第7話 タウロス
その日の夕べ、男たちの共同食事がすんでからのことである。
「タウロスよ……俺は今、できることなら、アザミの鞭でおまえをぶん殴りたい……」
「フッ……殴りたければ殴ってくれ……俺はもうだめだ」
「いきなり世を儚むな! 諦めたら、そこで戦闘終了だぞっ!」
がっくりとうなだれているタウロスの肩をつかみ、がくがくと揺さぶりながら、カリアンドロス。
「それにしてもッ! 俺には、どうしても信じられん。なぜ、アザミを選んだッ!? あのとき言っていた、あやめやヒヤシンスやスイセンは、どうしたんだ!?」
「咲いていなかった……季節的に……」
「くうっ!? しまった、時期が遅すぎたか!」
うめくタウロスに、頭を抱えるカリアンドロス。
「だが、他に、アザミでない花だって、すこしくらいは咲いていただろう!?」
「俺にも判別できる花は、二種類しかなかったのだ……」
「判別って……おまえ、種類なんか別に、こだわるところじゃないだろ。スパルタの男として、普段は言っちゃいかんことだが、そこは『見た目第一』でいくべきだったぞ! 女への贈り物なんだから!」
「だからこそ、だ」
タウロスは憔悴しきった顔をあげ、言った。
「彼女に贈る花だからこそ、なじみのあるものでなくては……! よく知りもしない花を、うかつに渡して、万が一、毒のある植物だったらどうするのだ!?」
「ウウッ!?」
タウロスの言葉に、カリアンドロスは胸に強烈な一撃をくらった戦士のようによろめいた。
「そうか、おまえは、そこまで考えて……! いやでも、よりによってアザミ……もう一種類、知ってる花が咲いていたんじゃないのか!?」
「『ヘラクレスの棍棒』だった……」
「…………そうか…………」
毒である。
「タウロス、さっきは『ぶん殴りたい』なんて言って、悪かったぜ……おまえの中では、考え抜いた末のアザミだったんだな……」
「フッ……愚かな男と、笑いたければ笑うがいい……」
「いや、ここまでくると、もはや笑いも出ないが……そんなことより、とにかく、次の一手を考えるんだ!」
「いや」
勢いこむ友を、タウロスは片手をあげて制した。
あきらめるつもりなのか、と目を見開くカリアンドロスに、
「ここまで、俺は、すこしばかり、焦りすぎていたのかもしれん。今夜一晩、頭を冷やして、いったん落ち着こうと思う」
と、タウロスは静かに言った。
カリアンドロスは、はっとしたようだった。
「そうか。それも、そうだな。……俺も、つい躍起になって、あれこれ言ってしまった。おまえを余計に焦らせてしまったのは、俺だったかもしれん。すまん、タウロス」
「いいや」
タウロスは、友の手をがっしりと握った。
「おまえの助言がいなければ、俺は、今も、彼女と言葉を交わすことすらできていなかっただろう。感謝している」
「よ、よせよ……照れるだろうがッ!」
カリアンドロスは顔を赤くし、ボコンとタウロスを殴った。
普通の人間なら回転しながら吹っ飛んでいる威力だったが、タウロスは微動だにしない。
二人は、連れだって兵舎へと戻った。
スパルタの男たちは、三十歳までは、同じ隊の仲間たちと兵舎で共同生活を送るというのが掟だ。
年下の少年たちがエウロタス川の岸辺で刈り集めてきた葦の茎を、地面に敷き詰め、質素な寝床をこしらえる。
タウロスもカリアンドロスも、隊の中では最も年長の部類に入り、しかも強いことから、みなに尊敬されていた。
それで何かいいことがあるかというと、寝床にするための葦の茎が、微妙に、ほんの少し、気持ち程度に、たくさんもらえる。
他の者たちよりも、わずかばかり寝心地のいい葦の寝床に横たわって目を閉じると、自然、まぶたの裏に、あの面影がうかんできた。
気付いたら、どうしようもなく、彼女の存在が心を占めていた。
いつからそうだったのか、分からない。
いや――
ある日、乙女たちが村対抗の運動競技をやっているのを、隊の皆で連れだって見物したことがあった。
『今、ちょうど樹の下に立ってる子、めっちゃ可愛いな。ふくらはぎの筋肉のつき方も最高だ』
『たしかにな。だが、俺は、あっちの子のほうがいい! 髪がきれいだし、尻の筋肉が素敵じゃないか?』
興奮してひそひそと言いあう仲間たちのなか、
『おい、どうした、タウロス?』
彼は、何も言わず、風のように走るひとりの乙女の姿に、視線を奪われていた。
まるで若い女神が走っているようだ、と、思った。
彼女のまわりだけ、ちょっと空気が光って見えた。
その乙女の名がアタランタであることを、だいぶ長いことかかって、ようやく探り当てた。
彼女がエウリュメドン殿の娘であること、同じ年頃の乙女たちのなかでもいちばんの俊足で『風のアタランタ』と呼ばれていること、そして、どうやら、結婚の決まった相手は、まだいないらしいこと――
そこまで分かれば、どんどん近づけばよさそうなものだが、タウロスには、それができなかった。
今日だって、本当は、
『痛ッ』
と、彼女がアザミのとげに触れてしまったとき、
『大丈夫か?』
と、すぐに気遣えばよかったのだ。
だが、何も言えなかった。
『いってぇ。血が出た!』
と、彼女が言ったとき、すばやくその手をとって、傷をみてやればよかった。
もちろん、それもできなかった。
もしも、あのとき、彼女の手をとることができていたなら、ぷくりと血の玉のふくれた彼女の指を、そっと口に含むことだって、できたかもしれない。
彼女の指は、きっと、俺のよりもやわらかいだろう。
激しい鍛錬で、口のなかに自分の血の味を感じることはしょっちゅうだが、彼女の血は、きっと俺のものよりも甘いだろう。
もしも、そうしていたら、彼女は、どんな顔をしただろう。
もっとも、そんなことは、自分には、とてもできはしないが――
「ウゥ……ッ! ムウッ……グググ……」
「おい、見ろよ! タウロス先輩が、うなされてるぜ……!?」
「マジかよ……あのタウロス先輩でも、悪夢をみるなんてことがあるんだな」
「あの険しい顔を見ろよ……こりゃ、夢で、そうとう手ごわい敵と戦っているに違いねえ!」
「タウロス先輩をあんなに苦しめるなんて、こりゃ、ハンパな敵じゃないな……」
「本当だ、眉間のしわがすごいぞ……」
「顔が怖すぎる! ……いや、それは、いつもだけど」
「うるさいぞ。黙って寝ろ」
音もなく起き上がって忍び寄ったカリアンドロスに、寝たふりをしてごまかす間もなくゴスゴスと手刀を落とされ、うめいて静かになる少年たち。
苦悩の表情で歯ぎしりをしている友の寝顔をちらりと見やり、カリアンドロスはため息をひとつついてから、自分の葦の寝床に寝転がったのだった。