第2話 アタランタ
「オンドリャアアアアァァッ!」
「シャオラアアアァァァッ!」
すさまじい雄叫びとともに、ふたつの肉体が地面を蹴って宙を舞う。
ざんっ! と砂地に着地した二人は、ほぼ同時に相手の足元を見やり、互いの跳躍の距離を確認した。
「勝者……ボイスカ!」
「オーッホッホッホ! 残念だったわねッ!」
審判役の少女の声と同時、金髪の娘が胸をそらして高笑いをあげる。
「チックショオオオォ!」
黒髪を馬の尾のように結いあげた娘は、拳で砂を殴りつけて悔しがった。
男たちを幼いうちから厳しく鍛え、最強の戦士として育て上げるスパルタの教育は有名だ。
だが、スパルタが他の都市国家と大きく違っている点は、他にもあった。
スパルタにおいては、女たちも、少女のうちから体を鍛えることを奨励されていたのである。
「全員集合! 整列ッ!」
指導者である若い女性の声が響くと同時、腰をそらして高笑いをあげていたボイスカも、叫びながら地面を殴っていた黒髪の娘も、弦が弾けた強弓のように跳ね起きて、他の乙女たちといっしょに列に並んだ。
どの乙女も、丈が太腿の半ばまでしかないキトンを、素肌に一枚まとったきりだ。
アテナイの婦女子が見たら卒倒しそうな服装だが、スパルタの女子にとっては、これが当たり前。
健康的に日に焼けた肌と、すらりと引き締まった筋肉こそが、彼女たちにとってのアクセサリーなのだ。
「今日の鍛錬はここまでにしよう! みんな、よくがんばった!」
やわな熊なら絞め殺しそうな腕を組んだクレイオ先生は、大きくうなずきながら笑顔で言った。
「特に、ボイスカ、アタランタ! おまえたちの幅跳びの技は、どんどん人間ばなれしてきてるぞ。そろそろ、距離をはかるための棒の長さが足りなくなってきた!」
「そんな、あたくしたちなんて、まだまだですわ! さらに精進して、もっと華麗な跳躍をお目にかけますから、ご指導なにとぞよろしくお願いいたしますわ! オーッホッホッホ!」
金髪の娘ボイスカが謙遜してみせたが、最後の高笑いが、発言のしおらしさを完全に裏切っている。
そのとなりから、
「クレイオ先生ッ!」
目をぎらぎらさせた黒髪の娘が、拳をかためて叫んだ。
「この程度で人間ばなれだなんて、慰めはやめてくれッ! たとえどれだけ跳ぼうが跳ねようが、敗北は敗北ッ! 栄光は、ただひとりの勝者の上にのみ輝き、敗者は惨めに立ち去るのみッ……」
「出たわ! アタランタの決め台詞!」
「決め台詞ではないと思うけど」
「アタランタったら、また心だけオリュンピアの競技祭に旅立ってるのね」
「あの競技祭には、男しか出られないけどね……」
仲間の乙女たちがひそひそと囁きかわすなか、
「ウオオオオオ! 悔しい! 負けたまま家に帰るなんて、私には我慢できないッ!」
黒髪の娘アタランタは、目を血走らせてボイスカに指を突きつけた。
「スタディオン走だ、ボイスカ! 最後に、スタディオン走で勝負しろッ!」
「オーッホッホッホ! 往生際が悪くてよ! 敗者はおとなしく……」
「怖いのか?」
アタランタの言葉に、ボイスカの動きが、ぎしりと止まる。
「おやおやぁ?」
ボイスカの反応に脈ありと見て、アタランタがさらに煽る。
「まさか、ボイスカともあろうものが、自信がないからって、敵前逃亡するつもりなのかなぁ?」
「オーッホッホッホ! くそたわけたことをぬかさないでちょうだい! このあたくしが、挑戦を受けながら、相手を叩き潰さずに見逃すとでも思っているのかしらッ!?」
「よっしゃあッ! それでこそボイスカ、私の宿敵! 勝負だァッ!」
「オーッホッホッホ! あたくしは別にいいけれど、あなた、大丈夫かしら!? スタディオン走でまで、あたくしに敗れたら、あなた、その場で憤死してしまうかもしれなくてよッ!?」
「望むところォ……!」
口の端から炎が漏れ出そうな勢いで、アタランタ。
「おめおめと敗残の姿をさらし続けるよりも、自らの力至らぬを嘆きながら倒れるほうが美しいッ!」
「また出たわ! アタランタの名台詞!」
「名台詞……なのかしら、アレ……?」
「戦士の鑑ね!」
「あたしたちは男じゃないから、戦士ではないけどね……」
「否ッッッ!!」
急にクレイオ先生の腹の底からの「否」が響きわたり、乙女たちは飛び上がった。
「確かに、戦場において敵と雌雄を決するのは、男たちだけ……! しかし! 戦場に立つことだけが、戦いではない! 男には、男の戦いが、女には、女の戦いがあるのだ! スパルタのために一命をかけねばならぬ、峻厳なる戦いの場がなッ!」
「そ、そうだったわ!」
クレイオ先生の言葉に、どよめく少女たち。
「女が命をかける戦い……それは、子を宿すこと、そして、子を生むこと!」
「スパルタの戦士を生むことも、スパルタの戦士の母を生むことも、私たち女にしかできない仕事ッ……! それが、私たちの戦い!」
「然り」
重々しく、クレイオ先生。
「我々は、その戦いに勝利をおさめるためにこそ、心身を鍛錬する。強き精神、そして強き肉体! それらを得るために、より高みを目指す姿、すばらしいぞ、アタランタ!」
「えっ? ……あっ。ハイ!」
「なんだ、急に気が抜けたような返事をして。もっと、腹の底から声を出さんかッ!」
「ハッッ!!!」
「よし! 用意しろ!」
アタランタとボイスカは、ヘライア祭に出場する乙女たちがするように、勢いよく片肌を脱いだ。
仲間の乙女たちのひとりが、すばやく地面に線を引き、スタートラインを作る。
別の乙女は、歩幅で距離をはかりながら向こうまで走っていって、ゴールラインを引き、そのかたわらに陣取った。
きわどい判定にもつれ込んだ場合の審判役を、みずから引き受けようというのだ。
「両者、位置について! ……始めッ!!」
二人の少女は同時に飛び出した。
太腿を高くあげ、両腕を振りあげて猛然と走る。
まるで怒りに燃えて宿敵ヘクトルを追う英雄アキレウスの、その疾走のごとき熾烈さで――
「シャアアアアアア!」
「ウオオオオオオオオォ!」
約178mを全力で駆け抜けた乙女たちの耳に、仲間の叫びが届く。
「勝者! アタランタ!」
「ウオオオオオオ! やったアァァァァ! 勝ったぞオオオオォ!」
「キイイイーッ!! 悔しいッ! 覚えてなさい!」
馬の尾のような髪をおどらせながら跳ね回って喜ぶアタランタと、キトンを噛んで悔しがるボイスカ。
先ほどとは真逆の光景が展開されたところで、
「この雪辱は、また明日な、ボイスカ。さあ、みんな、水浴びに行こう!」
「はーい!」
「やったぁ! 私、もう汗だくだもん!」
「冷たい水で、顔を洗いたいわ!」
クレイオ先生の言葉に、歓声をあげる乙女たち。
と、その瞬間、
「むっ!?」
急に視線を鋭くしたクレイオ先生が、
「シャアッ!」
裂帛の気合と同時、目にもとまらぬ速さで拾った石を、すこし離れた茂みに投げつけた。
鈍い音がして、
「グッ」
という呻き声がかすかに茂みの中からきこえたようだったが、それ以上は、葉の揺れひとつ起こらなかった。
「あれ、どうしたんだ、先生?」
「獣でも、ひそんでいたんですの?」
「いや……」
ふしぎそうに問うたアタランタとボイスカに、
「どうやら、何でもなかったようだ」
クレイオ先生は豪快な笑顔を見せると、乙女たちをうながした。
「さあ、泉に向かうぞ!」