第5話 タウロス
「おまえなあ」
タユゲトス山脈の影が長くのびて、スパルタの村々をおおう夕方。
心底あきれ返った、という口調で、カリアンドロスは言った。
「いったい何をどうしたら、そんな間抜けなことになっちまうんだよ……!? 待ち伏せのあいだに緊張しすぎて、鼻血が出ただと!? ガキか!?」
小川で鼻血をすっかり洗い落としたタウロスは、友の言葉にも何も言い返さず、げっそりとした様子で座っている。
「だいたいおまえ、戦場で突撃するときにだって、鼻血なんか一度も出したことないだろうが! どんだけ緊張したんだよ!?」
「冥府の入口が見えた……」
「死ぬな! 生きろ! つか、アタランタちゃんとしゃべるのが戦場よりヤバいって一体……ん? 何だそれ」
「もらった。彼女から」
タウロスが大切そうに握っているのは、しおれた薬草の束だった。
ちょっと鼻血のついた葉を、太い指でそっとととのえ、丁寧に腰紐にはさむ。
「乾かして、常に持ち歩こう。袋かなにかに入れて……」
「乙女かッ!?」
両手をわななかせて叫び、カリアンドロスは、びしりとタウロスを指さした。
「とにかく、こうなったら、次の方法を考えるしかない! 地面ドン作戦は当面、延期だ……顔面におまえの鼻血が降ってきたら、彼女、キュンとするどころか、悲鳴をあげて逃げるぜ」
「俺も、それだけは避けたい……」
「当たり前だ! スパルタの男の恥だ。だが、まだ勝算はある」
カリアンドロスは大またに行ったり来たりしながら言った。
「作戦は大失敗だったが、いずれかの神々の助けで、結果的にはそう悪くない展開になった。彼女は、おまえが緊張しすぎて鼻血を出して座りこんでいたという情けない事実には、まったく気づいていない」
「情けない事実……」
「事実、情けないだろうが。とにかく彼女は、おまえが誰かに殴られて流血し、勇ましく仕返しに行ったと思ってるわけだ。その設定を利用するんだ!」
「設定とは」
「いちいちうるさいな。アタランタちゃんの勘違いを、そのまま使うんだよ。おまえ、彼女から薬草の束をもらったんだろ? だったら、明日の鍛錬が終わってから、すぐ、薬草の礼に行け!」
「彼女の、家にか!? むう……オオカミ……いや、イノシシ……」
「そうじゃない、本気の手土産の算段をするな。草の束が、狩で仕留めたイノシシになって返ってきたら、相手もびっくりするだろうが」
「だが、家を訪ねるなら……」
「いきなり訪ねるな、殴りこみかと思われるだろ! そうじゃない。道ばたで待ち伏せをしておいて、偶然会ったふりをするんだ」
「また、待ち伏せか……鼻血に気をつけなくては……」
「鼻血は二度と出すな、気合で止めろ。とにかく! なにげなく会ったようなふりをするが、ちょっとした返礼の品は、ちゃんと用意しておく」
「イノシシ……」
「よし、タウロス。いったん深呼吸して、イノシシから離れよう。いいか。いいな? ここは花だ、花!」
「花……だと……ッ!?」
「何の驚きだ、それは……? 薬草の束をもらった礼なんだから、花の束くらいで、ちょうど釣り合いがとれるだろ」
「む……しかし、待て。偶然会ったというのに、花を持っているというのは、おかしくないか? それでは、俺が常に花を持ち歩いている不思議な男ということに……」
「まさにそこだ、タウロス! いいところに気が付いたな」
カリアンドロスは、ばんばんと友の肩を叩いた。
「いいか? 口では『偶然会った』と言いながら、手には、すでに花束を持っていた。これはいったい、どういうことだ?」
「不思議だ」
「すこしは深く考えろよッ! つまりこれは、『本当は君に会いたくてここで待っていたんだ』という意味になるだろうが!」
「おお……」
「『タウロスさん、偶然会ったなんて言ってたけれど、最初からこの花束を持っていたわ……もしかして、私にこれを渡すために、ずっとあそこで……!? キュン!』というわけだ!」
「…………………ああ。今のは、彼女の真似か。急に狂気にとらわれたのかと思ったぞ。しかも似ていない」
「黙れ。いいか? 彼女に会ったら、まずは『やあ』と言え。……いや、『おう』のほうが豪快で頼もしい感じが出るかな? ……いやむしろ『また会ったな』のほうが……いや、これじゃまるで決着をつけにきたみたいになる……やはり『やあ』だな!」
「だんだん演劇の監督めいてきたな」
「おまえが、鼻血を出すくらい女としゃべり慣れてないから、いちいち俺が考えてやってるんだろうがッ! とにかく、こっちから『やあ』と声をかけたら、きっと彼女のほうから何かしゃべりかけてくるから、適当に返事をしろ」
「何か……? 何か、とは……何だ!? 適当とは……!?」
「やめろ、また鼻血が出る。まあ多分、彼女は『昨日は大丈夫でしたか?』とか『相手は倒せたんですか?』とか、きいてくるだろう」
「相手……?」
「だーかーらー、おまえは、誰かに殴られて流血して、その報復に行ったってことになってるんだろうが! その設定をいかして話を進めるってことに、さっき決まっただろ。忘れるなよ」
「なるほど、ここで『設定』が……さすがは監督だ」
「監督言うな。とにかく、その話題には深く立ち入らずに『まあな……』とか何とか、重々しく呟いておけ。おまえは実際強いし、毎日、鍛錬でいろんなやつらをぶっ倒してるんだから、実力を盛ったということにはならんだろ」
「ふむ」
「そこで、おもむろに花束をさしだし、『昨日の礼だ』と渋く呟いて、彼女が驚いているあいだに、サッと去る! これで完璧だ!」
「おお……」
険しい顔をしながら、空中で手を動かし、明日の手順をひとつひとつ確認していたタウロスは、
「用意する花だが……何の花がいい?」
ときいた。
これにはカリアンドロスも、難しい顔をする。
「それは……俺も、花のことはよく知らんからな。まあ、そのへんに、なんか咲いてるだろ」
「あやめ……ヒヤシンス……そしてスイセン……」
「それは……見えざる冥府の王が、乙女だったペルセポネー女神を強引にさらう詩に出てくる花じゃないのか? ……いや。だが、いいかもしれん! できることなら、そんなふうに君をさらっていきたい、という意味合いを、言葉によらず伝えることができるじゃないか! なかなか詩人だな、タウロス!」
「ふう……」
「何も始まらんうちから、やりきったような顔でため息をつくな! よし、この作戦で決まりだ。がんばれよ!」
「ああ。今度こそ、うまくいくといいのだが……」