第1話 タウロス
「おまえが来るとはめずらしいのう。十五のときに、ほれ、そこをオオカミにやられて以来じゃないか?」
いかつい顔面に四条の深い傷痕を走らせた若者は、重々しくうなずいた。
「薬草のじいさん」ことアナクサンドリダスは、しわしわの顔をしかめて、患者のようすをすみずみまで観察した。
患者は古びた布一枚を腰に巻いただけの、はだか同然の姿だったから、新しい傷がどこにもないことは一瞥しただけでわかった。
「さては……そこかッ!」
がっしりとした腰をびしりとゆびさしたアナクサンドリダスに、患者は静かにかぶりを振った。
「なんじゃ。では歯痛か、腹痛か、それとも頭痛か? 痛むところを指さしてみい」
「痛みはない」
「ほう。では、どういう症状なんじゃ」
「心臓が」
「ほう?」
「むやみに打って苦しい。しずめようとすればするほど、口から飛び出してきそうになる」
「それは神殿に祈祷をたのみにいったほうがよいやつではないのか……? 若いのに、えらいことじゃな。今もそうなのか?」
「いや。今は、大丈夫だ」
「では、いつ、そうなるのじゃ? 体を動かしたときか?」
「ちがう」
「休んでいるときに、急にそうなるのか?」
「ちがう」
「朝、昼、夕方、夜のいつじゃ?」
「朝とか夜とかいう話ではない」
「なに? まったく面倒くさいやつじゃな。自分で、くわしくしゃべらんかい」
患者はしばらくのあいだ、岩のような顔で押し黙っていたが、やがて、
「あるものを見ると、そうなる」
と、ぼそりと言った。
「ほう? その『あるもの』とは?」
「そのあたりを走っている。……二本の足で」
「二本足? ニワトリか!」
「違う」
「ああもう面倒くさい激しく面倒くさい。自分でしゃべらんかい!」
患者はふたたび長いあいだ黙り込んでから、ようやく、押し出すように言った。
「女だ。…………どうした、じいさん。なぜ立ち去る」
「心配して損したわい。わしゃ昼寝してくる」
「待ってくれ」
割れて口を開く前のザクロの実であろうと握りつぶしそうなごつい手が、老人の肩をがっしとつかむ。
「俺は困っているのだ。治してくれ」
「その症状につける薬はないわい」
「飲み薬でもいい」
「そういう話ではない。そもそも、それは病じゃないのでな」
「なに? まさか、呪い……」
「なんでじゃい。その『女』というのは、女ならば誰でもそうなるのか?」
「いや」
「誰か、きまった女なんじゃな?」
「女というか、娘だな」
「どこの娘じゃ?」
患者は今までで一番長く押し黙った。
アナクサンドリダスがあやうく居眠りしかけるほどの時間がたって、ようやく、
「エウリュメドン殿の娘だ」
と答えた。
「あそこは娘が五人おるじゃろ。あ、一番上と二番目と三番目は嫁に行っとるし、五番目はまだ赤ん坊……となると、四番目か。アタランタじゃな」
ずばりと言ったアナクサンドリダスに、患者はかすかにうなずいた。
「よしわかった、わしに任せとけ。そんじゃお大事に」
「待ってくれ」
数多くの対戦相手を大地に叩きつけてきたごつい手が、出ていこうとする老人の肩を、ふたたびがっしとつかむ。
「薬草は?」
「病気じゃないから、薬草はいらん」
「では『任せとけ』とは?」
「わしが、うまいこと話を通しといてやるというんじゃ」
「話? 誰に?」
「アタランタの父親の、エウリュメドン殿に決まっとるじゃろうが」
「何の話を?」
「タウロスがおまえんとこの娘に恋しとるから、近々、家同士の話を――あだだだだ!?」
「恋……だと?」
自分が老人の両肩をつかんで宙に持ち上げていることにも気づかず、患者は呆然とつぶやいた。
「この俺が……恋……だと? まさか……そんな軟弱な……!」
「だだだだだ! 砕ける! 肩が! 粉砕する!」
「ウオオオオオオ!!」
アナクサンドリダス老人をその場に取り落とすと、患者は獣のように咆哮しながら部屋から駆け出していった。
彼は出ていく勢いで部屋の扉に激突し、扉は完全に枠からもげたが、本人はその事実に気づいてすらいないようだった。
「いてててて」
老いたりとはいえスパルタの男、肩をごきごき言わせながら普通に立ち上がったアナクサンドリダス老人は、もげてぶら下がった扉に目をやり、ため息をつきながらつぶやいた。
「この恋、先が思いやられすぎるのう……」