩をぐわしとつかみ、力任せに揺さぶってきた。
「な、な、ななな……何がだッ!?」
その攻撃をどうにか振りほどいて、アタランタも叫ぶ。
「どうしたんだよ!? そんなに慌てて……まさか、アルゴスかどっかが、宣戦布告もなしに攻め込んできたっていうのか!?」
「ち、違うのよッ……」
ここまで本気の疾走を続けてきたのだろう、さすがにぜいぜいと息を荒らげながら、ボイスカ。
「お兄様たちがッ……大変なのッ!」
「お兄様たち?」
怪訝そうに呟いた次の瞬間、アタランタは、はっとした。
ボイスカには、兄は、一人しかいない。
と、いうことは。
「うちの兄貴たちが、どうかしたのかッ!?」
「隣村の、格技訓練場で、決闘ですって! あたくしも、たった今、噂で――あッ、ちょっと! アタランタ、待ちなさいよォーッ!?」
ボイスカ自身も、その言葉すらも置き去って、アタランタは全速力で駆け出していた。
(なんで、兄貴たちが、隣村で決闘なんか……!?)
スパルタでは、男子は7才から兵舎に入り、30才までは男たちだけで共同生活を送りながら、戦士としての鍛錬を重ねる。
だから、ふだんは一緒に暮らしていないが、たまに家に戻ってくると、
『ハッハッハ、アタランタ、土産のでっかい石だぞー」
『要らなさすぎるッ!? 何に使うんだよそれ!』
『フッ……このように、寝転んだ状態で持ち上げ、何度も左右に動かすことで、腕や腹が鍛えられるのだ……!』
『実演しなくていいから! 要らないよ、そんなの! 兄貴たちみたいなバッキバキの腹になっちゃったらどうすんだよ!』
『ククク……我ら三人で山に入り、心をこめて選んだのだ。そう照れず、素直に受け取るがいい……』
『照れてないし、選んだっていうか拾ってきただけだよね!?』
と、惜しみない――ちょっと間違っている気はするが――愛情を注いでくれる、自慢の兄たちだ。
(頼む、兄貴たち……! 無事でいてくれッ!!)
そう一心に念じながら、疾風のように走り続け――
ようやくアミュクライ村の格技訓練場へと駆けつけたアタランタが目にしたものは、ごつい若者たちの人垣に囲まれてたたずむ、一人の若者の逞しい背中と、その足元に倒れ伏した、見覚えのある三人の姿だった。
「兄貴ィーッ!?」
驚いて振り向く若者たちのあいだをぬって、アタランタは砂ぼこりを蹴立て、一番大きな体のかたわらにしゃがみこむ。
「ハ……ハハ……アタランタか……」
ようやくのことで薄目をあけた長兄が、砂にまみれた唇をわずかに曲げてほほえみ、しぼり出すように言った。
「彼は……とても……強かった、ぞッ……!」
かすれた声で、それだけ言い残し、がっくりと地面に突っ伏す。
「あ、兄貴……!? 兄貴イィィィィーッ!!」
「えっ……あいつら、死んだのか?」
「いや、生きてると思うが……」
ぶつぶつ言う外野の声など耳にも入らず、アタランタは激しく肩をふるわせていたが、やがて、ゆっくりと顔をあげた。
なぜ、こんなことになってしまったのかは、よく分からない。
だが今、目の前にある状況を見てしまった以上、なすべきことは、ただひとつしかなかった。
アタランタは振り向き、そこに立っている若者を、きっ! と見すえた。
「タウロスさんッ……」
彼は、石像のように身じろぎもせず、じっと彼女を見返している。
涙をふりはらい、アタランタは叫んだ。
「よくも……よくも、私の兄貴たちをッ! 弔い合戦だッ!」
「弔うなよ」
「死んでないだろ……」
若者たちの呆れたような呟きを意にも介さずに立ちあがり、タウロスを真っ向からにらみつける。
「こんなふうに負けっぱなしで帰るなんて、スパルタの戦士の誇りが許さない! 兄貴たちの……そして、我が家の名誉のために! ――この私がッ! あなたを、倒すッ!!」
「な」
若者たちは一瞬、時が止まったかのように固まり、次の瞬間、
「何イィィィーッ!?」
いっせいに叫んだ。
「何言ってるんだ、おまえ、女の子だろう!」
「無茶言うな! そんな細腕、タウロスにつかまれただけで、ぼっきり折れるぜ!?」
「拳なんか食らったら、頭が吹っ飛んじまうぜ!」
「だいたい、戦士の誇りだなんて、それは男の――」
「これは、我が家の名誉の問題だッ!」
次々とかぶせられる若者たちの声に、アタランタは、さらに声をはりあげて対抗する。
「エウリュメドンの息子も、娘も、敗北の恥を雪がずしては決して帰らないッ! タウロスさん! 私と、勝負しろッ!」
「ああもう、しつっこいお嬢ちゃんだなあ!」
先ほどから一言もしゃべらないタウロスのかわりに、またもや、周囲の若者たちがわあわあ言った。
「そんなふうに息巻いたって、無理なもんは無理だっての! おうちに帰りな」
「神話の英雄じゃねえんだからよ。スパルタの男と、それもタウロスと四つに組んで、女が、勝てるわけがねえだろ! 俺たちでも勝てねえのに――」
「そこだ!」
アタランタが勢いよく指を突き出したので、タウロス以外の若者たちはそろって、どこだ? というようにきょろきょろした。
「たしかに、四つに組む競技では、私は、タウロスさんには絶対に勝てない。悔しいが、それは認める! だが……」
あいかわらず石像のように微動だにしないタウロスに向かって、アタランタは言い放った。
「徒競走なら、どうだッ!?」
一瞬、しーん、とした。
一瞬だけ。
「いや、無理無理、無理だって! なあ!?」
再び、全力でぶんぶんとかぶりを振る男たち。
「そうそう。無謀だぜ!」
「女の子が、無茶しちゃいけねえよ。帰りな! 兄貴たちは、俺たちがかついでいってやるから……」
「まさか……怖いのか?」
アタランタが口にした、その一言に、タウロス以外の若者たち全員が、ぎしり、と動きを止めた。
タウロス自身は、最初から、毛ほども動いていない。
「おやおやぁ?」
ボイスカを煽ったときのように、アタランタはわざとらしく眉をひそめ、首をかしげてみせる。
「返事がない。おかしいなぁ? スパルタの男ともあろうものが、私と、足で真剣勝負をするのが、怖いのかなぁ?」
「何だとォ!」
これにすっかり腹を立ててわめいたのは、やはりというか、タウロスではなく、周囲の若者たちだ。
「この野郎ッ……言わせておけば、調子にのりやがって!」
「野郎じゃないッ! 私は、女だッ!」
「そうだ、女だろうがッ! 女が、あんまり図にのってんじゃねえぞ、オォン!?」
「女が、男に挑戦するなんて、聞いたこともねえ!」
「そうだそうだ! 生意気だぞ!」
外野たちがわあわあ言ったが、アタランタはまっすぐにタウロスをにらみつけたまま、耳を貸さない。
「おい」
これに業を煮やしたか、ついに一人の若者が、彼女の肩に手をのばしてきた。
「立場をわきまえろよ、お嬢ちゃん。そもそも、こんな男ばっかの格技訓練場に、女の子がふらふら入りこんで、無事に帰れるなんて――」
「ソイヤァッ!!」
謎の鋭い気合とともに、ぼがごっ! と鈍い音がして、アタランタに手をかけようとしていた若者が、白目をむいて崩れ落ちた。
倒れた体の向こうからあらわれたのは――
槍をかまえた、金髪の若者だ。
「な……」
一同があんぐりと口をあけるなか、
「ォワタタタタタタタタ! ホワタァーッ!」
「グホォッ!」
「ゴフウッ」
「ばべぼっ!?」
怪鳥のごとき気合を発して金髪の若者が槍をぶん回し、アタランタに詰め寄っていた若者たちはことごとく、その餌食となって地面に沈んだ。
「何故だ!? カリアンドごっ」
「やあ、みんな!」
驚愕の表情でうめいた仲間のあごを一撃した槍の石突を、ドスンと地面に突き立てて、金髪の若者は爽やかに叫んだ。
「気持ちのいい朝だな! 俺が気分よく槍を投げているあいだに、なんかとてつもなくスットコドッコイな展開になってたようだが、まあ、そんなことはいいじゃないか! 全員、いったん、すべてを忘れよう! ここはひとつ、何もなかったってことで! なっ!?」
「おい、何を言ってるんだ、カリアンドロス!? この生意気なお嬢ちゃんがゴボァッ」
「……忘れるのが難しいようなら、俺が、手伝ってやろうか?」
満面の笑みでぶおんぶおんと槍をぶん回す金髪の若者――カリアンドロスの呟きに、全員がしーんと静まり返る。
この場合の『手伝う』とは、槍で後頭部を一撃することに違いなかったが、はたして、飛ぶのが記憶だけで済むかどうかは、はなはだ疑問だ。
「よし……それでいい。みんな、いったん頭を冷やすんだ。そうだ、これから川へ行って、爽やかに水浴びでもしようじゃないか!
それからタウロス、おまえはちょっとこっちに来い。話がある……」
「分かった」
タウロスが、低く言った。
思いがけず素直な返事に、カリアンドロスが虚を突かれたような顔をする。
だが、タウロスは、カリアンドロスのほうを見ていなかった。
「君が……己の名誉をかけて、戦うというのなら……俺も、戦士としての名誉をかけよう」
アタランタの目をじっと見つめて、彼は、静かに言った。
「勝負だ。スタディオン走で」