第6話 アタランタ
小さい頃から、走ることが好きだった。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
いつからそうだったのか、分からない。
物心ついたときから、走るのが好きで、だからなのか、足が速くなった。
いや、逆かもしれない。
『アタランタは本当に足が速いわねえ!』
『すごいな、風みたいだな!』
『走ってるところ、本当にかっこいいわあ』
『うらやましい! あんなふうに、走ってみたい!』
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
走るのが速かったから、ほめられて、それが嬉しかったから、走るのが好きになったのかもしれない。
いや――
「!」
ざあっ、と風が吹いた。
太陽に照らされた石と地面が放つ地上の熱気を、一気に吹き払うような、心地のいい風が。
小さい頃、風と勝負したことがあった。
風よりも速く走りたくて、でも、何度やっても追いつけなくて、走っては泣いていた。
『アタランタは……あれは、いったい何してるの?』
『風よりも速く走りたいんだって』
『えっ、何それ? それは、無理でしょ』
『そう言ってるんだけど、あの子、ぜんぜん聞かないの』
負けても負けても、走り続けたのは、悔しかったからだ。
何度負けても、きっと、勝つまで走れば、勝てる――
そして、ある時。
何十回目、何百回目かの「勝負」のときに、
『!』
自分が、いま、風を抜いた、と思った瞬間があった。
今にして思えば、単にちょうどそのとき、風が止んだというだけのことだったのかもしれない。
いや、実際、そうだったのだろう。
でも、その瞬間、今までずっと自分の背中を押していた風の圧力がふうっと消えて、自分が、たしかに風よりも速く、風を後方に置き去って走っていると、感じられた瞬間があった。
『ウオオオオオオオオオオォ!』
畑仕事をしている者たちが全員飛びあがって振り向くほどの雄叫びを、幼いアタランタはあげた。
何度負けても、きっと、勝つまで走れば、勝てる――
「ハアッハアッハアッハアッ!」
そんなわけで、彼女は今日も走っている。
「ウオオオオオオ~ッ! 今日もッ! 勝った、ぞオオオオォーッ!」
「キイイイーッ! 負けたわ! 悔しい、覚えてらっしゃい……!」
そして、いつものように水浴びをし、いつもの野原でごろごろしながら、
「――ってわけでさ。びっくりしたよ!」
アタランタは、昨日の出来事について、ボイスカに熱心に語っていた。
「木のかげをのぞいたら、そこに、いきなり、血まみれの男が座ってたんだからな! いや、あれには焦ったぁ……」
「ホーッホッホッホ! 道ばたで殴り合いが起きるなんて、あなたのご近所、ちょっと物騒すぎるのではなくて?」
「言われてみれば、そうだな。こんなこと、今までなかったし」
「用心のため、今日からは特別に、毎日、あたくしが家まで送ってさしあげるわッ! 恩に着ることね! ホーッホッホッホ!」
「いや、いいって、いいって! おまえの家、うちから遠いだろ! 逆に、おまえの帰り道が心配だよ!」
「あら……嫌だわ、アタランタったら、あたくしのことをそんなに……」
「おまえが帰り道に盗賊かなんかに襲われて、奮戦の末に刺し違えちゃったりしたら、さすがに寝覚めが悪すぎるからなぁ……」
「いきなり最悪な死にざまを想定しないでちょうだい! 膝関節を極められたいのかしらッ!?」
「ウオオオッ!? あぶねえ! 膝というか脚は全体的にマジでやめろ!」
レスリングの技をかけてくるボイスカからシュバババッと転がって距離をとり、アタランタは、ふうとため息をついた。
「しかし、まあ、確かに物騒だよな。何事もないとは思うけど、ちょっと気をつけて帰るわ」
という話をしていた――ちょうど、その帰路のことである。
「えっ!?」
例の樹の幹にもたれて、ひとりの若者が立っているのを見つけ、アタランタは思わず声をあげた。
「タウロスさん!」
背の高い若者は、今度は流血している様子もなく、彼女を黙って見下ろしてきた。
「あれから、大丈夫だった!? 対決には、勝ったのかッ!?」
若者はふたたび、肯定とも否定ともつかないあいまいな動きをしたが、全体としては、どうやら勝ったようだとアタランタは受け止めた。
「ウオオ……よかったッ! 敗北の屈辱は、勝利によってのみ雪がれるものッ! たとえ負けても、勝つまで戦う! それが、スパルタの戦士の心意気だもんなッ!」
突然出てきた名言風の台詞に、若者が驚いたような顔をしていると、
「ところで、それは?」
そのあいだに、アタランタは目ざとく若者が片手に握っていたものを見つけた。
若者は少しためらった後、ようやく、
「昨日の、礼にな……」
と重々しく言ったが、
「うわあ!」
とあんぐり口をあけ、アタランタは叫んだ。
「アザミだ! 全面トゲトゲ……めちゃくちゃ痛そう! これって、入隊のときの儀式で、男子がビシバシにしばかれるやつだろ!? 『昨日の礼』ってことは、それで、相手をこらしめてやったってわけだな!?」
「?」
話の展開についていけず、タウロスがただ佇んでいるあいだに、
「ウオオ……」
アタランタはかがみこみ、凶悪なとげがアザミの茎や葉やがく全体をびっしりと覆っているさまを、しげしげと観察した。
どうやって手に持っているのかと思ったら、その部分だけは器用に、とげごと皮をそいである。
たしかに、そうでもしておかなくては、握っている本人の手が血まみれになるだろう。
「これはやばいなあ……そいつも、さすがに懲りてただろ? 反省してた?」
「あ、ああ……」
「痛ッ」
ひょいと伸ばした手をあわてて引っこめ、アタランタは叫んだ。
ちょっと触っただけなのに、普通に、指にとげが刺さった。
「いってぇ。血が出た!」
若者が呆然としているあいだに、アタランタはすばやく指を口に入れると、あいている手で近くの薬草をぶちりと摘み取り、新芽をよくよく噛みつぶして、指先の傷にあてた。
「これでよしと。しかし、アザミ、マジでやばいな……こんなもんでしばかれたらマジで……あ、ごめんなさい!」
ぶつぶつと呟いたところから、急に我に返ったように、アタランタ。
「急に話しかけちゃって。うちの村に、まだ何か用事?」
「いや」
若者は短く言うと、そそくさと背を向けて、隣村のほうへと歩き去っていった。
アタランタは、なんとなくその場に立ったまま、やけに広い背中を見送った。
彼は、途中で一度だけふりかえり、アタランタがまだそこに立っているのを見つけて、ぎくりとしたような動きをし、あわてたように去っていった。
* * *
「変ねえ」
夜、炉の炎を囲みながら、アタランタの母が言った。
ちょうど、アタランタが、先ほどの出来事を話してきかせたところだ。
アタランタの小さな妹、ポイバは、もう編みかごのなかですやすやと眠っている。
「変って……なにが?」
「だって、その子……タウロスくんは、昨日、そっちへ曲がったところの樹のそばで、殴られたっていうんでしょう?」
「うん。地面に血の跡があった!」
「でも、隣村のタウロスくんっていったら、同じ年頃の子のなかでも負けなしって言われてるほど強いはずよ。そんな彼を、この村で、誰かが、いきなり襲ったっていうの? それは、いったい誰?」
「たしかに、妙だ」
アタランタの父、エウリュメドン殿も、腕組みをして言う。
「今日のわが村の訓練では、新しく大きなけがをしていた者など、一人もいなかったぞ。もちろん、鞭で打たれたような傷痕のある者もな」
「って、ことは……」
アタランタは、目を見開いた。
「タウロスさんを襲ったのは、この村のやつじゃない、ってことかッ!?」
「よそ者が、村に入りこんでいたというの? ぜんぜん気付かなかったけれど……アタランタ、どうしてこういう大事なことを、昨日のうちに話さなかったのよ」
「いや、だって、昨日は、そこまで大ごとだとは思ってなかったしッ、……ごめんなさい! これ、実は、けっこうやばい話だよね!?」
「あなた、今からでも、村長に報告しますか?」
娘と妻から食い入るように見つめられたエウリュメドン殿は、ふむ、としばし考えこみ、
「いや。明日で、よいだろう」
と言った。
「あなた、そんなことを言って、もしも怪しい者が村のなかに入りこんでいるのだったら――」
「本当にまずい事態だったなら、タウロス本人が必ず、昨日のうちに、自分の隊で報告している。その報告は、すぐに、わが村にも回ってくるはずだ。これは、絶対の掟だ」
エウリュメドン殿は、重々しく言った。
「そのしらせが、今に至るまで、何もない……ということは、この件に関して、差し迫った危険はない、と判断してよいだろう。今のところはな」
「でも……」
「気になるならば、明日にでも、わしが確かめておこう。今夜のところは、安心して眠りなさい。この家には、わしがいる。それに、番犬のアルカとイオカもいるからな」
「ええ、そうね。いざとなれば、私たちも戦うわ」
「うん! ポイバは、私が守るッ!」
「よし。では、もう眠ろう」
「はーい!」
アタランタはすっかり安心して、「ウオオオォ……」と寝言を言いながら、ぐっすりと眠ったのだった。