五章 感傷不全
激烈な太陽光は、ほのかの部屋をも襲う。部屋には冷房が設置されておらず、窓を開けていても蒸し焼きを作れそうなほどの熱気が漂っていた。
暑さにうな垂れてしまい、起床に要する気力さえも身体に宿ることはなかった。ワンピースという放熱に優れた洋服姿でも。溶解が始まりそうな、うつ伏せのダウン。長い髪が熱を捕まえる網に思えてしまい、今は忌まわしい限りとなっていた。
とうとう正午を過ぎ、昼食時となる。
深奈が昼食の相談をしに、ほのかの部屋にやってきた。「お姉ちゃーん? 今日のお昼どうする?」深奈はほのかの様子に気が付いた。
「…………かき氷ぃ」
まさか熱によって脳まで影響が及んでいるのではないかと、深奈はにわかに心配になった。
「冷房が入ってるから、下に来なよ」
どうにかベッドから降りるほのか。おぼつかない足取りで階段を降りる。そして居間に辿り着くなり、テーブルに頬を擦り付けた。
「生き返るー」
深奈はほのかを見ていたが、それからずっとテーブルに突っ伏したまま動かなかった。
十二分が経過し、ようやくほのかは回復したようだった。
「……今日は暑すぎだよ! もう少しで天竺に行けそうな勢いだったもん」
「天竺はインドのことだよ」
「あーつーすーぎーだよー。打ち水しようよ、打ち水」
その提案に、深奈は難色を示した。
「えー。小学生みたい」
「気のせいだって、お外にゴー!」
二人は庭へとやってきた。コンクリートと縁側の間には、簡素な蛇口と一本の柿の木しか際立ったものはない。
その蛇口にホースを繋ぐ。
「じゃ、水を出すよー」
「いいよ」
二人は散水を始めた。
水がきらきらと弧を描いて地面へと叩きつけられ、硝子片のような飛沫が辺りに飛び散る。
「見て見て、虹が見えるよ!」
ほのかは髪に水滴がかかることも気にせず、水を撒く。
「ほんとだね。きれい」
二人して、打ち水を楽しんでしまった。涼しい風が囁くように庭を流れるが。それより、一緒に遊んでいることで暑さを忘れていた。
打ち水も終え、取って付けたような縁側に腰掛けて二人して和む。
真っ青な晴空が、清々しいと思えるほどだ。
そういえば、と。ほのかは前々から訊きたかったことを思い出した。
「深奈ちゃんのクラスに片柄さんっている?」
「片柄……悠祈さんのこと?」
深奈でさえも、さん付けで呼んでいるのだった。
「そう。うちの学校に片柄待積って人がいるんだけど、避難訓練の時に少―し話してさーあ。妹が深奈ちゃんと同じ学年にいるって話だったの。だから、どんな娘かなって」
嘘を交えての質問。それほどまでに普段の悠祈が気になるのだ。
「あんまり話したことなんてないよ。最近少し話したけどね。悠祈さんていつも不気味に笑うし、自分の席に座ってばかりだから。私が近くの席の娘と話してると、どうしても近寄れないよ」
「じゃあ、仲がいい娘もいないの?」
「ひとりでいるところしか見ないよ。話し掛けられても、軽くあしらってるらしいから。友達なんていないと思う」
それは、ほのかの思考の裏付けでしかない。真新しい情報とは違った。
「でも、多分だけど。授業中に呆けていて怒られる男子が何人かいるのよ。片柄さんに見蕩れてると、女子の間では噂なの」
ほのかは悠祈が美しいということに共感の意を示したかったが、自分で創作した設定上それが出来なかった。
「体育の先生も、体操着姿の悠祈さんに見蕩れたって話だし」
「それは理由が違うのかも……」
だが、悠祈が人の目を惹きつけるのには原因がある。
確かに容姿の端麗さは折り紙付きだが、それは物質の形状に対する不確定な感想に過ぎない。
彼女は見た目に整合する行動や仕草をしている、という。ただただそれだけのお話だ。それだけでは、彼女の魅力はまだ半分。蟻が巣を作るように、雄大な樹が青々しい葉を付けるように。美しい者が優雅な動作をしているだけ。完全と呼ぶにはまだ足りない。
異物の混入を許さない、絶対不揺の幽遠さ。純正の強大さ。儚い存在感と確固たる意思を併せ持つ。思考の異常さは精神疾患ではなく、単なる生体反応でしかない。
それこそが――片柄悠祈。
「悠祈ちゃんって勉強出来るのかな?」
「うーん、誰にも点数を話さないから。誰にも分からないよ。でも、英語は得意らいしよ」
「どうして分かるの?」
それはそうだろう。本人も教師も語らないのだから、証拠なんてどこに転がっているのか。
「中間と期末テストの個人結果表なんだけど。中学一年から、一位が誰か分からないの。それで一位が誰か分かる時は、二位だったり四位だったり、上位順位にひとつ空きが出るの。だから片柄さんはずっと満点を取ってるって噂だよ」
悠祈が学校に通って勉強をしているということに、ほのかは安心した。後戻りをする機会はまだある、と思ったのだ。
「お姉ちゃん、もう二時だよ。お昼食べよ」
「そっか。忘れてたー」
二人は家の中に入った。土はまだ湿っているが、コンクリートの塀は既に乾き始めていた。
いつもならこういう時間配分の時は、昼食を食べた後に家でまったりするのだが。今日は違っていた。自身が作ったチャーハンを食べた後、携帯電話を開くと待積からのメールが届いていた。
『悠祈のことで話しがある。今日家に来てくれないか。』
何も伝わらない文面だった。届いた時間は十時二十七分。今は十五時十四分。時間は経っていたが、ほのかは返信をする。
『今からでもダイジョーブ?』
『大丈夫さ。心配要らない。』
待積からのメールはいつもそうだった。訊いてみると、悠祈が用があるそうだとかそういったことだったりするのだが。片柄の家は歩いても負担になるほどかからない。食器洗いを深奈に任せて、ほのかはすぐに出発した。
外に出て、軽い立ちくらみが起きる。涼しい部屋から暑く眩しい空間へと移ったため、適応が遅れたのだろう。だが数秒後には、何事もなかったように歩き出す。
国道からふたつほど外れた狭い道路。住宅が延々と並ぶその道を、ほのかは鼻歌交じりに歩く。いつも通学のために歩いている道でも、いつも通り楽しそうに歩む。
汗も一定までは気にならない。それよりも、楽しいことを考えていた。
しばらく歩くと古いアパートが見えてきた。
白いペンキが塗られた木の柱。しかし今はコケが這いつくばり、半ば緑色に変色していた。柱のみではなく壁にも亀裂が走り、剥き出しになった中身の木は腐っていた。駐車場には一台の錆付いた自転車のみが置かれている。雑草が好き放題に生え伸びて、割れたガラスのビンやアルミ缶が散見される。
住人の全員が全員引きこもりだと聞いても異議を唱えようとは思わない、この。間違いなく、片柄一家が住むアパートだった。
そのアパートの階段に寄りかかる人物が、ほのかを出迎えた。日陰に入っていて判別はしづらいが。
おとなしそうなのに饒舌、と言えばまだ聞こえが良い。落ち着いて没個性的な外見とは裏腹に、口調は軽薄であり発言はえげつない。見た目への壮絶な裏切り。大多数の人間に対してと限るなら、喋らない方が印象はいいのかもしれない。
「こーんちわっ!」
爽快に右手を挙げて、ほのかは挨拶をした。
「……どうも」
しかし待積の態度はそっけない。表情と発言の不一致が待積の特徴であると思っていたほのかは、その様子に違和感を感じた。
「つみまっくん、どうかしたー?」
「その呼称。まさか俺のことか……」
「おー気に召さないって顔だね!」
太陽に向かって花を咲かせるひまわりのような笑顔に、待積はただただ圧倒されているようだった。公園で会った時はほのかに元気がなかったからまだどうにかなったものの。待積は基本的に高い調子には付いていけないのだ。真に友達のいなかった悠祈がほのかと遊べるのに、友達がいる待積がほのかと会話もままならないとは。彼の性格上、それは仕方のないことかもしれないが。
「そんで、悠祈ちゃんがどうかしたの?」
「最近、悠祈が何もなくても笑うようになってしまったんだ。心当たりとかないかな?」
それか、と。ほのかは内心、苦笑いをしていた。
好きな人がいるのはそれだけで楽しいものだ。愛しいあの人を想うと胸がいっぱいになる。考えるだけで心がうきうきしてくるほど、恋しいあの人。その恋心が、彼女を幸福にさせているのだろう。
しかし。恋心というのは大抵、秘密にしておきたいものである。いくら仲が良い兄妹とはいえ、兄に妹の色恋沙汰を喋るというのは無粋。他人から誰かに語るべきではない。
そう思い、ほのかは知らないふりをすることに決めた。
「そうなの? 友達が出来て嬉しいのかなー、私なんかでも。私も嬉しいな! そうだ、今度は待積も混じって三人で遊びに行っこうよ」
強引だとしても、ほのかは無理に別の回答を与えて話題を変えようとした。
「ほのかさんは、悠祈が基規さんを好きということは聞いてないのか」
その心使いは、徒労に終わった。
「はいぃっ? 悠祈ちゃん、喋っちゃうんだ……」
「何だ、聞いてるんじゃないか」
そんなやりとりを経て、待積はほのかに相談を持ちかけたのだった。二人は情報を交換しあった。待積も悠祈から直接その話を聞いたそうだ。
「悠祈ちゃんは本当に兄さんを好きなのかな」
「分からないよ。こんなことは初めてだからね。もっとも、俺は悠祈の交流関係を網羅しているわけじゃないけど」
「私は、悠祈ちゃんには幸せになってほしいんだ」
一陣の風が、二人の間を駆け抜けた。ほのかの長い髪が揺れる。
「だから、好きじゃないんだったら。思いなおしてほしいの」
何故かほのかは、温かい笑顔を浮かべた。それは年相応……否、大人の哀愁さえ感じさせる複雑な表情。待積はその、ほのかの表情の変化をどう捉えたのか。
「恋と愛の違いって、何だか分かるかい?」
「うーん。みんな悩むところだよね、それ。でも私には分かるよ。愛と恋は別のものなの。愛って、他の人に優しく出来るかどうかなんだよね。そして恋は、自分が人に執着を抱く気持ちなんだ」
言葉のひとつひとつに憂いが込められているようだ。
「恋には愛情なんて含まれない。ひとりよがりな感情の押し付けだよ。それに恋なんて、何種類もあるんだよ? 依存、理想の投影、恋への憧れ、欲望、寂しさの誤魔化し、とかね。なのに、誰も恋とは何かを言えないし、言わないの。恋という気持ちを否定的に捉えてしまったら、自分は嫌な気持ちを抱いていることになるから。だから『恋』なんて都合の良い言葉が開発されたのね。恋をきれいな気持ちとして捉えることで、自分の汚さを想起しないようにしている。恋とは恋、そう説明出来ないと、それはもう恋じゃなくなる。激情的なものが恋だから。代替可能な気持ちは恋と呼べないでしょ」
こんな話をしていると、今の『私』は夜の『私』みたいだ。私は私なのだから、それは当然なのだけど。そう、ほのかは思った。
「でも、私は愛がどんな感情だか忘れちゃったんだ。それに、もう恋なんて抱けないの。だからこそ、愛と恋の意味は失くしたからこそ分かったのかもしれない」
「……君はどうして。そんな考え方をするようになってしまったんだ」
「何でもないよ。理由なんて無いの」
「いや。元々の資質と衝撃的な出来事がなければ、そんな思考が出来るはずないだろ。君に何があったんだ」
ほのかは逡巡する。何をどこまで言うべきか。伝えていいものなのか。その判断基準を計り損ねていた。
語って恥ずかしい。そういう類の話ですらない。
個人情報の侵害。それも発生しない。
倫理や常識を用いるまでもなくそれは安易に語るべき事柄ではない。
「うん、そうだね」
そして、ほのかは自分の過去を語る。誰にも語ったことのないエピソードを。
自分は待積君に対しては、何故こんなにも正直に色々なことを話してしまうのか。ほのかは不思議で仕方がなかった。
ほのかが小学六年生の時。それはつまり、待積も小学六年生ということになる。それぞれクラスはA組とC組だったし、お互いにお互いを意識したことはなかった。待積はこの件には無関係なので、それは本筋に関係ないのだが。
ある晴れた夏の日。ほのかはある男子を川原へと呼び出し、愛の告白をした。相手はスポーツが得意で、顔もまあまあだった。普段はふちの太い眼鏡をかけているのだが、それを外してバスケットなどをする姿にときめいたという。
相手はほのかの気持ちに応え、めでたく交際が始まった。
ふたりの家は学校から正反対のところにあったが、下校時は相手がほのかの家まで一緒に歩いて帰った。
慎ましくも、小学六年生のほのかは付き合っていることを幸せに感じていた。
夏休みに入って、二人は近所の神社で行われた夏祭りに出かけた。分かりやすいデートだった。仲の良い友達も何人か見かけたが、ある人物は冷やかしに来て、ある人物は気を利かせて気付かないふりをした。そこで相手に買ってもらったりんご飴が食べづらくて、顔がペイントしたみたいに汚れてしまったらしい。
そんな楽しい楽しい夏祭りの帰り。両脇に田んぼがある、一応コンクリートで舗装された道。ふたりで歩いたその道には、他に人がいなかった。どれだけ話しても話したりないというように、歓談は際限なく行われる。
そうして、相手がしばらく黙ったかと思うと。急に立ち止まった。
どうしたんだろうと気になって、ほのかも一緒になって立ち止まると。背中に手を回されて引き寄せられた。相手の心臓の鼓動が感じられた。相手の顔を見ると、自分をまっすぐに見ていた。
ほのかは全てを察した。もう、言葉は要らなかった。ほのかも最初から期待をしていたのかもしれない。
そして。相手の腕が少しだけ拘束を緩め、二人の間に僅かな距離が出来る。
漫画やドラマで何度か見た通り。ほのかは目を閉じて、これから行われる恋人同士の甘い行為を受け入れようとした。
――否。そこから何かが狂い始めたのだった。
目を閉じようとして、閉じることが出来なかった。
自分を見つめている相手。その目、頬、口元。それらを見て、ある疑問が頭をよぎったのだ。
彼は本当に私を愛してくれているのだろうか、と。よぎってしまった以上、そのが解消されることはなかった。
付き合う相手は自分でなくてもいいのではないか。自分のことなんて見てくれていないのではないか。女性の唇や身体に興味があるだけではないか。友達に自慢話をしたいだけではないか。あの笑顔は私を騙す演技ではないのか。あの会話は信じてもらえるように合わせていただけではないのか。りんご飴を買ってくれたのは好感度を上げるためのものだったのではないか。川原で告白をした時からこのシナリオは計画されていたのではないか。家まで来てくれたのは私の身体を吟味するためではないのか。優しい言葉は口からでまかせではないのか。歩調を合わせてくれたのは私を逃がさないようにするためではないのか。転んだ時に手を差し伸べてくれたのは手を握りたかったからではないのか。
それは少女の些細な不安だったのか、それとも異常者の絶望的な思考だったのか。
ほのかは自分の思考に――相手への疑念に耐え切れなくなり、相手を突き飛ばした。予期せぬ出来事に対応が出来ず、相手はその場に尻餅をついた。
呆然とする相手を無視し、ほのかはその場から走り去った。
ほのかはその日を境に、相手と一方的に決別をした。
――以上が、ほのかが待積に語ったことだ。
「その日、家に帰ったら泣いちゃったの。何でこんなことになったんだろうって。もうよく分からなくて。でも、泣き終わった後はすっかり落ち着いちゃったんだ。心が静かになって、『あーあ、無駄な時間過ごしたな』って、そう思ったの」
それが公園で見たほのかなのだろうと、待積は解釈した。
「何日かはその、心が静かになることが何回かあったんだ。授業中だったり、食事中だったり。そして最近までは夜九時に安定してたんだけど、あの公園での一件でちょっとだけ不安定になっちゃったな。で、その別れの後、恋が出来なくなっちゃったの。愛ってなんだろーとか。好きってどういう気持ちだっけとか」
「でも本来なら。交際相手から口付けを迫られただけで、そこまで過剰な反応を示すはずがない。元から病んでしまえる人間だったのか、それとも考え方を教わったのか」
それはつまり。恋はきれいな気持ちであって、相手が自分に抱いているのは恋ではなく別の何かではないか。ほのかはそう思ってしまった、ということだ。
「だから、悠祈ちゃんには『本当』の恋をしてほしいんだ」
樹は見えないのに、どこからかセミの甲高い鳴き声が聞こえている。耳鳴りのようなその鳴き声も、ふたりの耳には届いていないのだろう。
「心配は要らないさ。あいつは簡単に揺らいだりしないよ」
それより、と待積は前置きをした。
「知っているかい? 人は何かを知ると変わってしまうんだ。そして、物事を知るだけ不幸になる。君は恋というものの不確定性に気付いてしまい、不幸になった」
「でも、知っていればいいことだってあるよ? おいしいケーキが売っている店を知っていれば、友達と一緒に行けるしね」
「……それはケーキというものを知らなければいい話だ。重要なのは基準さ。より正確に言うなら生活水準か。例えば蒸気機関車。作られた時代の利用が出来る人は満足したかもしれないけど、次の世代の人は思うのさ。『遅い、不便だ』とね。ある物が当たり前になってしまうと、人間はそれ以上を求めるんだよ」
待積の声はいつもより張りがないようだ。何らかの感情が意図せずに漏れ出しているのだろう。
「……悠祈はその水準をわきまえているんだ。自分の感情くらいは把握しているよ」
自分の妹のことをそれだけ説明出来るのだから、待積は悠祈のことを愛しているに違いないと。ほのかは漠然と思った。
「実は悠祈から伝言を預かっているんだけど、聞いてくれるかな」
待積は閑話休題とばかりに、話題を少しだけずらすのだった。
「伝言? メールで送ってくれればいいのに」
伝言ということは、この時間、この場所にほのかが来ることを悠祈が知っていることになる。それなのにこんなことを語るなんて、にも程があるのではないか。
「『基規さんの夏休みはいつからでしょう?』だってさ」
「お盆だから……確か、一週間後くらいだね。でも、それがどうかしたの?」
「うーん、とても言いづらいんだけど……」
時間という概念をどう捉えるかは置いておくが。時は流れ、基規の夏休みも半分が過ぎたころ。基規と悠祈は人混みの中を並んで歩いていた。
小学生と保護者で主に溢れかえるそこは、遊園地と呼べる場所であった。
ふたりは十三時からフリーパスを購入し、入場したのだ。基規は特段老けてはおらず、悠祈も年齢が判別しづらい年代とはいえ大人びているわけではないので。大衆はふたりを兄妹だと思うことだろう。
「あぁ、絶対に『大人な従兄に保護者役をしてもらってる女の子』だな。我が妹は」
ベンチに座り、遠巻きにふたりを眺めていた待積はそう感想を口にした。
「待積君っ! 待積君も隠れてよ。見つかったらどうするの!」
「『あれ、奇遇ですね。こっちもデートの最中です』とでも言えばいいんじゃないかな?」
「デートって……これはそういうのじゃないんだよ!」
ベンチの陰に隠れているほのかは、待積の言葉に少しだけ恥ずかしがった。
とは言え。いつもはジーパンを好んでくほのかは、大人しめとはいえ膝下タックスカートを穿いていた。
TPOに会わせた服装、ということなのだろう。
「何でコーヒーカップが入り口付近にあるんだろうね。あれって、そんなに人気があったっけ?」
悠祈が基規の夏休みの予定をほのかに聞いた時には、既に基規の予定は埋まっていた。それでもほのかが説得をし、どうにか休養として割り当てていた日の午後を空けてもらったのだった。それが今日であり、遊園地デートの為に使われることとなった。
――そして、ふたりの様子が気になるほのかは、待積を強引に誘い出し同伴させた。
「大体、悠祈は心配要らないって言ってるだろ。君の時とは状況が違うんだ。それとも基規さんは空前絶後の○○○ンだっていうのか?」
「だったら失望ものだけど……。いえ、だからそうじゃなくて。ふたりが付き合った時に、本当に双方が愛し合ってるのかを判断する材料にするの!」
「それで、どちらかが不純だったらどうするんだ?」
「んー……」
明確な答えを持っていないらしく、ほのかは回答がすぐに思いつかなかった。
「んーと……」
「……分かったよ。ふたりの様子が気になるって、素直に言えばいいじゃないか」
待積は待積で面倒見の良い性格をしているようだ。
しかし。ほのかが悠祈のことをどれだけ気にしようと。ふたりの関係はほのかとは無関係に進んでいく。悠祈は悠祈の、ほのかはほのかの物語を進めるのだ。だから、ほのかの行動が悠祈に何かしらの影響を与えるとは限らないし、逆も然りだ。例え何か核心に触れようとも、触れただけでは変革をもたらすには至らない可能性もあるのだ。そして、悠祈を見守ろうとしてもほのかの物語は進んでいく。人のことを見ている間に、自分の物語は進んでいくのだ。そのことを自覚しているのか、していないのかの違いは。命運を決する差ともなりうるのだ。
「ジェットコースターの列に並んでるけど、悠祈ちゃんって絶叫マシーンは乗れるの?」
「どうかな。記憶上では家族で遊園地に行った回数は一回。そのころ悠祈はまだ幼稚園だったから、絶叫マシーンなんて始めてかもな。大体、俺も乗ったことない」
その話を聞いたほのかは、当然のように提案するのだった。
「じゃあ、待積君も乗ってくれば?」
――その瞬間。待積の身体がビクッと動いた。
「……遠慮するよ。君をひとりにするのは非常にはばかられる」
「じゃー、一緒に乗ろうよ。それで問題ナッシン!」
「待て、尾行はどうするんだ。ふたりが同時にアトラクションで遊んでいたら見失うだろ」
「大丈夫だって。一回の差くらいじゃ、そんなに時間は違わないよ」
結局、待積は断ることが出来なかった。根底にある人の良さが裏目に出たのだった。
ジェットコースターから降りた待積君はとても疲弊した面持ちだった。
「様子がおかしいけど。あなたもしかして、ジェットコースターが苦手なの……?」
「……始めての奴に苦手も得意もないだろう。君こそ、心が沈んでるんじゃないのかい。テンションが落ち込んでいるようだけど」
「私の場合は楽しくなり過ぎた所為でモードチェンジしちゃったの……。それに、きゃーきゃー言うのを止めたらが隣から聞こえてくるのよ……。テンションが下がって当然じゃない」
でも、『私』の方もジェットコースターは始めてだったから。刺激的な不快さは感じたわ。特に、スパイラル状に回転して、上下が逆になったりだとか。
「……予想はしてたけど、おふたりの姿はどこにもないね。俺も一日フリーパスを買わされた時点で嫌な予感はしていたけど。もしかして君、遊びたいだけなのか?」
「何よ、見てるだけじゃつまらないだろうから、少しは遊園地を楽しんでもらおうと思ったのに。それに、元からふたりのことはそんなに心配じゃないのよ。兄さんがエスコートするなら、基本的には何も心配ないの」
「心配ないと言い切るなら、君は俺を振り回してまで何をしに来たんだ……」
それでも、気になってしまうのだ。悠祈さんの言葉には裏があるのではないかと、勘繰ってしまう。好きと思っているのか。別の理由があって兄さんと接触を試みたのではないか。
……本当に私の心は綺麗じゃないわね。
「ねぇ。せっかくフリーパスで入ったんだし、もっと遊ばない? 待積君も遊園地は二回目なんでしょ? この状態の『私』は一回目だし。良いと思わないかしら?」
「いや、君は何をしに来たんだい? 趣旨をもう一度確認したらどうかな。でも、趣旨としたことが間違っていたのなら、それを行わないのは構わないけどさ」
最初からどうでも良かったのだろう。待積君の態度はぶっきらぼうに見えた。
「じゃあ、遊びましょう」
「それで、どこに行くんだい? 遊園地のセオリーなんて知らないよ」
この遊園地は子供向けの乗り物が多い。大人向けといったらさっきのジェットコースターか、お化け屋敷しかなくなる。
……うーん、傍からは私たちの方こそカップルに見えてしまうのだろうけど。そんなことを気にしてたら楽しめないわ。この遊園地に私が楽しめるものがあるのかどうかは、分からないけど。
「お化け屋敷に行きましょう」
お化け屋敷の定番といったら、女子が怖がって男子に抱き付くことかしら。でも、現実には驚いているアクションがかわいいはずがないのよね。素、というか必死なのだから。無様な醜態をさらけ出すことだろう。私の場合、別に見せたからってどうということもない。そもそも生半可な作り物なんかでは驚かないし、驚いたとしても楽しくない。
あれ? じゃあお化け屋敷なんてどこがおもしろいのかしら。いまいち楽しみ所が理解出来ないわ。子供がお化け屋敷に行きたがるのは成長を見せつけたいのだとしても……。
そんな、それでは待積君に抱き付くしか楽しむ方法がないじゃない。
……って、抱き付いても嬉しくないし。楽しくもない。
うーん、でも。それはそれで楽しいのかもしれないわ。この無愛想な男がどういう反応をするのか気になるといえば気になるわ。
よしっ。それでいこう。
「そこにしようか。フリーパスで入れるならだけど」
私たちは移動を始めた。
今日はいい天気だった。暑さもさほど気にならないくらいだし。
この遊園地のイメージキャラクターである鳩の『ピジタン』が、メリーゴーラウンドの付近で風船を配っていた。
小学生低学年くらいの時はもらってはしゃいだ記憶があった。流石にもう風船くらいでは喜ぶはずがない。というか、『私』がはしゃげることなんて数えるほどしかないのだけど。
移動の間は終始無言だった。待積君が乗り物を物珍しそうに眺めているから、何となく話しかける雰囲気でもなかったのだ。
色々なアトラクションを横目に、お化け屋敷『』に辿り着いた。大人向けに作られたここには十人ほどの列が出来ていた。意外と少ないとも思ったが、高校生未満(15歳未満)は入場不可能らしい。
そこまで規制しておきながらフリーパスで遊べるなんて、遊園地側が収入を得られるのか非常に心配だ。
大体、外観からして拘りが人目で分かる。木で組み上げられた巨大な船。いたるところに変色や損傷があって、それがワイヤーや杭で固定されているのだ。蹴ったら倒壊しそうなほどボロボロなのに実際に触るとしっかりとしている。
「並んでるけど、どうする?」
「……君が入りたいのなら着いて行くさ」
「どっちでもいいって顔ね。どこか行きたい場所があったら行きましょうよ。せっかくなんだし」
とは言っても、私も行きたい場所なんてあまり無いから、人のことは言えないのよね。
三十分ほどかかって、ようやく船員死霊館の中へ入れた。
「暗いのね」
それが一つ目の感想だった。
明かりはろうそく型の電灯が廊下の端に設置されているのみで、足元の確認もままならない。リアリティを追求するためか、水路があって水が流れていた。軋む木の床。体重百キログラムの人間が歩いたら床が抜けるかもしれない。そして何より、壁には船員らしき死体の人形が剣に刺さっていた。
外側だけではなく、内側も雰囲気が出ていて好感がもてる作りだ。
「なんだい、この場所は。大きな標本かい」
待積君も怖がっている様子はない。いつも『学校の壁』のような無表情だけど、流石に怖いと思えばあからさまに驚くなりするだろう。
扉を開け、次の部屋へ。そこには大きな樽があり、横からぐったりとした腕が人間の腕が生えていた。
タスケテ……と、女性の呪うような声も定番だろう。
「きゃーうでよー。わたしたちもこうなるんだわー」
「快心の棒読みだね。皮肉がこもり過ぎだよ」
一般の女性なら高確率で不安になるベストプレイスかもしれない。そういう衝動を誘発する何かが、ここにはあるような気がした。私の心は、こんな場所では不安定になったりなんてしない。
そのまま通り過ぎる。たまに男の笑い声が聞こえてくるが、それも怖くない。
これでは、待積君に抱き付いてみるタイミングもないじゃないか。拍子抜けだ。
「ヴオーーーーー!」
と。
いきなり後ろから声がした。
振り返ると。爛れた肉の上から、汚濁にまみれた布を身に纏った何者かが、後ろから走ってきた。
「きゃーー!」
待積君に抱き付いた。
でも、作戦とかそういうのではなく。
本気で戦慄したのよ!
リアリティがおぞましい!
こんなのフリーパスで入れるお化け屋敷のメイクじゃないわ!
知らなかったわ。女は恐怖を感じると知り合いの男性にも抱き付いてしまうものなのね。
「僕でも女性に抱き付かれたら嬉しいけどさ、逃げようよ。俺も怖いんだからさ!」
でも、私は足が竦んで動けなかった。
待積君が引っ張ろうとしても無駄だった。
……私も無様な醜態を晒してしまう結果となったのだった。
……。
…………。
……喋るのが嫌だった。
私はお化け屋敷近くのベンチに座って、落ち込んでいた。
結局、待積君には素で抱き付いてしまって、当初の目的も果たせなかったし。きっと彼には醜い顔を見られたに違いない。いくら○○を見られた相手とはいえ、嫌なことは嫌だ。
それに怖がってしまった。お化け屋敷で怖がることはないと思っていたのに、プライドが踏みにじられた気分だ。
とにかく、ただただショックだった。
「はぁ、元気だしなよ」
励ましの常套句も、彼が言えば黒鉛くらいの意味合いしか含まれない。
どうにか顔をあげると、待積君は両手にアイスクリームを持っていた。
「ほら」
そう言って、右手に持っている方を差し出してきた。
……なんというか、こういう時はコーヒーとかが定番だと思う。こんなに落ち込んでる時にアイスクリームなんて、待積君らしいと言えば待積君らしいのかもしれないけれど。
「……ありがとう」
でも、暑いから食べた。
うん、おいしいわ。
「それで」待積君は言った。「買ってくる途中で基規さんに会ったんだけどさ」
「――ぶっ!」
驚きのあまり、アイスクリームを吹き出してしまった。
「あなた……」
いえ、突っ込みも要らないか。尾行まがいを放棄して遊んでいれば、必然的にそうもなる。
「兄さんは何か言ってた?」
「いいや、特には何も」
何もなかったの? それも兄さんらしいと言えば兄さんらしい。
「じゃ、次はどこ行く?」
「君、まだ遊ぶ気なのかい? 既に尾行している時間より遊んでいる時間の方が長いと思うけど」
言いつつも、待積君は私の後に付いてきてくれたのだった。
そう、性格や感情や思惑はどうであれ、着いてきてくれた。
ほのかと待積が遊んでいる間も、基規と悠祈は遊んでいた。
時刻は十八時を過ぎ、辺りは闇へと近付いている。
単色のペンキをぶちまけたような観覧車。そのオレンジの機体に基規と悠祈は乗っていた。お互い向かい合って座っている。
「なぁ、あんた。俺なんかと遊園地に来ておもしろいのか?」
中学生女子を相手にあんた呼ばわり。名前を呼ぶのが恥ずかしい、というわけではないだろう。
「ふふ、おもしろいですわよ。愉快で愉快で仕方ありませんわ」
密室というのならば、現状こそが密室だ。出入り口を開けたところでこの高さ。特殊な装備か類稀な身体能力がなければ脱することは出来ないだろう。つまりこれからの数分は、如何なる逃避も不可能。虐待も叱責も質問も告白も、陵辱や殺人さえも、この空間では起きえてしまう。
相手からの行動を避けたければ抵抗か自殺くらいしか選択肢はないのだ。逃亡、という選択肢も確実に存在するのだが。それこそ、この場合は死に繋がる自殺行為である。
「それはよかったよ。人の役に立てるなんて、光栄に過ぎるね」そして基規は、皮肉気な笑みを浮かべた。「それでも、むしろあんたは、遊園地なんかで楽しめるタイプの人間には見えないんだよ。何を奨めても妖しく笑うだけだしな」
「そのようなことはありませんわ。心の底から楽しんでますわよ」
そう言いつつも、妖しい笑みはそのままだった。
「誤魔化さない方が手っ取り早いぞ。あんたは俺の『仇名』に気付いているんだろう?」
「ふふ、流石は基規さんですわ。観察力もずば抜けてますのね」
こうして、会話は進むのだった。
「私も様々なレアケースを調べてきましたけど、まさか身近にいらっしゃるとは思いませんでしたわ。そうでしょう、『異常制御室』さん?」
「まだ若いのに、よくその名前を知ってるな。サイト開設当初のあんたは八歳程度のはずだ」
「その名を知ったのは去年ですわ」いつものように、悠祈は妖しく笑う。
――異常制御室。
一人にして室長。
一人故に操作者。
一人制御室。
兼任。
異常の制御。
異常者の制御。
室長たる室長。
異常にして正常な異常。
正常にして異常な正常。
異常の中での正常さ。
正常の中での異常さ。
異常故に正常の制御を。
正常故に異常の制御を。
就いた役目は操作者。付いた仇名が異常制御室室長。
つまりそれが異常制御室。
異常も正常も操作し、一人で一室分の制御量を誇る。
「だが、サイトはたった三年で閉鎖している。その名前に行き着くはずがないだろう」
「貴方はとても激しい活躍振りをしたそうで、その点はもう少し自覚をなさった方がよろしいのではないでしょうか?」
その笑いは、どこまでも相手の心理を見透かしているような。そんな余裕を感じさせるものだ。
「残念だけど、違うね。皆が皆、大胆な勘違いをしてしまうんだ。俺は管理人をしていただけで実質の運営はもう一人の奴がやっていたんだ」
基規の表情は、とてもつまらなそうで。くだらなそうで。廃りそうだ。
「それでも、貴方もコメントをなさったのでしょう? そう。自身が管理する自殺系サイト『異常制御室』。その参加者を悉く――希望に満ちさせる、くらいには。コメントをしていたはずですわ。その時のネームは、『室長』ですわよね」
サイトの名前自体が、その住人達から送られた称号。たとえ管理人だとしても、珍しい事象だろう。
それ程までの、偉業。
それ程までの、存在。
「大したことじゃない。人間ってのは言葉の上だけならどうとでも偽れる。ネット上でなら、子供だって自衛隊員と偽ることも可能でね。もっとも、それ相応の知識がないとすぐにばれるけどな」
きしりと、僅かに観覧車が軋む。
「ご謙遜なさっても誤魔化せませんわ。基規さんのしたことは、虚言や詭弁でどうにかなることではありません」
悠祈は如何なる矛盾をも見逃さなかった。
「牧師のように導き、悪魔のように誘う。誰も彼もが制御され、誰も彼もが従い尽くす。異常制御室の操作者。一人が故に兼任室長。異常は彼の独壇場。操作をすれば明確な解決。それが異常制御室の代名詞、室長。ですわよね」
「どうにしたって、昔の話だ。いまさら異常制御室が俺だからどうした。どいつもこいつも、くだらないことで俺を呼び出して。身体も命もひとつきりだってのに――忙殺させる気か? 用件は何だ。もしくだらないことだったら、片柄一族との交流を今後一切拒みたい気分になるかもな」
「まさか、くだらないなんて。……異常制御室、私の伴侶にふさわしいと思いますの」
悠祈の頬が薄桃色に染まる。だが、相変わらずの妖しい笑み。
言葉と同じく、人間は表情も偽ることが出来る。感情が表情に表れるなんていうのは、場合によっては当てはまらない。片柄悠祈の兄、片柄待積が常時無表情であるように。悠祈自身は、感情がどれだけの割合で顔の筋肉に影響を及ぼすのか。それは、もしかすると。本人でさえも分からないのかもしれない。
ともあれ、頬への血流変化によって感情を判断することは。この場合に於いて正しいのかどうかは不明確だ。そして悠祈が常時浮かべる妖しい笑みが、意図的か無意識かさえも、誰も分かりようがない。
「結婚を前提にしたお付き合いを申し込みたいのです」
「あんた……もしかして自分がだと思っているんじゃあないだろうな」基規が真剣な面持ちとなる。目つきが変わっていた。かつての、異常制御室としての目つきへと。「自分と結婚をしても幸せになれるような人間は、同じ異常者だなんて、思っていないだろうな。そうだとしたらやめておけ。俺はそっち側じゃあない。それに、あんたは自分というものをしっかり持っている。持ち過ぎなくらいだ。うまく演技をしていれば、ぶれることなく安定した生活を送れるはずさ。能力も決して低くはない。そのくらい容易いだろう」
「ふふ、安定した生活ですの? もしもそれが愚民の中に埋没することを示すのなら、くだらないにも程がありますわ。ご安心ください。無粋な意味など含まれていませんわ」
基規と悠祈が乗った機体は、とうとう頂点にまで達した。遠くに見える川の流れや、照明を点けたビルの様子。それらの景色は、二人にとってどれだけの価値があるのか。
「純粋に、貴方に惹かれただけですわ」
「恋ではないんだな」
基規は言葉のニュアンスを定めようとした。
「恋! ほのかさんからレクチャーを受けてきましたけれど、それなりに納得の解釈でしたわ。クラスメイト達が恋だのと騒いでいるのを理解に苦しんでいましたけど、幻想の塊であり無条件の肯定願望だと思えば説明は出来ますの」
「問題ないとはいえ、あいつもあいつで複雑だからな。そのくらいのことは言うだろうよ」
ほのかの事情をどこまで知っているのか。基規は、妹のことを問題ないと評した。異常制御室が問題ないと言い切るからには、何かしらの根拠があるのだろう。
「だとしたら、私の恋は興味を持てるかですわ。貴方のことが気になって仕方がありませんの。異常を冠する正常が、如何なる者なのか」
「……」
基規はそこで言葉を返さなかった。八秒の黙考を経て、ようやく口を開く。
「分かったよ。あんたも頑固そうだ。付き合うことは出来ないけれど、一ヶ月に一回くらいなら遊んでやるよ。連絡先を教えてやる」
そのあっさりとしていて曖昧な返答に、悠祈は悲しむでもなく喜ぶでもなく――さながらエメラルドが輝くように、ただただ発声をする。
「私に対しても、甘さで接するのですわね」
「…………」
基規は今度こそ、言葉に困った。――異常制御室が、女子中学生に困らされた事実。
「妹さんはそれなりに貴方を敬愛しているようですけれど。もしかして、貴方は妹さんに対して甘さで接してはいませんよね。そんな残酷で不誠実なことを、まさか――」
「……参ったな。女子中学生を相手に本気トークなんて。俺はいくつ若返ったのかね?」
基規は再び、皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「自意識過剰、って訳でもないんだが。接し方を間違えるとほのかから惚れられる可能性があったのさ。露骨な優しさを見せたら危険だった。だから抱かれる感想を僅かばかり操作していたんだ。どうも俺は、そっち側の人間からすると同族にも見えるらしい。それが『異常の中で正常な異常』である所以、かもな。目に見えて病んじまった奴なんて、周りにそうそういるはずがないからな」
観覧車も四分の三を経過し、そろそろ地上へと降りる時間だった。
「……ほら、これが俺の連絡先だ。家のも控えとけ。固定電話の方が安いからな」
悠祈は予定帳のアドレス欄にメモをした。
「基規さん、お慕いしてますわよ」
「へぇ、そうか。二十三の俺でよければ十六のお前をもらってやるよ。魅力的な女性に成長すればの話だがな」
「ふふふ、当然ですわ。積極的に結婚を申し込まれるくらいには、魅力溢れる女性になりますのよ」
もう少しで二人は、観覧車から降りることになる。この一周、二人はそれぞれ何かしらの感慨くらいなら、抱いたのかもしれない。
お互いに何も変わることは、出来ないのだけれど。
帰りの電車の中では、楽しくもつまらなくもなかった。
電車で六駅ほど移動し、私と待積君は駅に到着した。ここからだと待積君の家の方が近いのだが、二十分もかからない道のりとはいえ夜道は危険だからと、送ってくれるそうだ。
……でも、というか。なんというか。待積君、全体的に女性の扱い方を知らないのよね。ドラマや漫画で見た言葉や行動をそのまま鵜呑みにしている感じで。別にそういう甘ったるいことがしたいようには見えないから、どうしても違和感は残る。
「今日は楽しかったよ。僕にはもったいないくらい、ね」
今の一人称は僕のようだった。本当に掴みどころがないわ。
「私も楽しかったわ。久しぶりの遊園地だったし」
午後からとはいえ、思いっきり遊んだわ。私が好きなアトラクションは人気がなかったから、降りて五分くらいでまた乗れるのよね。一時間乗り降りを繰り返して、係員の人は顔を覚えてしまったと思う。待積君は、すぐに疲れてしまって、途中に休憩していたけれど。最後の方にはまた参加してくれたわ。
「それで、二人のことは見ていなくてよかったのかい?」
「いいのよ。入場直後までは尾行なんてしたけど、自己満足にしかならないって気付いたのよ。様子が気になっていただけで、寂しいようでも、最終的には本人達の問題なのよね」
どんなに口を挟んだところで、部外者では大した影響力を持たない。当人達が熱い気持ちを持ってしまったら誰にも止められないのだ。どんなに間違って歪んでいたとしても、それは絶対条件だ。兄さんに限ってそんなことは有り得ないと思うのだけれど。
「もう少し話していきましょうよ。この辺に小さい公園があるのよね」
「暗いのに公園でお話かい? 君が話したいのなら、付き合わせてもらうさ」
そんな口振りにも、不快感は抱かない。
少し歩くと、小さな公園が見えてきた。家一軒分のスペースに、滑り台と鉄棒とベンチが設置されているだけの、フェンスで囲まれた簡素な公園。そのベンチに座る。公園内を照らすのはベンチの脇にある街灯ひとつきりではあったが、狭い園内はそれだけ十分だった。
「それで、何を話すんだい?」
「たまにはあなたが話してよ。何か面白いことないの?」
「僕が面白いと感じることなんて、一般的な趣向を持つ人類には付いて来られないからね。語ったところでどうにもならない、と思うけどさ」
そう言いつつも、待積君は話をしてくれた。一応、くらいには思ったのかもしれない。
「先月辺りに、本を買いに行ったんだ。それで色々と見て回ってたんだけど、パソコンの本を読んだのさ。パソコンなんて持っていないのに、ね」
それは……もしや、それがオチ?
なんてことはなく、話は続くのだった。
「そこで『懐かしいゲーム機の処理能力で現代のゲームをしてみた!』というフリーソフトがあってね。本に書かれたレビューを見てみたのさ。……どうしたと思う? 通常の何十倍もの時間をかけて画面が動いていって、ほとんどのゲームが処理不能でエラーになるのさ。見所といったら『何秒でエラー表示が出るか』らしいけど」
「…………」
何だろう。待積君は何が言いたいのか、どこが面白いと思ったのか全く分からないわ。
「それが面白かった……のね」
「若干、だけど」
「…………」
……へぇ。
「そういば君。今日は一段ときれいだと思ったら、もしかしてメイクをしているのかい?」
「気付くのが遅いわよ」
そう言いつつも、きれいと言われたことは素直に嬉しかった。相手が待積君でも。もしくは、待積君だからこそ、なのだろうか。
「普段はこんなにメイクなんてしないのよ。安くないしね。デートじゃないにしても、あなたも一緒に行動する女の子はかわいい方がいいでしょ? 『私』が半ば強引に付き合わせたんだし、その分のサービスよ」
「サービス……ねぇ。こんなにかわいい娘が隣にいたら、それは確かに嬉しいのかも知れないけど」待積君は夜空を見上げた。街灯が近くにあるから、星は見にくいかもしれない。「……でも容姿なんて、それなりで充分さ。大事なのは中身だからね。どんなに美人でも――中身が残念だったら受け付けない。それこそ、潔癖なほどに、ね」
それは、その台詞は。まさに待積君らしい。ちぐはぐで、無機質な。
「だからこの場合、かわいい娘が隣にいるから嬉しいのではなく。隣にいるのがかわいい『君』だから嬉しい。ということさ」
何を言ってくれるのかしら。気でも触れたの? 待積君の軽薄さが揺らいだような気がした。
……一瞬、ドキッとしちゃったじゃないっ!
「はぁ。あなたも好みの異性の話なんて、出来るのね。それも異性に」
今の動揺くらいは、どうにか誤魔化せたかしら。
「と言うよりも、僕にとってはになってくるからね。どうしようもない、どうでもいいことさ」
だとしたら。どうなのだろう。
「……じゃあ」
言葉が、勝手に出てくる感じだった。想いが、勝手に私を喋らせる、そんな錯覚。
止めようとしたら止められたのかもしれないけれど、どうしてか止めなかった。
「」
それは、唐突な告白だった。
潔癖症である私の、恋をきれいなものとして扱わない私の――私からの、告白だった。
確かにここは二人きりの公園だけれど、それは意図したことではない。本来ならば雰囲気に気を使うところだけれど、そんな悠長にしてはいられなかった。
ここではない、あの国道沿いの公園で会話をした時。義務的なくせに優しそうな、ちぐはぐさが気になった。それに大人っぽいというわけでは決してないのだが、多少偏っていても落ち着いた雰囲気が好感を持てた。文句は言わないけど罵倒はして、結局は私の話を聞いてくれた。それが妹が関わっている可能性が高かったからだとしても。そうだと決め付けず、別の事件である可能性を考慮して、ちゃんと私の話を聞いてくれた。それに。緊張じゃないにしても、女の子に対して不器用なところが、元々の性格とのギャップがあってかわいらしい。話していて楽しいということは少ないけれど、安心感のある、包容力のある相手だった。根がしっかりしていて、落ち込んだら支えてくれそうで、頼りがいのある男の子だった。
何となく、ではあるけれど。私は待積君のことが好きになっていた。
いえ。好きだということには、好きだと口にした瞬間に気付いた。
普段はクラスの男子と話したりなんて殆どしないのだけど。というか、感情が見え見えで気持ち悪くなってくるのだけど。待積君とはすんなりと話せたし、むしろ無意識にプラス評価をしていた。最近は会う度に気分が高揚して、気が付くとどきどきしていた。
「待積君が好きなの。付き合ってください」
愛の告白をされて、吐いたこともある私だけど。人生二回目の告白なんて真似をしている。
成長か。それとも――繰り返し、か。
「そう」待積君は、私を見た。
今日は月がやけにはっきりと見える、幻惑の夜だった。
「それは、ありがとう」
待積君は私を焦らす。本人にその気はなくとも、私は、焦らされたのだ。告白の時ってそんな感じだ。
「でも」
――でも。
それは、否定を意味する言葉。希望的な予測の余地がない言葉。
「君は、本当に僕が好きなのかい?」
「ええ、好きよ」
「――違うね」
「……君が感じているのは恋愛感情なんかじゃない。さ」
……同族。
「今までの君は猿の中で生活している人間みたいなものさ。相手の言葉や心は、なんとなく予想は出来ても、完全には理解し合えない。そんな時に、同じ人間に会えて、興奮しているだけさ。つまりそれは好きという気持ちではなく、単なる親しみの念でしかない。そして嬉しさ、それだけさ。もっとも、猿に恋をする人間もいるかもしれない、けどね」
その言葉に、私の気持ちは……揺らいだ。
恋に疑問を感じた私は、何度も確認をして、ようやく待積君が好きだということを確信した。
だとしても、それを言われると疑念が生じる。
――同族意識。
それはしたことのない解釈だった。友達と遊んでいる時。楽しくはあるけど、どこかで考えが合わないと思ったことも何回かある。それは人間として当然だと思っていたけれど、何か他の要因があったのだろうか。
「恋愛対象以前の恋愛対象候補と初めて出会った、くらいの。些細な出会いさ」
それが悠祈ちゃんの言っていた『仲間』だとしたら。遊園地に行っちゃったのも。悠祈ちゃんが気になったから、だというのかしら。正解だとは言えないけれど。あながち間違いとも、言い切れない。
もしくは、待積君とデートをするための口実――とでも言えばいいのかしら?
だとしたら、あんなに急なペースで待積君のことが気になっていったのも頷ける。
頷けてしまうのが、とても――嫌だった。
「でも、僕なんかを好きだなんて言ってくれてありがとう。初めての告白は嬉しかったよ。それに勘違いだとしても、人のことを素直に好きと言えるということは、君はまだやり直せるさ」
待積君は立ち上がった。
私は、動けない。
「君の家も近いし、ここでいいかな? 何、大声を出せば駆けつけるさ。じゃあ、さようなら」
待積君は躊躇いなく、歩き去る。
告白してしまえば、物事は意外とあっさり終わるのだった。
何も言えず、抗えずに、なすがまま。
恋が自然に出来ない私は、疑念を解消出来なかった。自分の恋か否かが、判別出来なかった。
気が付くと、涙が頬を伝って滑り落ちていた。
これが失恋の悲しみによるものなのか、それともによるものか。それさえも分からなかった。
ほのかさんの前から立ち去ったけど、呼び止めはされなかった。
少し寂しい気もするけど、それでいいはずだ。それが一番いい。
……さっき受けた愛の告白。何だかんだ言ってうやむやにしてしまったけれど――彼女の想いは本物だろう。同族意識なんて単語を使ってはみたけれど、確かにそれもあるのだろうけれど、恐らく彼女の恋は本物だった。
それに気付いていながら何もしない僕は、鈍感よりも醜悪な罪悪だ。鈍感は無常な残酷だけど。
だが気付いたところで、どうしようもない。ほのかさんは絶望の道からはまだ引き返せる。恋なんてものが出来るんだから、きっと大丈夫さ。
だとしても、相手が僕なんかではいけない。感情なんてもう半分も機能しなくなっていて、喜怒哀楽の感覚なんてとっくの昔に磨り減ってしまった、僕なんかでは。
否定されて、陵辱されて、冒涜されて。固定や強制を受けてきた、僕なんかではいけない。
嬉しいと思える心はくたびれて、怒りを諦め殺すことには慣れ、哀しい出来事は日常的な陰鬱には勝らず、楽しみと依存の境界線は消失した。
にも関わらず、今更そんな僕に対して恋だって?
異性との交際を重要視する奴らの気持ちなんて、正直分からない。
それ以外の人間の気持ちも分からないけど。
本物の愛よりも、幻想や恋愛の雰囲気を求める人間を、どうして普通なんて言わなければいけないんだ。
くだらないね。くだらな過ぎて、くだらない。
つまり、そいつは生物としての性質から抜け出せない訳さ。せっかく知能を持っても、することは他の生物と変わらない。
――本当に、気が滅入るじゃないか。
そんなのは、生きるために生きているのと変わらない。
……ただ。
それは恋や愛を色欲として見た考え方だ。
人間は欲求や感情の他に、本物の愛というものを手に入れているのかもしれない。それが発現するかどうかは人それぞれだろう。
彼女は、もしかしたら本物の愛を手に入れたのかも知れない。
でも、ここまで壊れた僕なんかと付き合っても、幸せにはなれない。――いや、見せ掛け上は幸せになれるのかもしれないけれど、それは一般的な幸せからほど遠い。
――愛している人間が愛されないなんて、そんなことがあっていいはずがないのだ。
全てとは言わないけれど、ある程度なら彼女が可能性はあるのだ。こんな嫌悪感や無為な世界から抜け出せる、可能性が。
彼女を『普通』に帰すのが、僕の試練だと。出会った時に確信した。
だから、僕は彼女とは付き合えない。
「……若ぇよな」
ただ、告白されるのは嬉しかったような――錯覚を覚えた。まぁ、どうでもいいけど。
もしかしたら僕は彼女のことが好きなのかもしれないけど、僕には分からないことだ。
それも、どうでもいいことだろう。