第13話 アタランタとタウロス
その日の、夕方。
「よっ、と……こんなもんかな」
木からもいだイチジクの実を、袋いっぱいに詰めて、アタランタは呟いた。
もちろん、タウロスへの『お詫びの品』だ。
(だが、これを持って、どうやってタウロスさんに謝りに行くかが問題だ!)
と、自分用にもいだイチジクをかじりながら、作戦を考える。
(もう一度アミュクライ村に行くとなると、あっちの村の人に姿を見られることになる……そしたら、怒った村の人たちに、叩き出されちゃうかもしれないな! タウロスさんは、アミュクライ村の人気者らしいから、あの女の子たちみたいに、タウロスさんに挑戦した私を良く思ってない人も多いかも。
そうだ、茂みを伝って、こっそり這っていけば、見られずに行けるか!? ――いや、ダメだな! ガサガサやってたら、獣か何かと思われて、射られるおそれがある……)
それだけは避けたい展開だ。
(こうなったら、夜更けまで待って、みんなが寝静まったころに、隣村に侵入するか!? ――うーん、ダメだな! 夜更けに忍び込むっていうのは、昼に堂々と訪ねていくのとは、意味が違う。バレたら、父上が村長にめっちゃくちゃ怒られるし、私も、下手したら、暗闇のなかで歩く訓練中の戦士たちに、グサッとやられちゃうかも……)
命がけすぎるお詫びである。
(もう『タウロスさんへ さきほどはとてもしつれいしました アタランタ』って手紙でもつけて、村の境界石のところに、この袋を置いておこうかな? ――あー、やっぱり、ダメだな! 字が読めない誰かが、勝手に持っていって食っちゃうかもしれないし、タウロスさんが字が読めるか知らないし、そもそも私、『さきほどはとてもしつれいしました』って字が書けないからなッ!)
やはり、直接会って謝るしかない。
だが、アミュクライ村に立ち入ることがはばかられる今、いったいどうすれば、彼と直接会うことができるだろう?
(そうだ! ここで待ってれば、誰かが通りかかるかもしれない。その人に、タウロスさんへの伝言を頼めばいいんだ。アタランタが、境界石のところまで、謝りに来てるって!
あっ、しまった……それなら、兄貴たちを運んできてくれた人たちに、お願いすればよかったッ!)
アタランタの兄たちは、無事に――というべきか、牛の背に乗せられて、村の兵舎に帰還している。
(まあいいや。ここで、誰か来るのを待とう! もしかしたら、タウロスさん、呼ばれても、怒ってて来ないかもしれないけど……まあ、そうならそうで、しかたがないよな。とにかく、こっちの誠意を見せることが大切だ! よし……)
イチジクを詰め込んだ袋を、そっと境界石の上に置き、アタランタは石を背もたれがわりに、どっかと地面に座りこんだ。
(やれやれ! 今日はタウロスさんと競走したり、女の子たちとレスリングしたり、いろいろあって疲れた……誰かが通りかかるまで、休憩だッ!)
すでにタユゲトスの山なみがあたりに影をおとし、涼しい風が吹き始めている。
日中の陽光の熱をとどめた境界石から、背中に、じんわりとあたたかさが伝わってくる。
「ふァ……眠ッ……」
アタランタは大きくあくびをして目をこすり、肩をぐるぐると回した。
「あー、眠いな! 眠いッ! ウオオオオォ!」
眠気を追い払おうと、でかい声で叫んでみるなどする。
(一度、立って、そのへんを歩き回ったらいいかもな……それか……イチジクをもう一個食べる……いや、あれは、タウロスさんに渡すやつ……だから……)
考えるうちにも、昼間の疲れが、まぶたに重くのしかかってくる。
「フーッ……」
深い息をひとつ、ついたのを最後に、アタランタは、ぐっすりと眠りこんでしまった。
* * *
しばらくして。
「フーッ……」
その道を、アミュクライ村からこちらへと、歩いてくる者があった。
タウロスだ。
意志力で平静な表情を保ってはいるが、心臓は激しく打ち、今にも口から飛び出しそうだ。
前に、アザミの花を持ってアタランタを訪ねたときでさえ、ここまでの緊張感はなかった。
今回は、前回までとは、圧倒的に違う。
アタランタに、いろいろなことを伝えなくてはならない。
彼女の兄たちと戦ったのは、試合を申し込まれたからであること。
彼女からの挑戦に、驚きこそしたが、不快ではなかったこと。
初めて見たときから、その走る姿に強く惹かれたこと、勝負にかける姿勢、その表情、声、何もかもが特別に見えて、何をしているときも彼女の面影が浮かび、たまらない気持ちになること――
「フーッ……」
会って、どんな言葉でそれを伝えるは、まったく決めていなかった。
いくら、前もって言葉を考えていったところで、実際の場でそのまま話しては不自然になるかもしれないし、とちゅうで何か突発事が起きて、考えていたことが全部吹き飛んでしまうかもしれない。
それならば、あえてごちゃごちゃ考えず、その場で、心のおもむくままに話したほうがいいだろう。
――まあ、実を言えば『いくら考えても気の利いた表現を何ひとつ思いつかなかった』というのが、最大の理由なのだが。
(恐れるな……スパルタの戦士は、何事も恐れない……死の闇も、陽の射す道も変わりなく、前を向いて歩くのだ……)
彼の中では、事はすでに生死の領域に入っている。
(いざ……!)
境界石をこえ、ザッと隣村へ踏み込んだ瞬間に、
「!?」
タウロスは人生で初めて、驚きすぎて転んだ。
鍛え抜いた反射神経でとっさに受身をとり、小石の転がる音ひとつ立てなかったが、すぐには立ち上がることができなかった。
境界石にもたれて地面に座り、ひとりの乙女が、ぐっすりと眠っている。
見間違えるはずもない。
アタランタだ。
(お……俺は……夢を、見ているのか?)
信じられないという表情のまま、タウロスは、自分の頬を自分の拳でゴッと殴った。
「ウッ」
普通に痛かった。
どうやら、夢ではなさそうだ。
境界石の上には、なぜか、いちじくの実が大量に入った袋がひとつ置いてある。
(これは……もしや、何かの罠では)
と、立ち上がり、身構えて辺りを見回したが、何者かがひそんでいるような気配はない。
「……………………」
タウロスは、眠るアタランタの姿を見下ろした。
(まさか、眠ったふりをして、俺をおびき寄せ、のこのこと近づいたところを一突きにするつもりでは……)
警戒しながらじりじりと摺り足で接近し、様子をうかがう。
だが、ほんのかすかな吐息の音も、それと共にゆるやかに上下する胸の動きも、明らかに、熟睡している人間のそれだった。
ここまで近づいても、まったく目覚める気配がないのは、さすがの彼女も、ひどく疲れているからだろうか。
両の腕はくつろいだ様子で左右に垂れ、首は少し傾き、両脚はしどけなく投げ出されている。
その、あまりにも無防備な姿に、
(こんなことで、不埒なやつに襲われでもしたら、どうするのだッ!?)
と思わずにはいられなかった。
彼女の衣には少しの乱れもなかったから、彼女が眠り込んでから、ここを通りかかったのは、おそらく自分が最初なのだろう。
神々に肉を捧げて踊りながら感謝したい気持ちだ。
(そうだ……とりあえず……見張りをしなくては)
タウロスは音を立てないように近づいて、アタランタと直角になる向きで境界石にもたれ、腰をおろした。
そのまま、しばしの時間が経過する。
(………………いや! ちょっと待てッ……俺は、いったい何をしているのだ!?)
意を決して会いに来た相手が、すぐそばにいるのだ。
彼女を起こして、話さなくては。
一声かけるだけで、彼女はすぐに目を覚ますだろう。
いや、それよりも――
タウロスは境界石から背中をはなすと、獣のように四つん這いになって、音もなくアタランタのそばへ寄った。
声をかけるより、優しく揺り起こすほうがいい、と思ったのだ。
右手を、ゆっくりとアタランタの肩に伸ばす。
こうして彼女の体に触れるなど、初めてだ。
馬の尾のように結いあげた髪のいく筋かが、日に焼けた肩に、はらりとかかっていた。
なにか夢でも見ているのか、彼女は小さく眉をひそめ、唇を、ほんのわずかに開いた。
それを目にした瞬間、タウロスは腹の底に滾るような熱をおぼえた。
アタランタの体をまたぐようにして膝をつき、アタランタの肩に置くはずだった手を、境界石についた。
もう一方の手も、彼女を囲い込むようについた。
タウロスの大きな体は、アタランタの体をほとんどおおい隠してしまった。
「アタランタ……」
吐息のような、ほとんど声にならぬ声で、タウロスは目の前の乙女の名を呼んだ。
肉体はますます昂ぶり、もう止めようもないほど激しく疼いている。
たまらず、彼はアタランタの唇に――
「ウオオオオオオオオ~ッ」
その瞬間、タウロスは人生で二度目に、驚きすぎて転んだ。
転ぶどころではなく、反射的に全力で境界石を突き放し、全身の筋肉を使って海老のように後ろに跳ねとび、派手に地面に転がった。
急に謎の雄叫びを発したのは、信じがたいことだったが、目の前のアタランタだった。
一瞬、アタナ女神かアルテミス女神が、アタランタに対する自分のふるまいをご覧になって怒り、彼女の口を借りて叫びを発したのかと思った。
「!?」
ぼたぼたと真っ赤な血がこぼれてタウロスの胸板を汚し、はっと掲げた手のひらにも点々と赤いしみを作った。
女神の怒り、ではなく――いや、そうかもしれないが――鼻血だ。
(嘘だろう!?)
「ううぅぅ~ん……逃げるなぁ……勝負だ……グムムムム」
鼻血にまみれて呆然とするタウロスの前で、アタランタは大きく顔をしかめ、ぐんと手足を突っ張ってうなった。
「うう……速い速い……ううううう……ウオオオオオォ」
「………………」
愛の女神が二人の上に投げかけてくださった甘やかな帳は儚くもやぶれて、もはや、何が何だか分からない状況だ。
「オオォ~……速いぞぉ……待てェェェ…………ん?」
急にぱちりと目をあけて、アタランタは、一瞬何が起きたか分からないというように、まぶたをしぱしぱとさせた。
(あれ? ……あっ!? やばい、寝ちゃってた!? ……ん!?)
見れば、少し離れた地面に、点々と赤いものが落ちている。
(血ッ!?)
ここに来たときは、たしかに、血なんて落ちていなかった。
自分が眠っている横で、誰かが、音もなく戦っていたのか?
いや、さすがに、そんなことがあるはずがない。
では、血のしたたる獲物をくわえた肉食獣が、すぐそばを通りすぎていったのか?
(あ……あっぶねえええェ! 狼か何か知らないけど、たまたま腹いっぱいだったから、私を襲わなかったのかな。こんなところでボーッと寝てて、無事に済んだなんて、幸運すぎるッ……ほんと、気をつけないとな! だいぶ暗くなってきたし、今日は、もう帰ろう!)
「野獣たちの女主人であらせられる、アルテミス女神さまよ! 私の身をお守りくださって、本当にありがとうございました! お礼に、ええと――そうだ! この果物を、どうぞお収めくださいませ!」
アタランタは境界石の上に置いていたイチジクの袋を、片手でつかんでぶんぶんと振り回し、勢いよく近くの木立のなかへと投げ込んた。
ガサガサッという音と同時に、
「ウッ」
とかすかなうめき声が上がったのだが、アタランタはそれには気付かず、元気よく家まで走って帰ったのだった。




