第3話 タウロス
「おいおい、タウロス、どうしたんだ?」
けわしい顔で道ばたの石に腰をおろし、近くのしげみから薬草を引き抜いては嚙みつぶして肩のあざに塗りつけていたタウロスは、呼びかけにちらりと視線をあげた。
やってきたのは彼の幼馴染、「美男子」カリアンドロスだ。
つややかな金髪に、二つ名のとおりの甘い顔立ちだが、首より下はタウロスと同じく、スパルタの男の見本みたいな体格をしている。
タウロスは、ふうっと息を吐き、
「クレイオにやられた」
と短く答えた。
「クレイオに!? おまえ、あの『熊女』を怒らせるようなことを、何かやらかしたのか?」
カリアンドロスはきいたが、タウロスはそれ以上答えることなく、黙々と薬草を噛みつぶしては肩に塗り続けた。
「まあ、それは置いといて」
カリアンドロスのほうも特に深く聞きたかったわけではないらしく、さっさと話を変える。
「さっそく本題に入ろうじゃないか」
「本題だと……? 何の話だ」
「そりゃあもちろん、おまえがアタランタちゃんを口説く手はずを――ッ!?」
瞬時に立ち上がったタウロスの拳が、うなりをあげてカリアンドロスの鼻先を行き過ぎる。
カリアンドロスがすばやく身をかわしていなければ、「美男子」の誉れ高い顔面は、岩に叩きつけられたリンゴのようになっていたところだ。
タウロスは続けざまに拳を繰り出したが、カリアンドロスは華麗な足さばきと体さばきで、そのことごとくを滑るようにかわしていく。
「おい、やめろ、タウロス! やめろよ! やめろって……のが聞こえねえのかオラアアアァァッ!」
とうとうカリアンドロスも甘い顔立ちからは想像もつかぬ剛腕で連打を繰り出し、しばしの激しい殴り合いの末、
「ハアッ……ハアッ……ちょっと待て、タウロス……いったん落ち着こう」
「むう……」
互いにだいぶボコボコになった状態で、二人の若者は荒い息をつきながら地面に腰をおろした。
「おまえ……なんで、急に俺に殴りかかった?」
当然といえば当然のカリアンドロスの問いに、タウロスはしばし黙り込んでから、
「貴様は、なぜ、そのことを知っている」
と、問いにさらなる問いで返した。
「なぜ、って、そりゃもちろん、俺のじいさまに聞いたからだよ」
カリアンドロスのじいさまとは、「薬草のじいさん」ことアナクサンドリダス殿に他ならない。
タウロスは、黙って立ち上がった。
その肩を、同時に立ち上がったカリアンドロスが、がっしと押さえる。
「待て待て待て。おまえ、何、自然な流れで俺のじいさまを消しにいこうとしてんだ」
「戦士にあるまじき口の軽さ、許せん……! 俺がこの手で永久に黙らせ」
「やめろっつうの」
がん! とタウロスの後頭部を拳で殴り、カリアンドロスは、痛そうに右手を振った。
「安心しろ。この話を知ってるのは、じいさまの他には俺だけだ。じいさまが、おまえのことをいろんな意味で心配して、わざわざ俺を加勢によこしたんだぞ。むしろ感謝しろよ」
「いろんな意味で、とは……」
「気にするな。とにかく、手はずを決めるぞ!」
「助けなど無用だ。帰ってくれ」
「ったく、素直じゃねえなあ。こんなことをゴチャゴチャやってるあいだに、他の男がアタランタちゃんに近づいたらどうすんだ?」
「何だとッ!?」
「ウググググググ」
凄まじい握力で首をしめあげてくるタウロスの手をどうにか振り払って、カリアンドロスはすばやく間合をとった。
「な? それは困るんだろ? だったら、チャッチャと手はずを整えて、ガッといってバンといってズドーンだ!」
「何の音だ……?」
「気にするな。さてと、アタランタちゃんは今どこで何をしてるんだ?」
「泉へ水浴びに行った」
「なんで知ってんだよ」
「仲間の乙女たちや、クレイオと一緒に」
「なんか……俺、おまえが肩に青あざをこしらえた理由がなんとなくわかったような気がする」
半眼でつぶやいたカリアンドロスだが、
「とにかく、クレイオが一緒じゃ、手出しは難しいな。アタランタちゃんがクレイオや仲間と別れて、ひとりきりになったところを狙え!」
「発想が盗賊なのだが」
「そう、おまえはこれから盗賊になるんだよ……! 彼女の清らかな心を盗む、罪な盗賊になっ!!」
「何を言っているのだ貴様は」
「とにかく! 彼女がひとりになったところを見計らって、いきなり現れ、声をかける!」
「声を……?」
「そうだ。そして、いい感じになったら、こう!」
カリアンドロスはいきなりタウロスの両肩をつかんで地面に押し倒した。
そのまま馬乗りになろうとしたところで、カリアンドロスは急に不自然な体勢で動きを止め、目だけを下に動かした。
熟していないザクロの実を握りつぶしたこともあるという噂のタウロスの片手が、鷲の鉤爪のように開き、カリアンドロスの股間に当てられている。
「ええと……我が友よ、君はなぜ急に、俺のあれを握りつぶそうとしているのかな?」
「貴様こそ、急に何だ……殺られるかと思ったぞ」
「やられるの意味が違うんだよなあ……」
カリアンドロスは少なからず勢いをそがれた顔でタウロスの上からどいたが、気を取り直したように、さらに熱弁をふるった。
「壁ドンを一気に飛び越えて、床ドンならぬ地面ドンだ! 姉上が、これにキュンとしない乙女はいないと断言なさっていた」
「貴様の姉上は、クレイオに勝るとも劣らぬ女傑ではなかったか……?」
「確かに、姉上にやったら、あそこを蹴り砕かれそうだが……物語の上では、そういうことらしい。とにかく、スパルタの女を口説くなら、多少強引にいくくらいの気迫がなければ、笑い飛ばされて終わりになっちまうってことだ!」
「むう……しかし、許しもなく彼女に触れるようなまねをしたら、アタランタの父親のエウリュメドン殿が殴りこんでいらっしゃるのではないか?」
「ここが大事なところだ。いいか? 地面ドンはするが、それ以上は、彼女に触れない! 彼女をただじっと見つめた後、不意に切なげな表情を見せ、スッと身を引いて去る……! これでアタランタちゃんの心には、おまえという男の存在が強烈に焼きつけられるってわけだ!」
「それは……恐怖の記憶なのでは……?」
「あ、確かに、おまえはめちゃくちゃ顔が怖いからな……って首を絞めるな、事実だろ……そこはあれだ、熱心に愛を囁いてだな、恋しさのあまり凶行に及んでしまったと切々と訴えるんだよ!」
「凶行……」
「何だ、まだ迷ってるのか? それでもスパルタの男かよ! たとえ勝ち目のない戦いであっても、粛々とした足取りで戦場に赴くのがスパルタの男の誇りだろうが!」
「勝ち目のない戦い」
「ああもう、細かいことをいちいち気にするな! こんなところでゴチャゴチャやってるあいだに、他の男がアタランタちゃんに近づいたらどうすんだ?」
「何だとッ……!」
「ググググググ……だから、首を絞めるなあぁぁぁ!」