第15話 アタランタ
翌日の夕方。
一日の鍛錬を終え、袋いっぱいに詰めたイチジクの実――また収穫したのだ――を抱えて、アタランタは、鼻歌まじりにアミュクライ村との境界へと向かった。
(よし! 今日こそ、誰か通りかかる人をつかまえて、タウロスさんへの伝言を頼むぞ! それで、タウロスさんに謝ってから、あらためて再戦を申し込むんだッ!)
どう考えても鼻歌まじりに考えるべき計画ではなかったが、とにかく、そういうようなことを考えながら、例の境界石に到着する。
「フンフフーン…………あれ?」
イチジクの袋を境界石の上に置こうとして、アタランタは首をかしげた。
(この石……なんか、前より、ちょっと傾いてないか?)
半ば地面に埋まった重い石が傾くに至った出来事については、そのとき眠っていたアタランタに覚えがないのも当然のことである。
まあいいか、と、イチジクの袋を置こうとしたとき、
「あっ! おおーい!」
誰かが、アミュクライ村のほうから走ってきた。
見れば、アタランタより十ばかり年上に見える黒髪の男だ。
見覚えはない。
「君、アタランタちゃんだろ?」
「えっ? はい、そうです! あの、アミュクライ村の方ですか?」
「そうだよ。ちょうどよかった――」
「こっちも、ちょうどよかったですッ!」
黒髪の男のことばに押しかぶせるようにして、アタランタは、勢いよく言った。
「あのう、戻るときでいいんで、タウロスさんに、伝えてもらえませんか? アタランタが、境界石のところまで来てるって!」
「タウロスに……? 何の用で?」
「こないだ、無茶な挑戦を申し込んじゃったんで、そのお詫びをしにきました!」
アタランタの言葉に、黒髪の男は一瞬、目を丸くし、それから笑い出した。
「えっ、何ですか?」
「い、いや、ごめん。……君って、そういうところもあるんだね」
「そういうところ?」
「ああ、だって、わざわざイチジクまで持ってさ。あのときは、女だてらに、あんなふうに大胆に男に挑戦しておいて、今日は、殊勝にお詫びだなんて……すごく女らしいよ」
「あ、いやいやッ!」
アタランタは、ぱたぱたっと片手を振った。
「私がお詫びしたいのは、女なのに男に挑戦したから、っていうところじゃないです!」
「えっ?」
「いや、うちの兄貴たちのほうから挑戦して、正々堂々の勝負で倒されたのに、私が勝手に勘違いして怒って、いきなり勝負を挑んじゃったから……そこが、失礼だったなーと思って! タウロスさんは、全然、悪くなかったんで」
「あ、あー……そう?」
黒髪の男は、少しそわそわしたような調子で言った。
「じゃあ、俺が、そのイチジク、タウロスに届けておいてあげようか?」
「えっ? いや、いいですよ! 自分で会って渡します。謝るなら、ちゃんと自分の口で伝えないと、物だけ届けても、あんまり意味ないと思うんで」
「まあ、そう言わずに」
「いやいや」
イチジクの袋をさっと持ち上げようとしたアタランタの手首を、黒髪の若者が、ぐっとつかんだ。
「えっ?」
「つかまえた」
「……………フゥンッ!」
「うおおおおお!?」
握った相手の手首をぐるりと返して極め、アタランタは、袋を手放してぱっと飛びすさる。
「何だ、おまえはッ!? さては、アミュクライ村からの刺客かッ!?」
それは多分違う。
「くそっ……この!」
逆上した黒髪の若者がつかみかかってこようとするのをすばやく避け、アタランタは、ぱっと踵を返して駆け出した。
「オラオラオラァ! 捕まえられるもんなら、捕まえてみろーッ!」
「何だと……!」
「ついて来れるか? 私は、速いぞ! ウオオオオオオォーッ!」
「ま、待てぇ……ッ」
アタランタのすさまじい加速と持久力に、黒髪の男は、あっという間に引き離され、とうとう姿が見えなくなった。
「…………ふう」
まったく疲れたようすもなく、タッタッタッと軽く駆け足を続けながら、アタランタは首をかしげた。
(何だったんだ、ありゃ? そもそも誰だ、あいつ? ボイスカが言ってたとおり、このへんも物騒になったなァ……っていうか、イチジクを置いてきちゃったよ! あれだけ集めるの、けっこう大変だったのに! ……でもまあ、いいか! また明日、集めて持っていこう!)
恐れげもなくそう考えながら、元気に走って、家まで帰った。
* * *
その夜。
妹ポイバと、母と、共同食事から戻った父といっしょに、アタランタがくつろいでいたときだ。
「アタランタ」
不意に、エウリュメドン殿がなにげなく娘の名を呼んだ。
「ん?」
編みかごの中の妹をあやしながら、なにげなく振り向くアタランタ。
「なに?」
「最近、兄さんたちに会ったか?」
「……あにグッ!? ゴホッ、グホッ」
「まあ、どうしたのよ、急に?」
慌てて唾を飲みこみそこね、むせ返るアタランタの背中を、驚いた母がさする。
「あ、え、兄貴たちに? えーっと、あー……まあ、うん」
「そうか」
明らかに不審な娘の態度にも、まるで気づかぬようなようすで、エウリュメドン殿。
「兄さんたちは、元気そうだったかな?」
「あー……」
アタランタは上を見て、横を見て、また上を見た。
「あの……うーん……そうだな、私が見たときには……あんまり、元気そうではなかった……かもしれない」
というよりも、タウロスに倒されて、三人そろって伸びていた。
「アタランタ、いったいどうしたの?」
母が、大きな目をして、アタランタの顔をのぞきこむ。
「そんな、はっきりしない話し方、いつものあなたらしくないわよ!」
「えっ? いや、あの……そう?」
自分でもさすがにこれは怪しいと思うほど慌てながら、アタランタは、ちらりと父の顔を見た。
その父は、いつもと変わりない表情で、
「そうか」
と言っただけだった。
――こうなると、もはや、逆に怖い。
父は、何を、どこまで知っているのか?
アタランタにはいつも優しく、家のなかでは怖い顔などほとんど見せたこともないが、噂によると、外ではものすごく怖いらしい父だ。
実際どれくらい怖いのか、見てみたい気もするが、見たくないような気もする。
――いや、やっぱり、絶対見たくない。
「あの……父さん……?」
「ん?」
「ごめんなさいッ!」
これ以上、しらを切りとおすことは、自分には無理だ。
アタランタは、がばっと父の膝に手をかけた。
「実はッ……父さんと母さんには、言ってなかったんだけど、兄貴たちが、隣村に練習試合に行って、タウロスさんにやられちゃって!」
「もちろん、知っている」
「――知ってたッ!?」
思わず、どたんと転がって、アタランタ。
「そりゃあそうよ。そんなの、知らないと思うほうがおかしいわ!」
と、呆れたように、母。
「村じゅうのうわさになってるわよ! 『お気の毒にねえ』なんて、これみよがしに言ってくる女までいる始末! もちろん、即座に肩関節を極めてやったけれど」
「母さん、そんな、ボイスカみたいな……」
「まったく、私の自慢の息子が、三人そろって負けるとはねえ! スパルタの母として、実に嘆かわしいわ。再戦の予定は、すぐにあるんでしょうねえ!?」
「えッ!? いや、私は、知らないけど……それは、兄貴たちが考えてるんじゃない?」
そこまで言ったアタランタは、不意に、あることに思い至り、ぴたり、と動きを止めた。
「えっ……ていうか、兄貴たちの件を、知ってるってことは……あの……ひょっとして、私の勝負のことも……!?」
「もちろん知っている」
「――知ってたッ!!」
重々しくうなずく父に、先ほどよりも勢いよく、ズゴーッと転がるアタランタ。
「当たり前でしょう! 兄さんたち以上に、うわさになってるんですからね! 徒競走で、タウロスくんに挑戦したんですって? こんなの、前代未聞だわ!」
「ごめんなさいッ!」
今度は母の膝に手をかけて、アタランタ。
「あれはその、兄貴たちがぶっ倒されちゃってるのを見て、ついカーッと……それで、成り行きというか、行きがかり上というか……」
「本当に、よくやったわねえ!」
「え!?」
母の言葉に、アタランタは、目を丸くした。
「怒って、ないの?」
「もちろんよ」
力強く頷いて、母。
「男であろうと、女であろうと、家族の弔い合戦とあらば、必ず立ち上がるのがスパルタ人の心意気! 立派だわ、アタランタ!」
「弔うな、弔うな」
死んどらんから、と妻に釘をさしておいて、エウリュメドン殿は、優しい目でアタランタを見た。
「それで、おまえは、タウロスくんにスタディオン走の勝負を挑んだが、負けてしまったんだな」
「うん、負けたッ……! でも、あとほんのちょっとで、互角だったんだッ! ……いや、もちろん、負けは負けだけど……でも、手の届かない負け方じゃなかった! もっと鍛えて、次に戦えば、きっと――」
「タウロスくんと、もう一度戦いたいのか?」
「うん!」
「そうか」
炎が燃えるように目を輝かせて言ったアタランタに、エウリュメドン殿は、穏やかにうなずく。
「……ところで、話は変わるが」
「うん?」
「おまえもそろそろ、結婚のことを考える年齢だな」
「ぐほッ!? ガッ、ゴホッ!」
アタランタは、またもや激しくむせ返った。
「い、い、いきなり何ッ!? 藪から槍すぎるよ!」
「実はね」
横から、ぐっと身を乗りだして、楽しそうに言ったのは母だ。
「あなたがタウロスくんと競走したのを見ていた人たちから、内々の求婚のお話が、いくつか来ているのよ!」
「エェェェッ!?」
もはや転がる余裕もないほど驚いて、アタランタは叫んだが、内心では、
(なるほどっ……それで、あんなふうに声をかけてきたやつがいたのかッ!?)
と、納得する部分もあった。
アミュクライ村からの刺客じゃなくてよかった。
「いや、でも……待てよ!? なんで、求婚!? 私、負けたのに……」
「そりゃあ、あなたの走りっぷりを見ていた男の人たちが、あなたなら、立派なスパルタの戦士を生み育てる母親になれると見込んだからに決まってるじゃないの!」
嬉しそうにアタランタの手を握って、母。
「そういう意味でも、よくやったわね、アタランタ! 今なら、選び放題よ。お父さんみたいな、優しくて逞しくてかっこいい、最強の戦士を選びなさいね!」
「はっはっは」
「いやあの……」
張り切る母と、めずらしく自慢げに笑っている父とを交互に見て、アタランタは、ぼそぼそと言った。
「えーっと、その……結婚とか……私は、そういうのは、今はまだ、ちょっと」
「まあ、アタランタ――」
何か言いかけた母を、エウリュメドン殿が、そっと手で制する。
「アタランタには、今、気になる相手というのは、いないのか?」
「え」
不意打ちの問いかけに、アタランタはどぎまぎした。
「気になる、って……」
その瞬間、脳裏に浮かびかけた面影を、あわてて頭を振り、はらいのける。
「いや、別に……結婚って意味では……そういうのは別に、誰も……」
「そうか」
「まあ、たしかに、慌てて選んでも、ろくなことはないものね」
うんうんとうなずきながら、母。
「母さんのように、じっくり狙いをつけてから、これはと思った相手の心臓を一突きにするのよ、アタランタ!」
「暗殺の心得!?」
「はっはっは」
「父さんは、母さんに一突きにされたんだね……」
「ああ、抵抗すらできなかったな。わしの人生最大の敗北だった……」
「あら、あなた……人生最高の、でしょう?」
「フフ」
「ウフフ……」
「……うん……えーと、私、もう寝るね!」
* * *
その夜、横になってからも、アタランタはなかなか寝付けなかった。
(結婚、か……)
暗闇のなかで目を開き、考える。
(結婚したら……子供を作って、生み、育てる。そしたら、私は……)
今のように走り続けることは、もうできないだろう。
だが、これは、スパルタに生まれた女の宿命だ。
スパルタの男子が『戦場に立ちたくない』などと言い出すことは、ありえない。
そんなことは、決して、許されない。
同じように、女たちもまた――
(分かってる。いつかは私も、次のスパルタの戦士と、その母を生むための戦いをしなくちゃならないってこと……でも、まだ……今は……)
戦いたい人がいる。
どちらが、最も速いか。
己の全力を賭して、勝敗を決したい相手が。
(もっと、もっと、鍛錬を積むんだ……そして、絶対に、勝ァァァつ!)
「ウウウ……ウオオオオオオォ~……グフフフフ」
「……いつものことだけど……この子、大丈夫かしらねえ? 寝言が独特すぎるわ……」
「……………………」




