第20話 アタランタ、ボイスカとカリアンドロス
翌日。
「アタランタ!」
湯気の立つ器を運んできた母が、心配そうにのぞき込みながら言う。
「気分はどう? 少しは、ましになった?」
「……ううーん……」
藁をしいた寝床に転がったままで、うなるアタランタ。
「なんか……まだ、ちょっと……」
「そう? 心配ねえ。さあ、黒スープを作ったから、これ飲んで、元気つけなさい」
「うう……ありがと」
むっくりと起き上がり、母が枕元に置いた器を持ち上げて、熱い黒スープをすするアタランタ。
「ああそうだ、ついさっき、ボイスカちゃんが来たわよ」
「うん……ここまで、声が聞こえてた」
「ボイスカちゃん、すごく心配してたわ。あなたが鍛錬に出なかったことなんて、小さい頃に、熱を出して寝込んだとき以来だものねえ! あのときは、這ってでも行く! 絶対に走る! って暴れるあなたを止めるのが、ほんとに大変だったんだから」
「うん……」
心ここにあらずといった様子で相槌を打つ娘を、母はしばし、じっと見つめていたが、
「まあ、今回は熱もないし、肌もつやつやだし、重い病でもなさそうだから、じきに治るわね。ゆっくり寝なさい」
そう言い残して、さっさと立ち去った。
「……うううー……」
黒スープを飲み終えたアタランタは、うなりながら藁を引っかぶって、また横になった。
眠ろうと思うのに、なかなか眠れない。
熱はないのに、どこか、体が熱い。
目を閉じると、昨日のできごとが、くっきりと頭によみがえってきた。
『アタランタ……』
昨日、匍匐前進でエウロタス川のわきの茂みにひそみ、タウロスのようすをうかがっていたアタランタは、不意にきこえたその声に、飛びあがることもできないほどの衝撃を受けた。
こちらを一度も見もせずに、自分がここにいるとなぜ気づいたのか? という驚愕もあったが、その驚きがかすんで消えるほどの、別の衝撃があった。
あんな声で、名前を呼ばれたことは、人生でこれまで一度もなかった。
低く、かすれて、熱く――
思わず動揺して身動きし、音を立ててしまった、と思った次の瞬間、おそろしい勢いで茂みが真っ二つにされ、タウロスがこちらをのぞきこんでいた。
濡れた体のつややかさが、目に焼きついた。
あざと傷痕だらけの、若く、逞しい体。
エウロタス川の水に濡れたその姿は、格技訓練場や競走路で目にしたときとは、まるで別人のようで、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
茂みを引き裂いた瞬間の恐ろしい目つきは、一瞬で消えて、彼はしばらくのあいだ、ぽかんとした顔でこちらを見つめていた。
それから、ようやく、顔を真っ赤にして前を隠した。
薬草を渡すとき、彼の濡れた髪が額に垂れかかって、腫れた頬をしずくがつたい、顎先からぽたぽたと滴り落ちているのが、やけに鮮明に見えた。
そして、あの言葉。
『これは、俺が、望んだことだ』
彼は、はっきりとそう言ってくれた。
夢中で、自分もそうだ、と伝えると、彼の顔が、見たこともないような笑顔になった。
『アタランタ……!』
その瞬間、心臓が飛びあがり、それから、これまでに経験したことのない速度で打ちはじめた。
誰かが近づいてくる声が聞こえて、走って逃げたが、走っているあいだもずっと、その響きはやまなかった。
今も、思い出すたびに、同じように動悸が速くなる。
(やばいやばい……何の病気だよ、これッ!?)
寝床に横たわって、何度も深く呼吸をしても、おさまらない。
(こんなことじゃ、タウロスさんと次に戦うとき、走る前に、出走地点でぶっ倒れちゃう……! どうして、こんな……)
動悸だけではない。
タウロスのことを思うと、胸のあたりに、まるで柔らかな鳥の羽根でくすぐられているような、むずむずする感覚が――
(ん?)
その瞬間、まるで古い壺の封印をあけたように、昔の思い出がよみがえってきた。
『姉さん、姉さん! ねえねえねえねえねえさんんんん』
『――ああもう、何なのよ、アタランタ!? うるさいわねえ!』
『あのねえ、私、ききたいことがあるんだけど! ねえねえねえ、きいていい? きいていい?』
『はぁー? うるさいわねえ、何よ? あたしは、足が速くなる方法なんて知らないわよ。あんたのほうが、あたしより、走るの速いじゃない』
『そうじゃなくて!』
炉のそばに座った姉に、しきりにまとわりつきながら、アタランタは言った。
『姉さん、もうすぐ結婚するんでしょ? なんで? ねえ、なんで結婚することにしたの?』
『はぁー? 何よ、急に。……ははーん。分かったわ。さては、あんたも、好きな男の子ができたんでしょ!』
『ううん、違うよ!』
『……違うんかいッ』
きっぱりとした否定に、がくりと横手にこける真似をして、姉。
『うん。だって姉さん、前は、一生結婚なんかしたくなーい! って言ってたじゃない。それなのに、なんで?』
『はぁー? あたし、そんなこと言ってないし!』
『言ってた言ってた! 絶対言ってた。私、ちゃんと覚えてるもん! ねえ、なんで? なんで、やっぱり結婚することにした? ねえねえねえ!』
ねえねえ言いながらドドドドドとまわりを走り回るアタランタを、ぱっと手を出して取り押さえてやろうか、どうしようかと迷うような顔で、姉はしばらくのあいだ黙って座っていたが、やがて、フフンと笑って、
『スパルタの女は、みんないつかは結婚して、次の戦士と、その母を生むのよ』
と言った。
『えー? ……じゃあ、私も?』
『そうね』
『えー? ……みんな、しかたなく結婚するの? みんな?』
『うーん、まあ、そうでしょうね』
『でもさあ』
走り回るのをやめたアタランタは、どうしても納得しがたいという顔で言った。
『それにしてはさあ……姉さんの顔が、なんか……なんかねえ……しかたなく、じゃない感じ! っていうか、めちゃくちゃ、嬉しそうなんだけど!?』
『はぁー? 何言ってんの、そんなことないし! …………えっ。ほんと? あたしの顔、ほんとに、そう見える?』
『うんうんうん』
見える見える、と勢いよくうなずいたアタランタに、姉は、ふと、穏やかな笑みを見せた。
『アタランタ。……スパルタの女は、みんな、いつかは結婚して、子を生む』
『……うーん……うん』
『それなら、どうせだったら、いい男と結婚したいと思わない?』
『えっ? それって、どんな男!? 足が速い人?』
『まあ……それでもいいけど……あたしはやっぱり、強くて、勇敢で、家族に優しくて……』
『それから、足が速い人!?』
『笑顔がかわいくて……あたしのことを、心から思ってくれる……お腹から腰にかけての筋肉が、とってもすてきな人』
『へえ……筋肉かぁ……ふーん』
分かるような分からないような気持ちで相槌をうちながら、アタランタは首をかしげた。
『でも、そんな人、いる?』
『いたの。最初は、気がついてなかったけど、見つけちゃったの』
『へえ……それで、好きになったの?』
『そうよ。あたしもずっと、結婚なんて、時が来れば、まわりが決めた相手と、まあそんなもんだと思ってするもんだと思ってたけど……彼を見つけたとき、まるで、胸の中で小鳥が羽ばたいてるような感じがしたの』
『あっ! ちょうちょを捕まえて、手のなかに入れてるときみたいに、パタパタパタって!?』
『まあ、そうね。似てるかもね。それに、心臓を、柔らかい鳥の羽根でくすぐられてるみたいな……ぞうっとするみたいで、きゅうっとするみたいな……』
『何、それ? 変なのッ!』
『まあ、あんたには、まだ分かんないでしょうね!』
先に生まれた者の余裕を醸し出す決まり文句を口にすると、姉はもう一度、フフンと笑った。
『とにかく……あたしは、彼に恋したの。だから、今は、はやく結婚したいわ』
『こい!』
アタランタは目を見開き、次の瞬間、ギャハハハハハ! と腹を抱えて笑い転げた。
『姉さんがッ! ……姉さんが、恋! だってーッ! ギャハハハハハーッ! おっかしーッ! 変なのォ!』
『……こォォォンの、スタディオンばかアタランタっ! 人にさんざん語らせといて、なーに、笑ってくれてんのよーっ!? えいっ! こうしてやる、こうしてやるっ!』
『ギャッハハハハハハハ~! た、たすけてぇ! 姉さんのくすぐりは……ッブハハハハッ!? わわ、わ、笑い死ぬウフフフフハハハァ!』
心臓を、柔らかい鳥の羽根でくすぐられてるみたいな。
ぞうっとするみたいで、きゅうっとするみたいな――
「……嘘だろッ……」
胸のあたりをつかみ、アタランタは、愕然とした顔で起き上がった。
「この私が…………恋……だって!? まさか…………まさか、そんなはずはッ!」
「あっ、そうだ、アタランタ! さっき、ボイスカちゃんがイチジク――」
「ウオオオオオオオーッ!!!」
果物を手に入ってきかけた母は、突然、火山の爆発のように飛び出してきたアタランタともう少しで激突しそうになり、ひと籠ぶんのイチジクを盛大に空中に撒きながら、派手にぶっ倒れた。
「ぜっ」
咆哮しながら、風のように走り去っていく娘の後ろ姿を見送って、
「……前途多難、ねえ……」
転がったイチジクを拾い集めながら、かすかに笑っているような声で、母はそう呟いたのだった。
* * *
その頃。
「ウウウウウウウウゥッ……アタランタが、体調を崩して、鍛錬を休むなんてッ……」
アタランタの母に、見舞のイチジクの籠をたくしたボイスカは、その足で一人、ずんずんとアミュクライ村へ向かっていた。
「アタランタ……昨日、タウロスに会いにアミュクライ村へ行ったときに、きっと、何か嫌な目に遭ったに違いないわッ! ああ……あたくしが、お見舞なんてすすめたりしなければッ……!」
ぶつぶつと呟きながら前進するボイスカの背後には、肉眼で見えかねない黒い炎がごうごうと燃え盛っており、もしも今の彼女と遭遇したら、野盗はおろか、肉食の獣や、戦神アレスその方であろうとも、
(何か、明らかにやばい)
と判断して、関わり合いになるのを避けたに違いない。
「こうなったら……タウロス本人に直接、事情をききただすしかないわッ! もしも、アタランタに、不埒なまねなんかしていてごらんなさいッ……! あたくしが、命に代えても、この手で、ちぎり取ってやるゥゥゥゥ」
その眼光に宿る怒りの凄まじさは、狩人に沐浴をのぞかれたアルテミス女神さながら、出会った者に確実な死の運命を悟らせかねないほどのものであったが――
「はぁ……タウロスのやつ、今日の鍛錬も、絶好調だったなあ……」
今しも同じ一本道を、向こうからぶつぶつ言いながら歩いてくる若者は、目下の重大な悩み事で頭がいっぱいで、ボイスカの存在には、まったく気づいていないようだった。
「あそこまで調子がいいと、逆に不安だぜッ……どんな心境の変化があったか知らんが、あれで首尾よく勝てたとしても、そこで、もし、アタランタちゃんに断られたりしたらッ……!
悲しみのあまり寝込む……なんてのはマシなほうで、下手すりゃ、世を儚んで処刑用の崖から飛び降りちまう、なんてこともッ……!?」
不吉な予想に身を震わせ、歩きながら、さまざまに策をめぐらせる。
「こうなったら、大変なことになる前に、俺がアタランタちゃんに直接会って、彼女の気持ちをそれとなく確かめ――
いや、それは、さすがに難しいか……だいたい、俺が勝手にアタランタちゃんと喋ったなんてことがバレたら、タウロスが襲いかかってくる可能性があるからな。絶好調なあいつの拳だけは、絶対に貰いたくねえ……!
よし、そうだ! ここはひとつ、アタランタちゃんの女友達あたりから、さりげなく話を聞いて…………ん?」
「……あら」
同じ道を、それぞれ反対側から歩いてきた二人は、境界石のあたりで、まったく同時に、互いの存在に気づいた。
「あなたッ、たしか、競走路でタウロスといっしょにいた――」
「君こそ! たしか、競走路でアタランタちゃんといっしょにいた――」
互いの顔を指さし合ったところで、
「オーッホッホッホ! ここで会ったが百年目! 全身の関節を極められたくなければ、タウロスについて知っていることを洗いざらい吐きなさいッ!」
ボイスカは、相手の両腕をがっしとつかみ、
「ちょうどいい! ここで会ったのも何かの縁だ! 俺を助けると思って、アタランタちゃんのこと、ちょっと教えてくれないかッ!?」
カリアンドロスは、相手の両肩をがっしとつかむ。
そして、しばし――
吹き抜けた風が、野原の草花を揺らし、木々の梢を鳴らしながら彼方へと遠ざかって消えてゆくほどのあいだ、二人は、そのままの姿勢で、黙って見つめ合っていた。
「ああ……その」
「ホホホ」
やがて、二人はどちらからともなく、どぎまぎと、互いに触れていた手をはなす。
「申し訳ない、急に。……俺は、カリアンドロスだ。よろしく」
「あたくし……ボイスカよ。よろしくね」




