第14話 タウロス
「おや! おまえがまた来るとは、こりゃいったい、どうしたことじゃ」
しわしわの目を丸くして、「薬草のじいさん」ことアナクサンドリダスは言った。
「アタランタちゃんとは、うまくいっとるのかな?」
タウロスは四条の深い傷痕の走る顔を哀しげにゆがめて、かぶりをふった。
「さすがのおまえも、慣れぬ恋の戦いには、苦戦しとるか。カリアンドロスを援護に送っといたが、あいつは、役に立っとらんかな?」
「あいつには……いつも、助けられている。だが……なかなか、思うようには」
「まあ、恋の秘訣は、焦らず攻め続けることじゃ。で、今日は――」
アナクサンドリダスは、しわしわの顔をしかめながら、患者のようすをすみずみまで観察した。
前回と同じく、堂々たるタウロスの体躯には、目立つような新しい傷はない。
「となると……そこかッ!」
がっしりとした腰をびしりとゆびさしたアナクサンドリダスに、タウロスは、沈痛な面持ちでうなずいた。
「そうだ」
「そうなのかッ!? いや、それは、大変じゃ。これからというときに。いったい、どういう症状なんじゃ?」
「……おさまらない……」
「おさまらんのかいッ」
がくり、と横手によろめくしぐさを見せて、アナクサンドリダス。
「まあ、おまえは、まだまだ若いんじゃから、そういう時もあるじゃろ。おさまりすぎておるよりは、安心じゃ。水をかぶるとか、運動するとかして、発散せい」
「早朝から泉につかり、格技訓練場で十五人倒してきたが、まだ……」
「燃えすぎじゃろ、それは。燃え滾りすぎじゃろ」
わしにも分けてもらいたいくらいじゃ、と複雑な顔で、アナクサンドリダスは言った。
「まあ……何じゃ。要するに、おまえはアタランタちゃんとΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑがしたくてたまらんと――」
「言うなッ!」
大きな手のひらを突き出し、もう一方の手で顔をおおって、タウロスはうめいた。
「考えないようにしているのだ……ますます、おさまらなくなる……!」
「こりゃ重症じゃな」
深いため息をついて腕を組み、アナクサンドリダス。
「後輩に言いつけて、あれしてもらえばいいじゃろうが」
「何をいう。彼らにも、彼らの鍛錬があるのだ……そんなことで、いちいち彼らを使いだてするわけにはいかん」
「よい先輩すぎる」
わしだったら即座に惚れとるがのう、とぶつぶつ言うアナクサンドリダスに、タウロスはすがるような目を向けた。
「何か、いい薬草はないのか……?」
「ふむ、そうじゃな……逆の効き目を求める者は多いが、おさまるほう、のう。一応、あるにはあるが……」
「貴重なのか? だが、頼む、俺はもう……」
「いや、効きすぎた場合、永遠におさまったままになる可能性が」
「それは困る……」
「まあそうじゃろうな」
やめとこう、と壺を棚に戻して、アナクサンドリダス。
「だいたい、そんなにもアタランタちゃんとΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑがしたいのなら、こんなところでごにょごにょしとらんで、すぐにでも心を打ち明ければいいじゃろうが」
「だが……彼女は、俺を恨んでいるのだ……!」
「ああ、勝負のうわさは聞いとるよ。じゃが、本当に、そうかのう?」
意味ありげなアナクサンドリダスの言葉に、タウロスは、げっそりとした顔をあげた。
「そう、とは……?」
「アタランタちゃんが、おまえを恨んでいるという話じゃ。
わしは、あの娘を幼いころから知っとるが、あれは、人を恨むような性格の娘じゃないぞ。恨むというよりは……おまえを絶対に倒したい、と思っとるだけじゃないかのう?」
「絶対に倒したい、と思われているのでは、これ以上、どうにもならないではないかッ!」
「あだだだ! 落ち着け! 老人に、無体をするでないッ」
岩のような手でぎゅうぎゅう掴まれ、悲鳴をあげるアナクサンドリダス。
タウロスは、はっとして手をはなし、がっくりと座りなおした。
「すまない……つい……」
「いや、いや。ずいぶん古びとるとはいえ、同じ男として、おまえがいらだつ気持ちはわかるぞ。……だが、落ち着け。希望はある。あの娘にとっては、走ることが、人生の楽しみなんじゃ」
「人生の……?」
突然何を言い出したのか、と怪訝そうな顔で、タウロスは繰り返した。
「ああ、そうじゃ。もっと、速く走りたい。誰よりも速く走りたい。あの娘は、いつも、そう思って生きておるんじゃ。そんな娘にとって、おまえは、特別な相手じゃ」
「特別……」
「おうとも。俊足の評判高い自分を、正々堂々、脚で打ち負かした相手なのじゃからな。嫌でも、意識するわい。いわば、宿命の好敵手じゃな。今のアタランタちゃんにとって、今、この世で一番、気になる男は、おまえなんじゃ」
タウロスの肩をぽんと叩いて、アナクサンドリダスは、にっと笑った。
「この世で一番、気になる男から、恋しい男になるまでは、あと、ほんの半歩ではないかのう? ここが、男の踏ん張りどころじゃ。がんばれよ」
親友カリアンドロスがそのまま歳をとったような笑顔を、タウロスはしばし、黙って見返していたが、やがて、
「ああ」
と呟いて、立ち上がった。
「……ありがとう」
「なあに。そんじゃ、お大事に」
見送りの声を背中に聞きながら出ていこうとしたタウロスだが、戸口のところで、
「そうだ」
と、不意に足を止めた。
「あと、ひとつ……確かめておきたいことがあるのだが」
「わしにか? おう、何じゃ」
「このこと……つまり、俺が、アタランタに想いを寄せていることを……アタランタの父上、エウリュメドン殿には、まさか、話していないだろうな……?」
「おう。まだ、何も話しとらんぞ」
即座にあった返事に、ほっと安堵した瞬間、
「まあ、アタランタちゃんの兄貴たちの耳には、入れておいたがのう」
「……何だとォォォォ!」
「あだだだだだだ!?」
さらりと口にされた聞き捨てならぬ情報に、タウロスは、アナクサンドリダスの両肩をぐわしとひっつかみ、高々と持ち上げていた。
「と、取れる取れる、取れるッ! 肩が、取れる~ッ!」
「道理で、急に彼らが訪ねてきたはずだッ……! では、俺が彼女と対戦するはめになったのは、そもそも、あなたのせいではないかァァァ!」
「いや、待て、ちょっと落ち着け……! ええい、落ち着け、というのにッ! フゥンッ!!」
「グウッ!?」
あざやかな手さばきでタウロスの肘の関節をとって極め、アナクサンドリダスは、ようやくふたたび地面に両足をつけた。
「よく考えてみよ! 悪いことばかりでは、なかったじゃろうが? おまえは、アタランタの兄貴たちを倒したことで、彼らに、戦士としての――妹の夫候補としての実力を示すことができた! あの頑固者の三兄弟が賛成に回れば、父親のエウリュメドン殿を説得するための、心強い支えとなるじゃろう」
はっとした顔になったタウロスに、アナクサンドリダスは、ふたたび孫とそっくりの笑顔を浮かべてみせる。
「な? 『密集陣形を崩さんと欲すれば、まずその一角から崩せ』じゃ。年寄りの策も、ばかにしたもんでもなかろうが、ええ?」
タウロスは、素直にうなずいた。
「ほい、そんじゃ、お大事に。とりあえず、朝起きたら一番に、冷たい泉に――」
「……待てよ」
素直に戸口を出ていきかけたところで、ふたたび、ぴたりと足を止めて、タウロス。
「何じゃ、まだ、何かあるのか?」
「いや……何かというか……あの三兄弟が、すでに、俺のアタランタへの想いを知っている、ということは…………それは……つまり……!?」
「おう」
いたって軽い調子で、アナクサンドリダス。
「そりゃ当然、もう、父親の耳にも入っておるじゃろうな。わしは、彼には話しとらんが――」
「……ウオオオオオオオォ!!」
「ぬおおおおっ!? 誰か、来てくれぇぇぇっ! 患者が、暴れ出したぞぉぉぉ!」




