第24話 カリアンドロスとボイスカ
その日の、夕暮れ時。
境界石の近くの茂みのなかに、一組の男女の姿があった。
「――と、いうことだったんだよ……」
隠しようもなくげんなりとした表情で、首のあたりをさすりながら、カリアンドロス。
「先輩の絞め技を食らったときには、ちょっと冥府が見えたぜ。そもそも、まさか、いきなりアタランタちゃんがタウロスを訪ねてくるとはな……」
「そこは、あたくしの不覚だったわ! ごめんなさい」
眉をぎゅっと寄せて、ボイスカ。
「鍛錬のあと、ふと気づいたら、もうアタランタがいなくて……まさか、いきなり一人でタウロスさんと勝負の日取りを決めに行こうとするなんて、予想していなかったの。これからは、アタランタから決して目をはなさないようにするわ!」
「ああ、頼むぜ」
うなずいて、カリアンドロスは、少しくつろいだ笑顔を見せた。
「しかし、タウロスが自制心の塊みたいな男で、助かったよ! これでひとまず、満月の夜までは安心だ。あいつは昔から、一度口にしたことは、絶対に守る男だからな」
だが、彼とは対照的に、ボイスカの表情は晴れない。
「どうしたんだ、ボイスカ?」
「ええ、その話なんだけれど……」
「……どの話?」
「満月の夜、という話よ。タウロスさんは、いったいどうして、満月の夜にこだわったのかしら? 明るさの問題……?」
「えっ?」
今さら何を言ってるんだ、という顔になって、カリアンドロスは言った。
「そりゃ、あれだよ。エウリュメドン殿との決着をきっちりつけて、晴れてお許しが出てから、正々堂々、アタランタちゃんに求婚しようってことに決まってるじゃないか!」
「えっ」
ボイスカの表情は一瞬、硬直し、それから、大きくひきつった。
「ちょっと、待って。何ですって……? アタランタの、お父様と、決着をつける!? それ、いったい、どういうことなのッ!?」
「えっ!?」
はじめはボイスカが何に慌てているのか分からず、戸惑ったカリアンドロスだが、彼はすぐに、はっと事態に思い当たった。
「もしかして……知らなかったのか!? タウロスとエウリュメドン殿とのあいだで、満月の晩、月が一番高く昇ったときに、再戦をやるって取決めになってるんだよ!」
「何ですってェェェッ!?」
「グググググ!?」
カリアンドロスをひっつかんだまま、がくがくと揺さぶって、ボイスカは叫んだ。
「そんな重大なことを、どうして、今まで黙っていたのよーッ!? もう、満月まで、ほとんど日がないじゃないのーッ!」
「い、いやその、俺はてっきり、君たちも知ってるものとばかり……! きっと、エウリュメドン殿がアタランタちゃんに話して、アタランタちゃんが君に――ハッ!?」
そこまで言って、カリアンドロスは、自分が重大な点を見過ごしていたことに気付いた。
タウロスが『満月の夜』と言ったときの、アタランタの反応だ。
もしも彼女が、父親とタウロスとの再戦の話を知っていたとすれば、そこで、少なくとも何らかの反応はあったはず。
つまり、アタランタ自身も、エウリュメドン殿とタウロスの対決の予定を知らなかったのだ。
『満月の夜』という言葉に、彼女が何の反応も見せなかった時点で、このことに気付いておくべきだった――
「しまったァッ! 俺の目は、節穴だったッ!
いや、待てよ……? でも、よく考えたら、別に、かまわないんじゃないか!? 後でゴタゴタしないためには、大切なことだろ! 父親の許しを得て娘に求婚するのは、当然の――」
「そういうことじゃないのよッ!」
カリアンドロスをぎゅうぎゅう掴んでいた手をはなし、その両手をわななかせて、ボイスカは叫んだ。
「タウロスさんは『満月の晩に、アタランタを迎えに行く』と言ったのでしょう!? そして、それは当然、アタランタのお父様と試合をしたあとということになるわね!?」
「えっ……そりゃ……もちろん、そうなるだろうな」
「それではダメよっ! もしもタウロスさんが、前回みたいに、ボロボロに負けてしまったらどうするの!? とても動けるような状態じゃなかったとしたら……? 彼は、アタランタとの約束を破ることになってしまうわ!」
「…………あ」
あんぐりと口をあけて、カリアンドロス。
「そうか、それは、考えてなかったッ……いや、でも、大丈夫だッ! タウロスは、あれから鍛錬を積んで、前よりもずっと強く――」
「それでも、アタランタのお父様は、おそろしく強いわよ! タウロスさんが、たとえ負けなかったとしても、激しい戦いで全身ボコボコになってしまったら、どうするの!?」
「うッ……たしかにッ……!」
タウロスが強くなっていることは間違いないが、それでも、エウリュメドン殿の『炎』をたやすく打ち破ることができるとは思えない。
彼を相手に、まったく痛手を受けずに勝つなどというのは、はっきり言って夢物語、とうてい不可能と言っていいだろう。
「エウリュメドン殿と戦った後に、タウロスさんが全速力で走れるような状態だとは、とても思えないわ。それでは、アタランタが願っているような、尋常の勝負にはならない!
――そうよ、だいたい、元々の問題そのものが、まったく解決していないじゃないの! スタディオン走をするつもりで行ったら、傷だらけの相手が、いきなりΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑを迫ってくるなんて……とんでもないわッ!」
「たしかに……それは、めちゃくちゃ怖いなッ……!」
あまりにも凄絶な絵面を想像し、二人は思わず身震いをした。
「なあボイスカ、これはやっぱり、今のうちに、アタランタちゃんに本当のことを話しておくしかないぜ! タウロスが、心底から彼女に惚れてるんだってことを、はっきり伝えておいたほうがいい!」
「でも、そんなことをしたら、アタランタは、それを意識しすぎてしまって、思い切って走ることができないかもしれない……!」
「いや、これはもう、そんなこと言ってる場合じゃないだろッ!? 他に、どうしようもないじゃないか!」
思わず声を荒らげたカリアンドロスだが、ボイスカはじっと前を見据えたまま、返事をしない。
「……ボイスカ?」
しばらく待っても、彼女がまったく何も喋らず、身動きすらしないので、カリアンドロスは少し不安そうに、ボイスカの顔をのぞきこんだ。
「あの、ごめん、少し言いすぎたかもしれない。だが――」
「あたくし、タウロスさんに会うわ」
「……えっ?」
急に何を言いだしたのかと目を見開くカリアンドロスに、ボイスカはまっすぐに視線を向けて、力強く宣言する。
「あたくしが、明日、アミュクライ村へ行って、タウロスさんに会うわ。そして、こう伝えるの――」
ボイスカはカリアンドロスの肩に手をかけ、耳に口を寄せて、ひそひそとささやいた。
それを聞いているうちに、カリアンドロスの表情は驚きから感心、そして不安へと、目まぐるしく移り変わっていった。
「お……おう!? なるほど、それならあいつも……うぅーん!? 納得……いや、納得……する、かなぁ……!?」
「何が何でも、納得していただくわ」
断固たる態度で座りなおして、ボイスカ。
「そうでなければ、アタランタの宿敵として、このあたくしが認めない!」
「いや、認めない、って言ったって……」
「カリアンドロス」
心配そうにぶつぶつ言う若者の目を、ひたと見すえて、ボイスカは言った。
「あたくしの、いちばん好きなお花は、かぐわしい薔薇の花。
もしも、あたくしがタウロスさんの説得に失敗して倒されたときは、薔薇の花を一輪、あたくしのお墓に手向けてちょうだい……!」
「おおッ……」
そこまでの覚悟でッ、と感嘆の目を見開き、カリアンドロスはボイスカの両手をとった。
「分かったッ! 君がそこまでの覚悟なら、俺も、そばにいて、口添えをするぜッ!」
「いいえ、それはけっこう」
「!」
にべもない拒絶に、あからさまな落胆の色を浮かべた若者の手を、ボイスカの手が包み直す。
「だって、あたくしとあなたとが、こうして会って話をしているということを、タウロスさんに悟られてしまっては困るでしょう?」
「! ……そうか……」
「それに、あなたには、あとで別の任務があるのだもの」
「任務!?」
ボイスカはもう一度、カリアンドロスの肩に手をかけ、その耳元でひそひそとささやいた。
「……えっ……うん。うん……えっ!? それ……うん……ドエェェェェッ!?」
とんでもない大声を張りあげてから、はっとして周囲のようすを見回し、誰もいないことを確かめるカリアンドロス。
座りなおした彼の顔には、スパルタの男たちが敵には決して見せることのない表情――恐怖の色が、はっきりとあらわれていた。
「いや、任務の内容は、分かったよ。けど…………それ……俺、死ぬんじゃ……?」
「あたくしの命あるかぎり、あなたのお墓には、毎年一番のヒヤシンスを手向けてあげるわね」
「ひでえ……」




