第18話 アタランタ
翌日。
「アタランタ! ……おい! アタランタ!?」
「………………ん!? ハッ! 何ですか、クレイオ先生ッ!」
「何って……しっかりせんかァ! 次は、おまえが走る番だろうがッ!? 位置について!」
「あっ、ハイッ! すみませんッ!」
魂が肉体から抜け出たような顔から、慌ててきりりとした顔に戻り、出走地点に走っていくアタランタ。
「ねえ……」
そんな彼女を遠巻きにした仲間の少女たちが、心配そうにささやきあう。
「今日のアタランタ……明らかに、変じゃない!?」
「それ! あたしも、そう思ってた! いつもの名言が、全然出ないんだもん!」
「ぼーっとしちゃって、いつもの覇気がないし!」
「――ああッ!? ちょっと、みんな! あれを見て……ッ!?」
「そんな、まさか……負けたッ!? スタディオン走で、アタランタが、ボイスカに負けた……! しかも、全然、悔しがってないッ!?」
「嘘ッ! いつもの彼女なら、絶対、ウオオオオ~って泣きながら地面を殴ってるはずなのに! こんなの、絶対に変よ!」
「変なものでも食べて、力が出ないのかしら……!?」
「あっ、ひょっとして! 昨日の、お父様の一件が、なにか関係あるんじゃないの?」
「ああ! あの、大騒ぎになってた件でしょ!? アミュクライ村のタウロスと、アタランタのお父様の対戦! 見たかったわぁ……」
「でも、あの勝負は、アタランタのお父様が勝ったじゃないの。別に、彼女が今、ぼーっと思い悩むことなんてないはずよ……?」
「ハッ!? ……もしかして!」
ひとりの少女が、ぐっと声をひそめ、とんでもない重大事であるかのようにささやいた。
「恋の悩み、なんてことはッ……!?」
少女たちは十呼吸ほどものあいだ、全員が無言で腕を組んで考えこみ、
「いや、ないないないない」
「うん。あたしも、ないと思うわ!」
「そうよ。あの永遠の熱血暴走スタディオン娘が恋なんて、ありえないもん!」
「たとえ天と地がひっくり返ったって、それはないわねえ!」
遠くで、仲間たちがそんな話で盛り上がっているとも知らず、
「……ハァ……」
アタランタは、またもや心ここにあらずといった様子で、ふらふらと出走地点に戻ろうとしていた。
そこへ、
「アァ~タァ~ラ~ン~タァァァァァァ~……!」
「ウオオオオオッ!?」
死霊のような声と顔で、ぬうっと横から顔を出したのは、ボイスカだ。
「あなたねえぇぇぇ……いったい何なのよ、今の走りはッ!? 生まれたての仔馬のほうが、今のあなたより、よく走るんじゃなくってッ!?」
「ああ……うん……ごめんごめん」
「ほら、またッ!」
明らかに適当なアタランタの相槌に、ボイスカはキィィィッ! と唇をかみしめ、両手でアタランタの腕をつかむ。
「また、そんなふうに、ボーッとしてッ! あたくしの話を、ちゃんと聞いているのッ!?」
「ああ、うん、聞いてるけど……」
「嘘よッ!」
ドドドドド! とものすごい速さで地団駄を踏んで、ボイスカ。
「はっきり言うわッ! あなた……今も、あの男のことを考えているんでしょうッ!? あたくしには、ちゃんと分かるんですからねッ! 宿敵どうしのあたくしには、せめて、正直に話してちょうだいッ……!」
「うん」
アタランタは、ため息のような声で言った。
「実は、そうなんだ」
「……………………ホヒョホホホォ……」
「ウオオオッ!?」
急に空気の抜けた革袋のようにしぼんで地面に倒れたボイスカを、アタランタは大慌てで助け起こした。
「大丈夫か、ボイスカ!? ていうか、今、聞いたことない音が口から出てたけど、大丈夫かッ!?」
「あ、あ、あ……あの男のことが気になって、あたくしとの勝負に、集中できないなんてッ……」
長いまつげを涙に濡らして、ボイスカは悲劇の登場人物のようにうめく。
「ああ! あたくしは今、冥府の王にコレーさまを連れ去られたデメテル女神さまの気持ち……!」
「地上が不毛の世界にッ!? ――ていうか、娘を奪われた母上の気持ちじゃないのか、それは……?」
「宿敵を失うということは、それほどの悲しみなのよッ……! 半身をもぎとられたかのような、癒しがたい喪失感ッ……! おおおおおおおォ」
「ごめんな、ボイスカ……」
人目もはばからず号泣するボイスカとともに、地面に腰をおろし、
「でも、しかたないんだ……考えないでおこうとすればするほど、どうしても、考えちゃうんだよ」
アタランタはうなだれて、力なく言った。
「心配でたまらないんだ。タウロスさん……脚を、いためてなけりゃいいんだけどな……!」
「おおぉ……………………ん?」
思わず涙を止め、むっくりと起き上がって凝視してくるボイスカの前で、アタランタは、苦悩のため息をもらした。
「あああああ、気になる、気になる、気になるッ! もしも、父さんとの勝負で、タウロスさんが脚を怪我してたら……次にスタディオン走の勝負をするとき、私のほうが、有利になっちゃうかもしれないじゃないか! それじゃあ、正々堂々の勝負にならないだろ!?」
「ああ……えっ? それは……えっ? 何か、あたくしが思っていたのと、ちょっと違――」
「そのことが、もう、どうしても気になってさ……! 夜もあんまり寝られないし、鍛錬をしてても、ぜんぜん集中できないんだ。最悪だよ……!」
「まあ」
そこまで……と目を見開いてアタランタを見つめたボイスカは、やがて、げっそりとした顔つきのアタランタの手を、そっと握った。
「それなら、いい方法があるわ!」
「えっ?」
「簡単なことよ。思い切って、お見舞に行ってみたらいいじゃないの!」
「……えっ!?」
「相手の様子がわからないからこそ、そんなふうに、ずっと思い悩んでいるのでしょう?」
驚くアタランタの手を、力強く握って、ボイスカ。
「だったら、自分の目で確かめにいくのが、一番の早道じゃないの。何事も、早いうちにはっきりさせておくに限るわ! 結果がどうあれ、とにかく、まずは現実と向き合って、直視するのよッ!」
「……おお……」
アタランタは、暗闇のなかで人家のあかりを見いだした旅人のように、目を輝かせた。
「なるほどな! ……いや、行こうかなーとも思ってたんだけど、さすがに、ちょっと行きにくいかなって……でも、うん、そうか! そうだよな!」
叫んで、勢いよく立ち上がり、ボイスカの手を取って引き起こすアタランタ。
「ありがとう。ボイスカがそう言ってくれるなんて、なんか、意外だったよ」
「あら、どうして?」
「いや、だって……ボイスカは、私がタウロスさんと関わり合うのが、なんか、嫌みたいだったからさ」
「あたくしが嫌なのは、宿敵を失うことよ」
ボイスカは、はっきりと言った。
「あなたがタウロスさんのことでごちゃごちゃ悩んでいて、本来の実力を発揮できないんじゃ、あたくしは、たとえ勝っても、ぜんぜん勝った気持ちになれないじゃないのッ! あなたが、心配事をさっさと解決して、全力であたくしと戦ってくれなくちゃ嫌だわッ!」
「そうか……さすがは、私の宿敵ッ!」
アタランタとボイスカは、がっちりと抱き合った。
「よし! そうと決まれば、今から正々堂々、タウロスさんのお見舞に――」
「それは、いかんぞッ!!」
話がすっかりまとまりかけたところで、急に雷鳴のような声が二人の頭上から浴びせられ、アタランタとボイスカは、抱き合ったままで飛びあがった。
「まったく」
太い両腕を腰にあてて立ちはだかり、フゥンッ! と勢いよく鼻息を吹いたのは、クレイオ先生だ。
「おおよその話は聞かせてもらったぞ、二人とも。アタランタは、何かの呪いにでもかけられたのかと思っていたら、そういうことだったか……」
「クレイオ先生ッ! 私は――」
「いったい何が『いかん』のですのッ?」
「二人とも、冷静になって考えろ」
右と左から同時に詰め寄ってくる教え子たちの頭を、がっしと握って両側に遠ざけながら、クレイオ先生。
「昨日の対戦で、タウロスがエウリュメドン殿に負けたことで、アミュクライは今、村をあげて『打倒・エウリュメドン殿』に燃えているのだ。そんなところへ、娘のおまえが、ひょいひょい顔を出してみろ。アミュクライ村の連中のなかには、くだらぬちょっかいをかけてくる者もいるかもしれん。そこから、どんな騒ぎに発展するかわからん、ということだ!」
「う……そうか。やっぱり、そうですよね……お見舞は、やめた方が……」
「先生! でも、このままではアタランタがッ!」
しおれるアタランタと、憤慨してますます詰め寄るボイスカに、
「誰が、やめろと言った?」
そう言ったクレイオ先生は、えっ? と驚く二人の肩に、がっしと逞しい両腕を回して、ひそひそと言った。
「私は、堂々と訪ねていくのはいかん、と言ったのだ。
ひらけた場所は歩くな。木立や茂みのなかを、音もなく這って移動しろ! 今日は、もうすぐ、若者たちがエウロタス川で水浴びをするはずだ。遠くから脚のようすをたしかめるには、絶好の機会だ」
「先生……!」
「若者たちは、訓練の一環として、見張りを立てているかもしれん。もしも、こちらに気づいた者がいた場合は……決して声を上げさせるな。石を投げて倒せ」
「先生ッ……!?」




