第16話 タウロス
翌朝。
「見ろよ……」
格技訓練場に集まった少年たちが、押し殺した声でささやきあう。
「タウロス先輩の鍛錬……今日は、一段と鬼気迫ってるぜ!」
「本当だな……」
彼らの視線の先で、タウロスは、地面に立てた鍛錬用の丸太に、凄まじい攻撃を加えていた。
獣の皮を幾重にも巻き付けた丸太がきしむほどの重さをのせて拳を叩き込み、肘で打ち、膝で蹴る。
地面に深く埋め込まれているはずの丸太が、たしかに、ぐらぐらと揺らいでいた。
「衝撃が半端じゃねぇッ……あれを受けられる奴が、誰もいねぇから、丸太を相手にッ!」
「見ろよ、あの目を……とてもじゃねえが、声なんかかけられる雰囲気じゃねえ!」
「ああ……邪魔したら、あの拳を打ち込まれかねねえ……!」
「おい、タウロス、どうした?」
「!」
少年たちが思わず凍りつくなか、カリアンドロスが、いたって気軽に、汗にまみれたタウロスの肩を叩く。
「おまえらしくないじゃないか。何を、そんなに……焦ってるんだ?」
タウロスは、しばし動きを止めた後、ゆっくりとカリアンドロスを振り向いた。
ややあって、フーッ……と長い息を吐き、滝のように流れ落ちる汗をぬぐいもせずに、ぼそりと呟く。
「エウリュメドン殿に、知られた」
「マジか」
カリアンドロスも思わず真顔になり、タウロスを格技訓練場の片隅の水がめのほうへと誘う。
日陰に入った二人は、しばらくのあいだ、重々しい表情で黙りこくっていた。
エウリュメドン殿は『炎』とあだ名される戦士であり、彼らの世代からすれば、生ける伝説のような存在だ。
村対抗の競技祭で、対戦相手をことごとく戦闘不能に陥れるほどの強さを見せつけ、ついには格技訓練場で彼の鍛錬の相手をつとめる者が誰もいなくなるほどだったという。
そのエウリュメドン殿に目をつけられるというのは、目の前で冥府の門が開くのと、ほとんど同義のように思われた。
まだ年若い娘に近づこうとする男を、彼が、どのように思うか――
「だが……待てよ。落ち着いて考えてみると、そこまで身構えることもないんじゃないか?」
少しぬるくなった水を飲みながら、友の気を引き立てるように、あえて明るい調子で、カリアンドロスは言った。
「だって、アタランタちゃんの姉貴たち三人は、もう結婚してるじゃないか。そのときに揉めた、なんて話は、聞いたことないだろ。おまえは強いし、エウリュメドン殿も、案外、すんなり認めてくださるんじゃないか?」
「そうだと、いいのだが……」
水の器を手にしたタウロスの表情は、まったく晴れなかった。
もう一つ、どうしても、エウリュメドン殿の反応よりもなお、気にかかることがあった。
自分はまだ、アタランタに気持ちを伝えることができていない。
もしも彼女が、父親の口から、このことを聞いたら――?
アタランタは、どう思うだろうか。
そんなはずはないと、笑い飛ばすだろうか。
自分を負かしておいて求婚とは、ばかにしているのかと、怒りだすだろうか。
もしも、彼女に軽蔑されてしまったら、自分は――
「タウロスくんはいるかな?」
その声が響いた瞬間、格技訓練場に、これまで誰も経験したことがないほどのまったき沈黙が訪れた。
誰もが、その瞬間までやりかけていた動作を途中で止めたまま、体を動かさず、視線だけをいっせいにそちらに向けた。
『炎』と呼ばれた男が、格技訓練場の入口に立っている。
エウリュメドン殿は、ざっと格技訓練場全体に視線を走らせ、それから、たまたま一番近くに立っていた若者のほうを見た。
若者は弦のはじけた弓のように飛びあがって、水がめのほうを指さした。
その頃には、タウロスは水の器を置き、まっすぐに立って、エウリュメドン殿のほうを見ていた。
父親と求婚者、二人の男の視線が、まともにぶつかる。
「やあ、君か。評判は聞いている」
エウリュメドン殿は、凍りついたような周囲の空気も意に介さぬようすで笑いながら、タウロスに歩み寄ってきた。
「どうやら、わしの息子たちと娘が世話になったようだな。……ならば、今度はわしと、と言っても、君は、嫌とは言うまいね?」
一瞬、誰も、理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
彼が、何を言っているのか。
「聞こえなかったかね? わしは、君に、手合わせを申し込んだのだが」
「――しかしッ!」
エウリュメドン殿の穏やかな声だけがやけに大きく響く、冥府の底のような静けさをやぶって、思わず叫んだのはカリアンドロスだ。
ぎろり、とエウリュメドン殿の目が動き、カリアンドロスを見た。
表情は笑っているが、その目には、ひとかけらの笑いもなかった。
並の男ならすくみあがり、すごすごと退散したことだろう。
だが、カリアンドロスは、踏みとどまった。
ひとりの男の友として、決して退くことのできぬ時がある。
「あの……いえ、その……急に口を挟み、申し訳ありません」
腰は、やや引けていたが。
「しかし、タウロスは……その、ご気分を害されなければよいのですが、彼は、どちらの勝負も、正々堂々と挑戦を受けて立っただけで――」
「だからこそ、だ」
エウリュメドン殿の口調は、最初とまったく変わらずに軽く、言葉の調子だけを聞いていれば、ふらりと遊びに来た近所のおっさんかと思うところだ。
「卑怯な騙し討ちだったとしたら、今ごろ、彼は息をしとらんよ」
自分が報復し、始末していた、という意味だ。
「これは、我が家の名誉の問題なのだ。息子たちと娘がことごとく敗れたとあっては、父親のわしが出ざるを得まい? さもなければ、我が家に戦士はおらぬということになってしまう」
「ですがッ! いえ……あの……何度も口を挟み、申し訳ありません。ですが、エウリュメドン殿、あなたは、あまりにも年長で、尊敬すべき方だ。そんなあなたを相手にしては、タウロスは――」
「気をつかって、わざと勝ちを譲るだろう、というのかな?」
カリアンドロスがうなずくと、エウリュメドン殿の顔から、ふっと笑みが消えた。
「そんな男は、スパルタの男ではない」
エウリュメドン殿の手が、すっと伸びて、五本の指がカリアンドロスの胸板を押した。
軽く押したように見えただけの、その一撃で、カリアンドロスは後ろに倒れ込んだ。
「どうした、タウロスくん」
信じられない、という顔でずるずると下がっていくカリアンドロスには目もくれず、エウリュメドン殿は再び笑顔になって、タウロスを見すえた。
「返事がない。小娘の相手はできても、わしからの挑戦は受けられないのかね?」
タウロスは、フウーッ……と、大きく息を吐いた。
男には、決して退くことのできぬ戦いがある。
「……種目は」
「そう言ってくれるだろうと思っていたよ」
エウリュメドン殿の笑みが深くなる。
「種目は、ない。男と男の真剣勝負だ」
格技訓練場じゅうの男たちが硬直し、それから、さすがにこらえきれず、ざわつきはじめた。
一切のルールを設けず、全力で戦う。それは、即ち――
「しかし、それはッ!」
立ち上がったカリアンドロスが、三たび、叫んだ。
折れぬ心の強靭さを競う競技祭があったなら、彼は間違いなく優勝候補の一角だ。
「しつこく口を挟み、申し訳ありません! ――しかしッ! 全力総合格闘は、あまりにも危険ゆえ、掟で禁じられているはず!」
規則は無用、ゆえに反則もない。
相手の体の部位の、どこを、どのように攻撃しようが自由。
その戦いが終わるのは、どちらかが人さし指を掲げて降参したときか、あるいは、もはや戦闘不能となった場合のみ――
そして、スパルタにおいて「降参」は許されない。
決して負けを認めることのないスパルタ人同士の戦いにおいて、「戦闘不能」は、しばしば「死」を意味する――
それゆえに、優れた戦士どうしがむやみに傷つけあうことのないよう、パンクラティオンは禁止されているのだ。
「誰が、パンクラティオンだなどと言ったかね?」
エウリュメドン殿は、涼しい顔をして、ゆっくりと言った。
たしかに、そうだ。
パンクラティオンだとは、一言も言っていない。
だが、それが単なる言葉遊びに過ぎず、実際は命をかけた対戦になるであろうことは、その場の全員が理解していた。
もちろん、タウロス自身も含めてだ。
(まるで神話だ)
深く、長く、息を吐きながら、タウロスは心のどこかでそう思っていた。
(男は、父親を倒し、その娘を奪う――)
「もしも、俺が勝てば」
「その仮定は無意味だ」
タウロスの鼻先に、音もなく手のひらを突きつけて、エウリュメドン殿は笑った。
「勝つのはどちらか、もう、決まっている」




