第11話 アタランタ
「な、な、な……」
村どうしの境界石の前で、大きく顔を引きつらせ、アタランタは叫んだ。
「何イィィィーッ!? それじゃあ、いきなり隣村にのりこんで練習試合を申し込んだのは、兄貴たちのほうで……タウロスさんは、それを受けただけッ!?」
「どうも、そういうことらしいわ」
彼女にはめずらしく、ぐったりと疲れた様子で境界石に腰をおろしながら、ボイスカ。
疲れているのはむろん、アタランタをここまで引きずってくるのに体力を使ったからだ。
「あなたが走ったあとに、近くにいた人たちに聞いたのよ。まあ、こちらとあちらの村長や、格技訓練場の監督係には、きちんと事前に話を通してあったようだけれど――」
当たり前である。
そうでもなければ、今ごろ、村どうしの戦闘が発生している。
ボイスカの説明をみなまで聞かず、アタランタは両手をわななかせた。
「なんてこったッ……! タウロスさんは、挑戦を受けたから、正々堂々、戦って勝っただけってことかッ……!?」
向こうから喧嘩を売ってきたのなら、こちらが腹を立てる道理もあるが、自分の側から勝負を挑んで返り討ちにあった、というのなら、それはもう、兄たちの自業自得である。
「兄貴たち、そろいもそろって、何やってんだ!? ……っていうか、私も、何やってんだッ!? これじゃ私は、カン違いで弔い合戦を挑んだ、ものすごい迷惑女ってことにッ!」
「オーッホッホッホ! まあ、そういうことになるわね」
「ウオオオオォ! どうしようボイスカ、これはやっぱり、謝りにいったほうがいいよな!? ええと……鹿……いや、イノシシ!?」
「お詫びの品にしては、ちょっと大げさすぎるのではなくって!?」
腰かけていた石から思わず立ち上がって、ボイスカ。
「別に、もう、いいじゃないの。相手は、勝って評判が上がったのだし」
「そこなんだよッ!!」
一度は落ち着きかけた声量を、また元に戻して、アタランタ。
「カン違いで挑んだ上に、負けたってところが、もう、半端じゃなくダセェ……! あと、ちょっとだったんだ! ほんの、腕一本分の差だったのにッ!」
「謝る気持ちはあるのに、勝ちたい気持ちも、やっぱりあるのね……」
「当ッ然だ! たとえ途中にどれほどスットコドッコイないきさつがあろうとも、勝負をした以上は、勝利をおさめなきゃ意味がないッ! せっかく――」
そこまで叫んで、アタランタは、ふと言葉を切った。
『せっかく、初めて、男と真剣勝負ができたのに』
と、自分は言おうとしたのだ。
『ねえねえ、私と競走しようよ!』
『何言ってんだよ、女とは競走しねえよ!』
『私と競走しない? 私、速いよ!』
『いや、今ちょっと忙しいから、また今度な!』
『ウオオオオォ! 誰か、私とスタディオン走で勝負しろーッ!』
『うお、アタランタ! おまえ、まだそんなこと言ってんのか……他にやることあるだろ、女なんだから』
同じ年頃の男子たちのなかにも、年上の男たちのなかにも、誰ひとり、自分と真剣勝負をしてくれる者はいなかった。
これまでは。
(どうして、タウロスさんだけは、私と戦ってくれたんだろう?)
ふと、そんな疑問が心に浮かび、
(そうか……! それだけ、自分の脚力に自信があったってことかッ! 誰に挑戦されようが負けない、かならず叩き潰してやるっていう、絶対の自信がッ!)
一瞬でそんなふうに結論を出して、アタランタは、ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱した。
(ウオオオオォ! 自分のほうこそ勝つと信じ込んでた自分が、ものすごく恥ずかしい! 上には上がいるんだな! だが……絶対に手が届かない、というほどじゃなかったぞ。見てろよ、タウロスさん! 私はこれから、今まで以上に猛特訓をして――)
「あら」
急に、ボイスカがそう言った。
その声に、いつもと違う調子を感じ取り、アタランタはすばやくそちらを見た。
「まあ! まだ、こんなところにいたわ!」
「そこのあんた! ちょっと面貸しなさいよ!」
どやどやと道を走ってきたのは、十人ばかりの、隣村の女子たちだ。
「アァン?」
アタランタは目を細め、全員の顔をくまなく見た。
誰の顔にも、覚えがない。
「…………誰?」
「誰? じゃないわよっ! あんた、よそ者のくせに、よくもタウロスさまに馴れ馴れしく近づいたわねっ!? 許せないわ!」
「え? 何だよ、あんたたちも、タウロスさんと勝負したいなら、すればいいじゃん。せっかく近所に住んでるんだから」
「キイイッ! そんなこと、できるわけないでしょ!? あたしたちなんて、タウロスさまといくら話したくても、我慢しているのよッ!」
「え? いや、タウロスさんと喋りたいなら、我慢なんかせずに喋ればいいじゃん。せっかく近所に――」
「うるさーいっ! とにかく、タウロスさまは、あなたみたいな娘が近づいていい相手じゃないのよ! 今回のことで、よおく分かったでしょ!? これに懲りたら、二度と、うちの村の境界をまたがないでちょうだいっ!」
「それは、断じてきっぱり絶対に断固として断るッ!!」
「何ですって!?」
急に声をはりあげて、きっぱりと言い放ったアタランタに、隣村の女子たちのボルテージが一気に上がった。
「何よ! あんた、やる気!?」
「手加減しないわよ……!」
「うるっせええぇぇ!」
かわるがわる凄む女子たちに、だんだんだんと地団駄を踏んで、アタランタ。
「あんな、とんでもなくダッセェ負け方をして、それっきり黙って引っ込んだとあっちゃあ、スパルタの戦士の名折れだッ!
私は必ずもう一度、タウロスさんに挑戦するッ! そして、次こそは必ず勝ァァァつッ!! 私の復讐戦を邪魔するなら、こっちこそ、手加減しないッ!!」
「何ですってェ!」
「なんて生意気な女なのっ……! 覚悟はできてるんでしょうね!?」
「あたしたちを怒らせるとどうなるか、思い知らせてやるわ!」
隣村の女子たちが、いっせいにアタランタにとびかかろうとした、そのとき、
「オーッホッホッホッホッ!」
一同の耳をつんざく高笑いが、緊迫し切った場に響きわたった。
「先ほどから黙って聞いていれば、どうやら皆さん、あたくしのことが目に入っていないようですわね! アタランタに手を出すというのなら、もちろん、このあたくしが黙っていなくてよッ!」
声の主は、もちろんボイスカだ。
「ハァ!? 横から、何なのよ、あんたは? 引っ込んでなさいよ!」
「引っ込まないなら、あんたもぶちのめすわよっ!」
「オーッホッホッホ! ずいぶんと愉快なことをぬかしくさる方々ですわねえ。ぶちのめせるものなら、やってごらんなさい! ただし、あたくしのアタランタに指一本でも触れたら、ぶちのめされるのは、あなたたちのほうですわッ!」
「あたくしのアタランタ……ですってぇ?」
「あなたたち、コレどうしなのぉ?」
「信じられなーい!」
「オーッホッホッホ!」
露骨に軽蔑したような声をあげる女子たちの前で胸をそらし、高らかに笑いながら、ボイスカ。
「いかにも、程度の低い連中の言いそうなことですわッ! あたくしとアタランタのあいだの崇高な絆が、まったく理解できないようですわねッ!」
「なっ……何ですってぇぇぇ!?」
「よろしくって、あなた方!? 耳の穴かっぽじって、しかとお聞きなさいッ!
美しき存在は美しき存在と、強き存在は強き存在と、めぐりあい、ひかれあい、求めあう! それこそが自然の摂理、天地の理、世の宿命ッ! あたくしとアタランタとは、そういう、強ぉ~い絆で結ばれた宿敵どうしですのよ!
まぁ、あなた方のような程度では、そんな高尚なつながりのことなど、とても理解できないどころか、想像することすらも難しいでしょうけれどねッ! オーッホッホッホッ!」
「なっ、何が、宿敵よっ!? 言ってることが意味不明だわ!」
「そうよ、そうよ! あんた、この娘の味方なのか、敵なのか、はっきりしなさいよっ!」
「まぁ~あ!」
息巻く女子たちに、全身で嘆かわしさを表現しながら、ボイスカは言った。
「そこのところが分からないなんて、あなた方は、どうやら、きちんと学んでいらっしゃらなかったようねッ! 我らがスパルタの偉大なる立法者、リュクルゴスさまが、かつて何とおっしゃったかをねッ!」
「ハァ~!? いったい、何の話よっ!?」
「『同じ敵とは繰り返し戦うな』――リュクルゴスさまは、そう仰せになったわ。さあ、そこのあなた! あなたは、この言葉の意味が、きちんと理解できて!?」
「あ……当たり前でしょ!? ばかにするのも、いいかげんにしなさいよ! 『何度も戦うことによって、相手に、こちらの手の内を知られてしまう。だから、同じ敵と繰り返し戦うことは、避けなくてはならない』……という教えじゃないの!」
「そのとおりッ!」
びしりと相手を指さして、力強く、ボイスカ。
「その意味を、よ~くお考えなさいッ!
――戦いとはッ! すなわち、相手を知り、己を知られるということッ! つまり! 数え切れぬほどの真剣勝負を戦った敵どうしこそは、この大地の上で、互いをもっともよく知り合い、魂までも通じあった存在に他ならないッ!
それすなわちッ! 宿命の敵どうしこそが、真の宿敵である、ということよッ!!」
「なっ……え……? ハァ!?」
「何!? どういうこと!?」
「もうだめ、こいつ、何を言ってるのか分からないわ!」
「うんうん」
混乱する隣村の女子たちに、深々とうなずいて、アタランタ。
「私も、ボイスカの言ってることは、ときどきよく分からないんだ」
「オーッホッホッホ! 失礼ねッ! 肩関節を極められたいのかしらッ!?」
「ウオオオッ!? やめろ! 相手が違うだろッ!」
シュババッと地面を転がってボイスカから距離をとり、アタランタは、ぐるぐると肩を回し、その場で軽く何度か跳びはねた。
「まあ、いいや。よし! 始めようッ!」
「えっ?」
隣村の女子たちは一瞬、アタランタが何を言っているのか分からず、目をぱちぱちさせた。
「何を?」
「え? だから、戦いを始めようって。レスリングでいいかな?」
「えっ?」
「何だかよく分からんけど、あなたたちは、私を倒しに来たんだろ?
挑戦されたら、かならず受けて立ち、相手を叩き潰す! それが、スパルタの戦士の生き様ッ! 正面切って挑まれて、それを受けなかったとあっちゃあ、私の名誉に傷がつくってもんだ……!」
両手を体の前に構え、体を小さく揺らしながら、じりじりと前に進み出る。
ボイスカもいつの間にかアタランタの隣、わずかに後方に立ち、まったく同じ姿勢をとっていた。
二人の背中から、肉眼で見えかねない、黒い炎が立ちのぼっている。
「ちょっ……待ちなさいよっ!? こっちは、十人いるんですからね! 謝るなら――」
「タウロスさんは、ひとりで、うちの兄貴三人を倒した……」
アタランタの目に、カッと炎が燃える。
「ならば私は、ひとりで五人を倒すッ! ここでタウロスさんに勝てないようなら、足でも勝てないッ! まずはここから、巻き返させてもらうぞォォォ! ウオオオオオオオオォ!!」
「オーッホッホッホォリャアァァァァァッ!!」
とんでもないことになった。
 




