第8話 タウロス
翌日、タウロスは早朝から格技訓練場で汗を流していた。
「ウオオオオォッ!!」
まっすぐに突っ込んでくる若者と、がっぷり四つに組んでから、
「フンッ!」
とその場から一歩も動くことなく、体術と背筋の力だけで横手に投げ飛ばす。
「ウオオオオオォ」
と転がっていく相手には構わず、次に控えている相手を見すえながら、親指で額の汗をはらいのけた。
次の相手は、もっと慎重だった。すぐにはこちらに組みつかず、体を小刻みに左右に揺らしながら、じりじりと間合をつめてくる。
こちらから捕らえにいこうかと、タウロスがぴくりと手を動かしたのを読んだか、
「ひゅッ!」
相手は急激に体を沈めると、タウロスの手をかいくぐって太い両脚にとりついた。
「!」
そのまま押し倒してくれようと、肩で猛然と押し込んだ相手は、その瞬間に凍りついた。
タウロスの脚は、まるで地面から直接生えた巨木であるかのように、指一本分ほども揺るがなかったのである。
驚く相手の腰を、むんずとつかんで持ち上げ、
「ウオオォォォォォ!?」
遠くへ放り投げてから、タウロスはゆっくりと肩を回し、首を左右にかたむけた。
これで十人。少し休憩だ。
「いてててて……くそっ、今日も、タウロスには歯がたたなかったな……」
「俺、足腰を強化するために、岩を転がす特訓してるんだがなあ」
「俺は最近、仔牛を頭の上まで持ち上げる鍛錬をはじめてみたぜ! 毎日やってるぜ」
「それ、仔牛がちょっとかわいそうじゃないか……?」
あれこれ言いあう仲間たちを尻目に、水がめに歩み寄り、小川から汲まれた水を飲む。
(よし)
ゆっくりと喉をうるおしながら、タウロスは、まったく関係のないことを考えていた。
(初心にかえろう。俺はこれまで、舞い上がって、慣れないことをしすぎた。まるでスパルタの戦士が海の上で戦おうとするようなものだ。それでは勝利は得られない……やはり、自分が得意とする分野で戦うのが一番なのだ。
たとえば、俺が試合をしているところを、彼女に見てもらうというのはどうだろう? 戦士としての実力を示せば、きっと、俺が夫とするにふさわしい相手だということが分かってもらえるだろう。それに、俺も、似合わぬことをあまりしゃべらずにすむし……)
――むしろ、そちらのほうが主な理由かもしれない。
(何の試合がいいだろうか? パンクラティオン……は、死人が出るかもしれないから……拳闘かな。だが、相手が血まみれになっているのを見たら、彼女は引いてしまうかもしれない)
血まみれになる予定の相手も気の毒である。
(槍投げや跳躍でもいいが、相手と生身で戦う競技のほうが、より強さを示すことができるだろう。やはり、レスリングしか……
そうだ、それに、相手も重要だ。弱い相手を何人倒そうが、強さの証明にはならない。実力の拮抗した相手を、全力を尽くして倒す……それこそが、強い男の証だ。ここは、カリアンドロスに真剣勝負を申し込むしかないな……)
危うし、カリアンドロス。
こうして、今は爽やかに運動競技場で槍を投げているカリアンドロスが、何も知らぬうちに恐るべき対決の運命を定められようとしていた――まさに、そのときだ。
「おっ……」
「何だ?」
格技訓練場の空気が、急に変わった。
見れば、監督係に案内されて、三人の巨漢が格技訓練場に入ってきたところだ。
「おい……あれは、隣村のやつらだぞ!」
「何しに来たんだ?」
若者たちがざわつくうちに、腰布一丁で岩のように鍛え上げた肉体をさらし、いずれ劣らぬ強面で周囲を見まわした巨漢らは、
「ハッハッハ! いい朝だな、アミュクライ村の諸君!」
「フッ……我らは、諸君らに、練習試合を申し込みに来たッ!」
「ククク……我らはみな、隣村のエウリュメドンの息子。いざ、尋常に勝負ゥゥゥ!」
と、三者それぞれに特徴的な笑い声を発しながら、堂々と名乗った。
「ボフゥッ!」
その名乗りを聞いて、思わず口に含んでいた水を全部ふき出したのは、タウロスだ。
(エウリュメドン殿の、息子たちだとッ!?)
つまり、彼らはみな、アタランタの兄たちだ。
(いったい何をしに、ここへ……!? まさか……)
タウロスが固まっているあいだに、
「何ィーッ!? 練習試合だとォ!」
「急になんだ、アァン!? 調子にのってんじゃねえぞ、オォン!?」
「おっもしれぇ! ボコボコにされる覚悟はできてんだろうなァ!」
「監督係殿ォ! こいつら、叩き出さなくていいんですか!?」
「向こうの村からは、ちゃんと正式な要請が来ている」
監督係は、涼しい顔で答えた。
「なんでも、最近『不審な人物』が、隣村をうろついているらしくてな……」
「グゥッ!? ゴホッ、グホッ」
思わずむせるタウロス。
「隣村では、警戒を強めているらしい。若者たちの気をいっそう引き締めるため、練習試合を頼みたいということだ」
「だからって、なんでまた、そこの三兄弟が来やがるんです?」
「その『不審な人物』が出没したのが、彼らの家のそばらしいのだ」
「………………」
タウロスが、もはや完全に無言になっていると、
「ハッ! 情けねえ話だ!」
ひとりの若者が、両手を広げて三兄弟に近づき、嘲笑った。
「自分の村の、自分の家のそばを怪しいやつがうろついてたってのに、倒すどころか、捕らえることもできなかったってのかよ! そんなんでうちの村に挑戦しようなんざ、お笑いぐさもいいと――グエェッ!?」
「ハッハッハ……たしかに、そのとおりだ」
若者の首をがっしりとつかんで高々とつり上げ、激しく足をばたつかせる相手の抵抗もまったく意に介さず、巨漢その一――おそらくは長男。
「我らがそのとき、兵舎ではなく、家にいたならば、曲者を取り逃がすことは決してなかっただろう……そして、思い知らせてやっただろう。このようになッ!」
長男の腕の筋肉がヌンッ! と盛り上がり、彼は腕の一振りで、高々とつり上げていた若者を投げ飛ばした。
「ウオオオオォ~ッ!?」
「あああっ!? アイリアノスッ!?」
「く、くそうっ……許せねえッ!」
「フッ……弱い犬ほどよく吠えるというが、どうやら真実らしい……キャンキャンキャンキャン、うるさいことよ……」
「何だとおッ!?」
「言いたい放題ぬかしやがって! 許せねえ!」
「ククク……許せぬというのならば、我らと戦い、倒してみるがいい!」
次男と三男――おそらく――の挑発に、アミュクライ村の若者たちは、ぐっと言葉に詰まった。
ここで一対一の戦いを挑んで、もしも負けたら、己の沽券ばかりか村の名誉にもかかわる。
全員で一気に襲いかかれば何とかなるかもしれないが、曲がりなりにも正式な練習試合を申し込んできている相手に対して、それはあまりにも卑怯というものだろう。
だとすれば――
「………………」
その場の全員の視線が、ひとりの男に集まった。
むろん、タウロスにだ。
(いったい……どうすればいいのだ、これはッ!?)
一同に熱く見つめられ、タウロスは外見こそ平静を保っていたが、内心では、頭を抱えて絶叫していた。
村の名誉を思えば、相手が誰であろうと、容赦なく倒さなくてはならない。
だが、その相手は、恋するアタランタの兄たちなのだ。
彼らに恥をかかせて、もしも、恨みをかってしまったら――
(彼女との交際を、認めてもらえなくなるかもしれない)
だが、相手をたてるためにわざと負ける、という選択は、戦士としての誇りが許さなかった。
そもそも、彼らよりも力が劣ると思われたら、それはそれで、彼女との交際を認めてもらえないかもしれないではないか。
(つまり……勝ってもだめ、負けてもだめ、ということではないかッ!? おお神々よ、なぜ、俺にこのような試練を――)
タウロスが、激しい葛藤の渦に呑み込まれているうちに、
「ハッハッハ……なるほど、そちらの代表者は、タウロスくんというわけか。噂には聞いているぞ」
三兄弟が、もう、それと決まったかのような態度で、のっしのっしと近づいてきた。
「フッ……アミュクライの若者組のなかでも、負けなしとか言われているそうだな? 相手にとって不足なし!」
「ククク……本当に評判どおりの実力があるのか、我ら自身で、とくと見極めさせてもらいますぞ……」
(何だと)
タウロスは、はっとした。
(見極めさせてもらう……? まさか)
彼らは、今回の『不審な人物』騒ぎの真相を、すでに知っているというのか?
考えてみれば、不審者の話は出ているのに、そこにタウロスがいた、という話が先ほどから一切出ていないのは、あまりにも不自然だ。
まるで、その点に関して、タウロスをかばっているようではないか?
と、いうことは――
(彼らは……俺がアタランタに近づこうとしたことに、すでに気づいていて……練習試合にかこつけ、俺が妹の相手としてふさわしい男かどうかを、見極めにきたというのか!?)
もしもそうだとすれば、とるべき道は、ただ一つしかない。
「いかにも」
タウロスは三兄弟の前へ進み出て、見上げるような巨漢を相手に、目を底光りさせた。
「俺がお相手しよう。種目はレスリング。手加減は無用だ、互いにな」
「ハッハッハ! じつに、気持ちのよい返答だ」
「フッ……では、三男よ、まずはおまえから試合をお願いするとよい」
「ククク……よいのですか? 私が勝ったら、兄者たちの出番がなくなってしまいますぞ」
「安心してくれ」
アミュクライの若者たちの熱い声援を背に、タウロスは言い放った。
「そうはならない。俺が、あなたがたを倒す」