第25話 ボイスカとアタランタ、そしてタウロス
その翌日。
「ねえ、アタランタ」
激しい鍛錬の中休み、日陰に座って水を飲んでいたアタランタのとなりに腰をおろし、ボイスカはなにげなく話しかけた。
「あなた……今も、タウロスさんに恋をしている?」
「グゴゥフッ!」
今まさに飲みこもうとしていた水を全部地面にふきだして、盛大にむせ返るアタランタ。
「エホッ、ケホッ……ちょ、待てよ、ボイスカッ! いきなり、なんでそんな話ッ……!?」
「このあいだ話を聞いたときから、どうしても気になってたのよ。恋をするって、いったいどういう感じなの? あたくしにも教えてちょうだい」
「いや、どういう、って言われてもな……」
ずずい、と真顔のボイスカに迫られて、アタランタは、きょろきょろと辺りを見回してから、小声で言った。
「まあ、この前も言ったけどさ……タウロスさんのことを考えると、顔も、体も熱くなるんだ。それに、胸の中が、こう……くすぐったい感じがする。ちょうちょをつかまえて、手の中に入れてるときみたいに」
「まあ……今も?」
「いや、さすがに、鍛錬のときは、それはないな! そっちに集中してるから。でも、一人でぼーっとしてたりすると、自然と、タウロスさんのことを考えちゃうっていうか……」
「そうなのね」
ボイスカは深くうなずくと、豊かな胸がアタランタの二の腕にぎゅうっと触れるほどに接近して、ささやいた。
「それじゃ……タウロスさんが、自分の夫になったらいいのに、と思う?」
「あー、それは無理だな」
ばさりと切って落とすようなアタランタの口調に、ボイスカの表情は一瞬、凍りついたが、アタランタ自身は視線をまっすぐに、遠くへ向けていて、ボイスカの表情の変化には気づかなかったようだ。
「だってさ、そんなの、まず、兄貴たちや父さんが許さないよ! 何しろ、うちの兄貴たちが、三人そろって、タウロスさんにボコボコにやられちゃってるからな! 私とタウロスさんがそんなことになったら、ほら……気まずさが、半端じゃないだろ!?」
ボイスカが何か言うよりも先に、アタランタは、いつもよりも明らかに早口で、先を続けた。
「それに、タウロスさんだって……兄貴たちや父さんと、あれだけ戦った後で、私と……ってのは、な? それは、ないだろ? ありえないよ……」
ボイスカは、そうつぶやく宿敵の、さびしげな表情を、じっと見つめていた。
「アタランタ、あなた、あたくしの質問に、ちゃんと答えていなくてよ」
やがて、ボイスカは静かに言った。
「あたくし、お兄様やお父様たちのことなんて、きいていないわ。『あなたはタウロスさんが自分の夫になったらいいと思うか』と尋ねたのよ。
まわりのことは全部、いったん無しにして……タウロスさんが、夫として自分に触れることになったら、あなたは、嬉しい? それとも、嬉しくない?」
「え…………いや……まあ、そりゃあ……」
そこまで言って、不意に、アタランタは顔を真っ赤にした。
「って、ボイスカッ! 真剣な顔して、急に、なーに言わせるんだよッ! 恥ずかしいなあ、もう!」
言いながら、ボイスカの背中をばしばし叩く。
いつもなら言うはずの文句も言わず、ボイスカは、ふっと笑みを浮かべると、
「分かったわ」
おもむろに立ち上がり、金の髪をひるがえした。
「さて、あたくし、そろそろ行かなくちゃ」
「え?」
宿敵の急な発言に、アタランタは座ったままで目を白黒とさせる。
「行くって、どこに? まだ、鍛錬は終わってな――」
「ちょっとね」
ボイスカはそれだけ言い残し、呆然とするアタランタをおいて、すたすたと立ち去ってしまった。
「おい、どうした、アタランタ?」
「あっ、クレイオ先生……!」
このことを話していいものかどうか、アタランタは一瞬迷ったのだが、自分が話さなかったとしても、この後、すぐに分かることである。
「なんか、ボイスカが、急にどっか行っちゃったんだけど……」
「ああ」
当然のようにうなずいて、力強く、クレイオ先生。
「ボイスカから、話は聞いている。今日はこの後、大事な用があるそうだ」
「大事な用?」
「うむ。何でも、関節技の奥義をきわめるため、タユゲトス山に登るとか何とか……」
「タユゲトス山ッ!?」
「危険だぞ、と止めたのだが、あいつは『冥府に入らずんば三頭犬を得ず』と――」
「冥府にッ!?」
「『明日はちゃんと鍛錬に参加するので心配しないでください』とも言っていた」
「日帰りなの!?」
謎が深まるばかりだ。
仕方がないので、アタランタは、一人で鍛錬を再開した。
乙女たちの組のうち、競走でアタランタの練習相手をつとめられる者は、ボイスカしかいないのだ。
(タウロスさん……)
頭の中を、先ほどのボイスカの問いかけがくるくると回って、それが、ひとつの面影を呼び起こす。
昨日、ギンバイカに囲まれた木陰で、彼が見せた笑顔。
(ほんとに、すごく、いい人だよな。喜んで私と競走してくれるし……スパルタには、家族以外の相手と話すときは岩みたいな顔になる男の人が多いけど、タウロスさんは、笑顔で喋ってくれるし。あの笑顔を……戦う相手としてじゃなく、ただ隣にいて、見ていることができたら……いや)
とりとめもない思いは、出走地点に立つと同時に、静かな決意に塗りかえられていく。
見えるものはただひとつ、ずっと先にうっすらと浮かぶ、決勝地点だけだ。
(あと二日だ。タウロスさんと戦うまでに、もっと速く……これまで走ったことがないくらいに、速く! 満月の晩には、自分の中で、史上最高の走りをするんだ。たとえ、その後、二度と走れなくなったとしても、絶対に後悔しないくらい……いや……違う)
『これまで』なんて、関係ない。
『その後』なんて、存在しない。
走っているとき、あるのは、ただ、走っている、その瞬間だけだ。
速く、速く、もっと速く。
その瞬間に、風になる。
いや――
「位置について!」
クレイオ先生の声が聞こえる。
もっと、速く。
風よりも、速く――
「……始めッ!」
* * *
「……アタランタが……俺と、もう一度……?」
「ええ」
陽が中天にかかり、暑さがもっとも厳しくなるころ。
エウロタス川の川辺でひそかに言葉を交わす、一組の男女の姿があった。
だが、その場に漂う空気には、甘い気配など欠片もない。
ひとりは、水浴びのさなか、川に半身をつけたままのタウロス。
もう一人は、豊かな金髪を布でおおい、口もとにも覆面をつけたボイスカだ。
今日も静かな場所でひとり、水につかろうとしていたタウロスは、そばの茂みから急に覆面の女が姿をあらわしたのを見て反射的に『殺られる前に殺る』ところだったが、あやういところで、それがアタランタの友人であることに気付いたのだった。
そして今、二人は、川の中と、ほとりとで、この上もなく真剣な表情を向きあわせている。
「あの子は、あなたに恋しているわ。ここのところ、いつだって、あなたのことを考えているもの。あなたのことを思うと、顔も、体も熱くなるって……」
ボイスカのその言葉に、タウロスは何も答えなかったが、岩のようなその顔つきに、その一瞬、かすかに笑みのようなものがよぎるのを、ボイスカはたしかに見た。
「でもね」
まっすぐに相手を見すえながら、ボイスカは続ける。
「同時に、彼女は、深く悩んでいるのよ。
男たちは、どれほど深く女を愛しても、大きく動くのは、その心だけ。でも、女たちは、そうはいかない。心だけでなく、体も変わるの。分かるでしょう? 子を宿し、子を生むことは、女にとって、自らの命をかけた戦いだということ」
「……ああ……」
「アタランタは、あなたに恋している。でも、同時に、あなたとそういう関係になれば、もう、今のようには走ることができなくなるかもしれない、とも感じているの。
だから……乙女である最後の夜に、あなたと、持てるすべての力を出し切って、競走することを望んでいる」
ボイスカの言葉に、タウロスはじっと耳を傾けていたが、
「分かった」
やがて、いかつい顔をふとゆるめ、安心してくれ、というように、ボイスカにうなずきかけた。
「それが、彼女の望みなら。彼女が、乙女でいるあいだに……もう一度、彼女と、スタディオン走をすればいいのだな」
その表情を食い入るように見つめ、口調に耳を澄ましていたボイスカは、
「あなた、どうやら、何も分かっていらっしゃらないようね」
不意に、冷ややかな声で、そう断じた。
「あたくし、今、あなたが何を考えたか分かったわ。あなた……アタランタに、勝ちを譲ろうと思ったでしょう? 彼女を満足させるために……」
驚きと、不満を隠しきれずにいたタウロスの顔は、その言葉を聞いて、凍りついたようになった。
ボイスカの言葉は、この上もなく鋭く、真実を射抜いていたからだ。
「勝負にのぞむ以上は、己の全身全霊、全力をもって相手と戦い、本気で叩き潰す……それが、戦士の礼節というもの。それなのに、勝ちを譲ってやろうだなんて、何という傲慢、不遜、無礼でしょう!
ひとかどの戦士にとって、宿敵に情けをかけられることは、この上もない恥辱。情けで譲られた勝利で、あの子が、喜ぶとでも思っているの? あの子が、それに気づかないとでも? あなたは、運動選手としてのアタランタの実力を、それほどまでに見くびっているのかしら?」
「そんなことはないッ」
思わず声を荒らげそうになり、タウロスは、はっとして口をつぐんだ。
生い茂る葦と、いくばくかの距離を隔ててすぐに、共に水浴びに来た仲間たちがいるのだ。
ボイスカは、そんなタウロスをまるで憐れむかのように、ふっと笑った。
「でも、そんな余裕を見せていられるのも、今のうちだけよ。
あたくしがわざわざここへ来たのは、アタランタの言葉を伝えるため。……いいえ、伝えるまでもなく、きっと、もうご存じね。古の女狩人、アタランタが何と言ったか、あなただって、知っているはずだもの」
一瞬、ボイスカが何の話をしているのか分からず、タウロスは無言のまま彼女を見返した。
だが、一つの考えが心に浮かぶと同時、彼の顔には、急に殴られた少年のような表情が広がっていった。
「競走で、己を打ち負かした相手でなくては……決して、夫とは認めぬと……」
「そうよ」
「では……次の、競走で……?」
「ええ。あたくしには、アタランタの気持ちがわかるわ! 自分より足が遅い男のために、せっかく神々が与えたもうた俊足を失う危険を冒すなんて、ばかばかしいもの」
「だが……俺は、すでに、一度」
そこまで言いかけて、タウロスは黙った。
一度、自分が勝利を得たからといって再戦を受け付けないというのであれば、満月の夜に再びエウリュメドン殿に挑もうとしている自分自身はどうなるのだ?
「さあ、少しは、本気になったかしら?
言っておくけれど、今のアタランタが、前回の競走のときの彼女と同じだなどとは思わないことね。あれから、アタランタがどれほど真剣に鍛錬に打ち込んできたか、あなたにも見せてさしあげたいくらいよ! オーッホッ……ホッホ」
高笑いを途中であわてて止め、ボイスカは、うつむいて黙りこんでいるタウロスを見つめた。
居丈高な態度が、つかの間、なりをひそめ、彼女は少し心細そうな目をして、そっと問いかけた。
「それでも、あなたは、彼女を得るために戦う気持ちがおあり? それとも……一人の娘のために、こんなふうに度重なる試練を課されるなんて、もう、ばかばかしくなってきたかしら? それなら――」
「彼女に伝えてくれ」
タウロスは、うつむいていた顔を上げ、はっきりと言った。
「俺は、必ず勝つ。あなたを打ち負かし……あなたに恥じない男である証を見せよう、と」
「ああ……」
こわばっていたボイスカの表情がゆるみ、
「良い覚悟だわ……それでこそ……」
彼女はそう呟いたが、次の瞬間には、胸をそらして高笑いをあげた。
「ご自分が口にした言葉、決して忘れないことねッ! 後で恐れをなしても、もはや、逃げることはできなくてよッ! オーッホッホッホッホ!」
笑うだけ笑うと、さっと身をひるがえし、茂みのなかに消えていく。
黙って見送るタウロスのそばで、
「あッ……うわ、ばか野郎、押すな!」
「ウオオオオオオッ!?」
急に、背の高い葦のしげみが激しく揺れたかと思うと、バサバサァッ! としげみ全体がこちらに倒れかかり、その向こうから、何人もの若者たちが転がり出てきた。
「ボボボボボボ……」
「ハッ!? 皆、はやく立て! カリアンドロスが下敷きになっているッ」
「おい、タウロス! 今の女との話、本当かッ!?」
「あのアタランタともう一度、競走をするのか!? それに勝てば、彼女を手に入れられるんだな!?」
「あのエウリュメドン殿が、よく許したものだ……きっと、この前の対戦であそこまで食い下がったおまえの、実力を認めてくださったんだ!」
「競走はいつだ!? 教えてくれ!」
「おう! 俺たちも、応援に行くぞッ!」
折り重なった状態から立ち上がり、熱く叫ぶ仲間たちに、
「……すまないが」
静かな面持ちで、タウロスは告げた。
「少し、一人にしてくれ」
そして彼は、呆気に取られている仲間たちを残し、エウロタス川の流れからあがって、木立のなかに姿を消した。
(タウロス……がんばれよ)
仲間たちによって水中から引き出され、金髪からぼとぼとと川の水を滴らせながら、カリアンドロスは、その背中を見送った。
(満月の晩……おまえとアタランタちゃんとの真剣勝負を実現させるために、俺は、この命をかけるぜッ!)




