第4話 アタランタ
「ウオオオオオ~! 冷たい水、最高ッ!」
「オーッホッホッホ! とっても気持ちがいいわねッ!」
「二人とも、もうちょっと静かに水浴びできんか?」
木立にかこまれた泉で、清水を跳ね散らかしてはしゃぐアタランタとボイスカに、呆れた顔でクレイオ先生。
乙女たちは、脱ぎ捨てた衣にもざぶざぶと水をかけ、
「フンッフンッフンッ!」
空中で激しく振って水を切る。
羊毛の糸で織られた衣は、たちまち元の軽やかさを取り戻した。
濡れた肌を、そこらへんから摘んだ香りのいい草でこすり、さっぱりとしたところへ、洗った衣をつけた。
「あー、さっぱりした! やっぱり、鍛錬のあとの水浴びこそ至高だなッ!」
「オーッホッホッホ! お肌がとってもいい香りだわッ!」
「よし、そのあたりで少し休んでから帰るか」
クレイオ先生に率いられた乙女たちの一団は、泉の木立を出たところに広がる野原に行き、思い思いにちらばって、しゃべったり、寝転んだり、草花を摘み集めたりしながら、濡れた髪や衣を乾かした。
「ちょっと、アタランタ!」
香りのいい草の上に寝転がったアタランタのとなりに、ボイスカがやってくる。
「あなた、いったいどうしたのよ?」
「どう? って、なにがだ?」
「さっき、クレイオ先生がありがたいお話をしてくださってたとき、ボーッとして、気の抜けた返事をしてたでしょ? あなたらしくなかったわ。なにか悩みでもあるなら、あたくしに話しなさいよ! 宿敵どうしの仲じゃない!」
「ふつう、宿敵に悩みは話さんと思うけどな……」
「ホーッホッホッホ! あたくしが、手に入れた情報をつかって裏工作でもはたらくとでも思っているのかしら!? 笑止! 真のスパルタの女は、宿敵を打ち負かすのに、汚い手などつかわないわ! ただ純粋に実力どうしのぶつかり合いで、相手を叩き潰すのみッ!」
「助けたいのか、倒したいのか、どっちなんだよッ!?」
「助けた上で、倒したいのに決まっているでしょう! 万全の状態の相手と戦って倒したのでなければ、真の勝利とは言えないのですからねッ!」
「あー……」
アタランタはぽりぽりと頬をかいて、
「まあ、悩みっつうか、迷いっつうか、な」
「迷い?」
「ああ。クレイオ先生の言うとおり、私らは、強い子供を生み育てるために、体を鍛えているだろ?」
「ええ、そうね。それが?」
「そこなんだよなあ……」
アタランタは起き直って腕組みをし、考えこみながら言った。
「その『何かのために』鍛えてる、ってのがさあ……こう、どうも、しっくり来ないっつうか、いまいち、胸にストーンと来ないっつうか……『ただ鍛えたいから』鍛えてる、っつうのじゃ、だめなのか?」
「ホーッホッホッホ! 何を言ってるのかちょっとよく分からないのだけれど、それってどちらでも同じことなのじゃなくって?」
「いや、うーん、私のなかでは違うんだが……脳筋のボイスカには、ちょっと難しかったかなぁ……」
「オーッホッホッホ! 失礼ね! 肘関節を極められたいのかしら!?」
「うぉッ、危ねえッ……! いきなりレスリングの技をかけるな!」
シュバババッと転がってボイスカの攻撃をかわしたアタランタは、おもむろに起き上がり、ふうとため息をつく。
「なあ、ボイスカって、今、好きな男とかいる?」
「ホホホ、何なの、藪から槍に」
「いやほら、私らも、そろそろ結婚のこととか考える年齢だろ」
「まあね。でも、あたくしはそういうの、親に任せているから……っていうか」
ボイスカは目を大きくして、アタランタにずんと迫った。
「まさか、あなた、好きな男ができたの? それとも、誰か、言い寄ってくる相手がいるの!? どこの誰? 何歳? 強いんでしょうね!?」
「うお!? いや、違うって。そうじゃなくて……」
「キイイーッ! どこのどいつよ!? 許せないわ、あたくしから、生涯の宿敵を奪うなんてッ! アタランタがもうあたくしと走らなくなったら、どうしてくれるのよーッ!?」
「あっ、そう、そこ! ……いや待て、違う! そもそも、話の前提が誤解だから! 私は別に、誰も好きだなんて……」
「フフフ……どこの男か知らないけれど、アタランタに近づいてごらんなさい……あたくしがこの手で、あれをもぎ取ってやるわッ」
「怖い怖い怖い! 急に闇に堕ちるな!」
肉眼で見えかねない薄黒い炎を燃え立たせてブツブツ言うボイスカを、背後からボコンと殴って、アタランタ。
「落ち着けって! そんな男、いないから! 実在してないから!」
「……えっ。本当?」
「本当だって! 私はただ、結婚とか、妊娠とか、出産とかいうことになったら、大好きな鍛錬が今までみたいにできなくなっちまうから、アレだなーっと思っただけだよ。
だから、子を生むために鍛えてる、ってクレイオ先生の話を聞いたとき、私の思ってることとは、ちょーっと違うんだよなー、ってなったわけで……いや、もちろん先生の言ってることもわかるんだが、私のなかでは……」
「オーッホッホッホッホッホ!」
アタランタの独白を断ち切って、立ち上がったボイスカは高らかに笑った。
「なあーんだ! もう、驚かさないでちょうだい。天が大地の上に落ちてきたかと思ったじゃない!」
「そこまで巨大な衝撃だったのかよッ!? こっちが逆に驚くわ!」
「よし、みんな、集合だ! そろそろ帰るぞー!」
クレイオ先生の号令で一同はぞろぞろ集まり、声をあわせて歌いながら家路をたどった。
「みんな、お疲れ! 先生、さようなら!」
「お疲れーっ!」
「気をつけてな!」
「オーッホッホ! また明日ッ!」
「おー! またなッ!」
仲間の乙女たちがひとり減り、ふたり減って、やがて、最後に残ったアタランタとクレイオ先生が別れるところまで来た。
「先生、今日もありがとうございましたー! また明日!」
「おう、また明日な。……アタランタ!」
「はい?」
「……いや、何でもない。明るいが、気をつけて帰れよ」
「はーい!」
クレイオ先生の微妙な歯切れの悪さを気にもとめずに、アタランタはすたすたと歩き出した。
もうすこしで家が見えてくる、というところで、
「んッ!?」
アタランタは、奇妙な光景に出くわした。
血痕だ。
彼女が通る道のど真ん中に、点々と、赤い血が散っている。
(こんな、うちのご近所で、決闘でもあったのかッ!?)
だがよく観察してみると、決闘で流れた血にしては、量が少ない。
しかも、その血の跡は点々と続き、近くの樹のかげに消えていた。
(けが人……!?)
アタランタはごくりと唾をのみこむと、うかつに接近しすぎないよう大きく回り込んで、樹のかげの様子をたしかめた。
「うわ」
そこに、ひとりの逞しい若者がいた。
道に背を向けるようにして樹の幹にもたれ、長い両足を投げ出して座りこんでいる。
彼の顔は下半分が血に塗れ、広い胸板や腹にまで血がついていた。
彼はうつむき、赤く染まった自分の手のひらを見つめていたが、はっと顔をあげてアタランタの姿に気づくと、大きく目を見開いた。
その顔に、特徴的な大きな傷跡を見て、
「あ!」
反射的に指さし、アタランタは言った。
「えー、あー、えーと……そうだ、隣村の牡牛さんだよな!? 大丈夫!? ……いや、大丈夫じゃないか、血がすごい! えっ、誰かに、やられたのか!? ここで!?」
若者は黙ったまま、目をそらし、肯定とも否定ともつかないあいまいな動きをした。
「うわ、マジか……え、大丈夫!?」
若者が急に立ち上がったのでアタランタは慌てたが、彼はまっすぐに立ってアタランタを見下ろした。
その体はまさに牡牛のように逞しく、アタランタの身長では肩にも届かないほどの上背がある。
若者は、そのまま何も言わず、くるりときびすを返して、ふらふらと立ち去ろうとした。
「ちょ、どこへ……あッ」
はっと気付いて、アタランタは叫んだ。
「報復攻撃か!? これから、やったやつを追いかけていって、ぶっ倒すってわけ……? 負けたまま家に帰るなんて、悔しくて悔しくて、寝られないもんな!?」
若者の足が一瞬、ぴたりと止まり、彼は、今度ははっきりとうなずいた。
「ウオオ……戦士だッ!」
アタランタは感動したようにうなずくと、たたっと彼に駆け寄って、手に握っていた草の束――野原から戻ってくる道すがら、道ばたから摘み集めた薬草だ――を、血まみれのタウロスの手に押しつけた。
「よかったら、これどうぞッ! 傷に効くやつ。がんばって!」
それだけ言って若者に背を向け、たいへんよいことをした、と爽やかな気持ちで、家に帰った。




