第28話 アタランタとタウロス
「…………来ないな、父さん」
「ああ……」
満月の光が降りそそぐ格技訓練場の真ん中に並んで立ち、アタランタとタウロスは呟いた。
ふたりの感覚によれば、月は、今まさに最も高い位置にある。
だが、エウリュメドン殿は、いまだ姿を現さない。
「あっ!?」
アタランタは、目を見開いて声をあげた。
「まさか、場所が違ってるとか!? 試合をするっていうから、てっきりここだと思いこんでたけど、父さんのほうは、どこか別の場所で待ってるのかも……!」
「いや」
アタランタの大声に一瞬びくりと肩を動かしたタウロスだが、すぐに、穏やかな声で答えた。
「ここで間違いない。エウリュメドン殿はたしかに『我が村の格技訓練場に来たまえ』と言ったのだから」
「あ、そう? それなら、やっぱりここか……」
それきり、会話が途切れる。
これほど静かで、これほど明るい夜は初めてだ、とアタランタは思った。
月の女神が、白い顔でじっと黙って地上を見下ろしておられるようで、少し怖いくらいだ。
だが、心細くはなかった。
タウロスが隣にいるからだ。
この格技訓練場に向かい始めたときは、アタランタのほうからタウロスの手をつかみ、一緒に走った。
だが、今では、タウロスの手のほうがアタランタの手を包みこむようにしっかりと握っていて、動かそうとしても動かせない。
だが、決して痛いほどではなく、その手から伝わってくる体温も、ちっとも不快ではなかった。
アタランタは、ちらりとタウロスの顔を見上げた。
月の光を浴びた横顔は、固い決意に満ち、まるで岩に刻まれた彫像の顔のように峻厳に見える。
ふと、そのタウロスの視線が動き、アタランタを見た。
目が合うと、彼はほんのわずかに、だが、たしかに微笑んだ。
かっと頬が熱くなって、アタランタは慌てて前を向いた。
今が夜でよかった、と思った。
昼間だったら、顔が真っ赤になっているのが、ばれてしまうところだった。
ひとたび意識してしまうと、ますます鼓動は速くなり、指先から足の先まで体全体を心臓が跳ねまわっているような気さえしてきた。
繋いだ手から、タウロスがこのことに気付いてしまうのではないかと、アタランタは気が気でなかった。
ごまかそうと、握った手にぎゅっと力をこめる。
するとすぐに、タウロスもいっそう強い力で握り返してきた。
(ウッ! まさか、握力勝負だと思われた!? きついきついきつい! 血が止まる……ッ!)
と、その瞬間だ。
不意に、固く握り合った手を通じて、互いの拍動が響き合い、ひとつになったような気がした。
(え……)
タウロスの心臓も、自分と同じ速度で打っている。
アタランタは、とても不思議な気がした。
この、落ち着き払った、恐れを知らぬ顔をした若者も、自分と同じように胸を騒がせることがあるなどとは、思ってもみなかったのだ。
勝負を控えた緊張のためか。
あるいは――
もしかしたら、自分と、同じ理由で?
(フッ……まあ、そんなわけないけどな)
胸中で、わざと気取って呟いて、アタランタはそっと手を離そうとした。
だが、タウロスの手は、彼女の手をしっかりとつかんだまま、放さなかった。
* * *
「今だ、ボイスカッ!」
さきほどよりもいっそうボコボコになった顔で、鼻血を出しながらもなんとか馬乗りの位置をとったカリアンドロスが叫ぶ。
「俺が押さえているあいだにッ……やれェッ!」
「ええ、カリアンドロス!」
豊かな髪をばさばさに乱し、額に大きなたんこぶをこしらえたボイスカが、エウリュメドン殿の左腕をとらえて肘関節を極める。
「アタランタのお父様、失礼いたしますわ! ――くらえ、Χ字固めェェェッ!」
「こっちは、右からのΧ字固めだァッ!」
「名付けてッ! 新必殺技・三叉固めッッッ!!!」
「あだだだだだだ!」
謎の技名を叫ぶボイスカとカリアンドロスに、左右から両腕の肘を極められるというとんでもない状況で、エウリュメドン殿は両手の人さし指を立てた。
「参った、参った! 降参だ!」
「何ですって?」
信じられない、という顔でボイスカはつぶやき、あくまでもエウリュメドン殿の腕は放さないまま、腹筋の力で上体をわずかに起こし、反対側にいるカリアンドロスを見た。
カリアンドロスもちょうど同じように起き上がって、ボイスカに、信じられないという表情を見せている。
「アタランタのお父様……まさか、そんなことをおっしゃって、あたくしたちを油断させ、解放された瞬間に反撃なさるおつもりではないですわよね……?」
「俺たちはそんな手には乗りませんよ、エウリュメドン殿ッ! あなたほどの戦士が、やすやすと降参など、なさるはずがないッ!」
「いやいや、わしは、本当に降参すると言っているんだ」
両腕をそれぞれ二人に抱えこまれ、地面に仰向けになった状態で、エウリュメドン殿は呆れたように言った。
「そもそも、君たちは二人がかりで、こちらは一人。とても尋常の勝負ではないのだから、降参したって、わしの名誉に傷かつくことにはなるまい?
それに……おそらく今となっては、わしのほうにも、ここを押し通る理由は、すでになくなっているだろうからな」
「えっ?」
技を解きながらも、用心深くエウリュメドン殿の動きを注視して、ボイスカ。
「押し通る理由は、すでになくなっている……って、いったい、どういうことですの?」
「さすがにそろそろ、わしが来ないことにしびれを切らした若い二人が、良い感じになっておる頃だろう、ということだ」
三叉固めからようやく解放されたエウリュメドン殿は、ゆっくりと起き上がり、首を左右に倒してごきごきと鳴らしながら言った。
「これだけ遅れておいて、今さら姿を現すというのでは、あまりに無粋。あとは、アタランタとタウロスくんのなりゆきに任せよう」
その言葉の意味をのみ込むのに、三呼吸の時を要したボイスカが、
「では……」
と、目を見開いたとたんに、
「ウオオオオオオォ!」
両の拳を突き上げ、オリュンピア競技祭の優勝者のように顔を輝かせて、カリアンドロスが叫んだ。
「それでは……とうとう、タウロスと娘さんとのことを、認めてくださるのですね!? 本当に、良かったッ……やつの友人として、心より感謝します!」
「そうではない」
揃って「えっ」という表情になったカリアンドロスとボイスカに、先ほどまでとはまるで違う、いたずら小僧のような笑みを見せて、エウリュメドン殿。
「今、認めたというわけではない。……以前、彼と勝負をしたときから、わしの心は、すでに決まっていた」
「…………えっ!?」
若い二人は全く同じ表情で顔を見あわせてから、同時に食ってかかった。
「ですが……それならば……なぜ、今夜、タウロスと再戦を!?」
「そうですわ! すでにお認めになっていたならば、どうしてもう一度、タウロスさんと勝負なんて……!」
「わしは、今夜、彼と勝負をするつもりなどなかったよ」
エウリュメドン殿は、あっさりと言い放った。
「わしは、彼にこう言っただけだ。『再戦の勇気があるのならば、満月の晩、月が最も高くのぼるときに、我が村の格技訓練場に来たまえ』とな。
わしは、タウロスくんの勇気と、覚悟のほどを確かめておきたかっただけだ。彼が約束通りに格技訓練場に現れさえすれば、戦うまでもなく、それらは証明される」
「そ、それじゃあ……」
胸の前で、わなわなと両手を震わせて、ボイスカ。
「ここで体を張って足止めに徹した、あたくしたちの苦労はッ……!?」
「うむ……こんなことを言うのもなんだが、それほど、というか、あまり、というか……はっきり言えば、まったく意味はなかったかもしれん」
「……ホヒョホホホォォォ……」
「うわあッ!? ボイスカ、しっかりしろッ!」
空気が抜けた革袋のようにしぼんで倒れたボイスカを、慌てて抱きとめ、カリアンドロス。
「まあ、わしは楽しかったがね」
立ち上がって体じゅうの土埃をはらい、あちこちの関節を慎重に動かしてみながら、エウリュメドン殿は笑った。
「何しろ、君たちほど年の離れた若者と真剣勝負をする機会など、最近はめったにないからな」
「……俺もです」
完全に気絶したボイスカを抱きかかえながら、カリアンドロス。
「俺も、楽しかった……今回の件があったおかげで、彼女と近づきになることができましたから」
「果たして、そう簡単に事が運ぶかな?」
いたずら小僧のような笑みをますます大きくして、エウリュメドン殿。
「最近、暗くなると娘がしょっちゅうどこかへ姿を消してしまうといって、ストラッティスと奥方が、かんかんになっとったぞ。くだらぬ男がちょっかいをかけているなら、命はないものと思え……と、黒い炎を背負いながら唸っておった」
「ええッ!?」
「きみの戦いは、これから始まるのだよ、カリアンドロス君」
呆然としている若者の肩を、ぽん、と叩いて、エウリュメドン殿は言った。
「ストラッティスと戦い、実力を示すがいい。もしも君が武運つたなく斃れたときは……こうして一度は拳を交えた仲だ。わしも、墓に花くらいは手向けさせてもらおう。アザミでよいかな?」
「ひでぇ……」
* * *
「全然、来ないな!? 父さん……」
「ああ……」
いまだ並んで格技訓練場の真ん中に立ち、アタランタとタウロスはうなった。
アタランタはしきりにあたりを見回しては首をかしげ、タウロスは、眉間にしわを寄せている。
タウロスには黙っていたが、アタランタは、父を説得する希望をいまだ捨ててはいなかった。
格技訓練場へ来たのも、とにかく父と再び向き合い、心をこめて訴えさえすれば、きっと最後には分かってくれるだろうと考えてのことだ。
だが、その父が、そもそも来ないのでは、説得も何もあったものではない。
(おかしいな……あの父さんが勝負から逃げ出すことなんか、絶対にないはず……ハッ!?)
考えこんでいたアタランタは、不意に、神託のようにひとつの答えに思い至り、ぱっと顔を上げて目を輝かせた。
「そうかッ! もしかしたら……父さんは、分かってくれたのかもしれない!」
驚いて見下ろしてくるタウロスに、勢いこんで続ける。
「私、家を出る前に、父さんにはっきり言ったんだ。『来ないで、私たちの邪魔をしないで』って! 父さんは、きっと、私の気持ちを分かってくれて、ここに来るのをやめたんだ!」
「あなたが、父上に、そんなことを……?」
「うん」
アタランタはにっこり笑ってうなずいた。
「だって、父さんと戦って、タウロスが大けがでもしちゃったら、大変だからな! そんなことになったら……私と、全力で走れなくなっちゃうだろ!?」
「えっ」
「そんなの、絶対に嫌だ。それじゃ、尋常の勝負とはいえない! 私は、あなたと、渾身の、本気の、全力の勝負がしたいんだッ!」
驚いたように手を離したタウロスの前で、アタランタは両の拳を腹の前でぐっとかため、咆哮した。
「ウオオオオオオオオォ! これで、やっと、心おきなく競走ができるぞォォォ! 燃えてきたアァァァーッ!!」
戦の雄叫びをあげる戦士のように叫ぶ乙女を、タウロスはしばし唖然として見つめていたが、
「……えっ!? タウロス! どうして、そんなに笑うんだよ!?」
彼は、アタランタが――いや、7才から寝起きを共にしてきた兵舎の誰もが見たこともないほど、声をあげ、体を折って笑い転げていた。
「す、すまない」
くくく、とまだ残る笑いをかみ殺して、肩を震わせながら、タウロスは言った。
「あなたは……本当に……走ることが、好きなんだな」
「うん」
アタランタは心からうなずいた。
「今夜、タウロスがもう一度、勝負に応じてくれて、本当に嬉しいよ」
「では……今から、俺とあなたとで、競走を?」
「うん」
「古のアタランタと、メラニオンのように?」
そう問うたタウロスの声は、ほんの少しかすれた。
遥かな昔、イアソスの娘、俊足の処女アタランタに、求婚者メラニオンが徒競走の勝負を挑んだ。
メラニオンはアタランタに勝利し、彼女を妻とした――
「違う」
アタランタはあっさりとそう答え、にやりと笑った。
「勝つのは私だ」
* * *
格技訓練場のすぐ隣にある競走路へと、二人は移動した。
路面が微妙にがたついてはいるものの、ほぼまっすぐにひかれた約178mの道は、ふだんは男たちが鍛錬に使っている。
もはや互いに視線を交わすこともなく、アタランタとタウロスは黙々と出走地点を示す石の線にかぶさった砂をはらい、石に刻まれた溝への足指のかかり具合をたしかめた。
「そうだ」
片肌を脱ぎながら、アタランタは急に声をあげ、タウロスを見た。
「今は、審判がいないんだった。出走の合図はどうする? どっちかが言うんじゃ、その人のほうが有利になっちゃうだろ」
「俺は、あなたが言うのでかまわないが」
「いや、それじゃ、私のほうが有利になる。ここは、できるかぎり公平を期さなくちゃ!」
「それなら、二人で、同時に言うか?」
「よし、それがいい。そうしよう!」
位置について……始め! の呼吸を二人で何度も確認してから、いよいよ、アタランタとタウロスは、出走地点を示す石の線に並んで立った。
「位置について」
わずかに身をしずめ、石に刻まれた溝にかけた足指に力をこめる。
もっと緊張するに違いないと思っていたのに、自分自身でもおどろくほど、心が静かだ。
呼吸は静かに、深く。
視線は遠く、月明かりにかすかに光る決勝地点へ。
やがて、夜の静けさの底からわき上がるように、自分自身の心臓の音が、耳の奥で力強く響きはじめた。
まるで、運命をかけた戦いにのぞむ戦士を鼓舞する太鼓の音のように。
その音はどんどん速まって、速まって、やがて聞こえなくなり――
「始め!」
二人は同時に叫び、飛び出した。
腿を上げ、胸をはり、腕を振って疾走する。
もはや、相手の姿は目に入らなかった。
己の足音さえも遥か後方へと置き去って、走る。
足速き英雄のように、翼ある言葉のように。
心にある思いのように、速く――
「ウオオオオオオーッ!!」
決勝地点を駆け抜けた勝者は、月明かりを全身に浴びながら両腕を突き上げ、夜気をふるわせる雄叫びをあげた。
「勝ったァァァァァ! 私は! 勝ったぞおォォォォッ! やったアァァァーッ!!」
審判がおらずとも、互いに、間違えようもなかった。
その差、およそ腕一本分。
前回と明暗を入れ替えたかたちでの、アタランタの勝利であった。
勝利の雄叫びをあげるアタランタの背後で、タウロスは、決勝地点に崩れ落ちている。
全力だった。
あのときと同じように。
自分が負けるなどとは、想像もしていなかった。
そして、彼女は、あのときよりも速くなっていた。
「アタランタ……!」
地面に両手をつき、がっくりとうなだれながら、焼けつくような喉から声をしぼり出す。
(お願いだ……俺に、もう一度……)
再戦の機会を。
そう言おうとしたとき、目の前に、ふわりと風が起きた。
アタランタが戻ってきて、彼の前に立っていた。
「ありがとう。私と、全力で戦ってくれて……」
雨粒のように、しずくが一滴、乾いた地面に落ちて吸い込まれるのが見えた。
彼女は泣いているのか、と慌てて顔を上げると、アタランタは、笑っている。
「さてと。私が勝ったから、優勝の賞品を要求してもいいかな」
タウロスがぽかんとしていると、アタランタは何だか困ったようにあっちを見たり、こっちを見たりしながら、両腕を広げた。
「抱きしめてくれる? ……私を」
タウロスはしばらくのあいだ、黙ったまま、月明かりに照らされて両腕を広げる乙女の姿を見上げていた。
そのアタランタの顔が、徐々に気まずそうになってくるほど長いあいだ、そのままでいてから、タウロスは、驚くほど小さな声で言った。
「本当に?」
「…………あー……いや、ええと。どうしても、嫌だったら、勘弁してもいい」
「俺はあなたのものだ、アタランタ」
タウロスはそう言って、立ち上がり、アタランタを抱きしめた。
目を見開いたアタランタの耳元に口を寄せて、若者は夢を見ているようにささやいた。
「俺は、勝って、あなたを手に入れるつもりだった。だが、勝ったのはあなただ。あなたが、俺を手に入れたんだ。……言ってくれ。次は、どうすればいいか」
「本当に?」
アタランタも、驚くほど小さな声で言った。
今、彼女の頬は、タウロスの厚い胸板にぴったりと押しつけられていて、彼の熱い息遣いも、その胸の奥で自分と同じように破れんばかりに騒いでいる心臓の音も、残らず聴きとることができた。
「じゃあ……あなたと、口づけがしたい」
タウロスはアタランタの両肩にそっと手を置き、身を屈めて、彼女の唇に何度も口づけをした。
はじめは敬意をこめて、軽く、触れるように。
やがては情熱のままに、深く。
「……次は?」
「次は……」
アタランタはタウロスの肩越しにそっと目を上げて、少し傾き始めた真っ白な月を見た。
それから目を閉じ、タウロスの逞しい肩に顔をうずめた。
「あなたと、ΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑがしたい」




