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四章 甘い愛

 一ヶ月ほどが経ち、学生は夏休みに入った。八月の日差しはなおもアスファルトを熱くさせており、命の恵みである太陽に対して恨みを抱く者も少なくはないだろう。

 だが、たとえ気温が四十度まで上がろうと問題ではない。もしオゾン層が消えれば、生体破壊性の強力なUVCを浴びることになるのだから。それに比べれば、体調管理をすれば生活出来る程度の気温変化など、恐怖にはなりえない。

「悠祈ちゃんは何にする?」

「まだ決めていませんわ」

 しかし彼女達がいる場所では、熱中症で倒れる心配はないだろう。

喫茶店である『早々家』、その店内は冷房が利いていてに溢れている。静かに流れるクラシックの音楽が手軽な高級感を醸し、いい雰囲気を出していた。

「アールグレイティーにしましょう」

「ケーキは食べないの?」

「ケーキ! 今日は私のお誕生日ではありませんわよ」

 驚いた時でさえも、悠祈は醜さを欠片も出すことはない。優雅にして気品の漂う彼女だった。

「…………」

「いかがなさいました、お姉さま?」

「何でもない。注文するよー」

 そして、ほのかは店員に注文をした。そして店員が去った後、悠祈はほのかに質問をする。

「このお店の名前は、どう読むのでしょう?」

「さはやや、って読むのー。かわいいでしょ」

「ネーミングセンスが真に皆無ですのね。そんな茶屋がお湯を沸かすことなんて出来るのでしょうか」

 あの公園での一件が終わった二日後。どうやら話がしたかったというのは嘘ではないらしく、『妹が友達になってほしいと言っているよ。』と待積から連絡を受けていた。一方のほのかは公園で縛り付けられたことなど全く気にせず『望むところです、いつでも遊びに来させてください』と返事をした。

 その週の日曜日にカラオケに行って二時間歌った。悠祈はその日には、ほのかのことをお姉さまと呼んでいた。

 更にその二週間後には、ボーリングに行った。一ゲームのみだったが、悠祈とほのかはおもいきり楽しんだようだった。

 そしてこの三回目。

 いずれも悠祈とほのかの二人きり。深奈や待積、癒真奈に篝。誰を誘うこともしなかった。ほのかは特に深奈を誘うことを提案したのだが、それは悠祈に却下された。悠祈は二人きりを望んだのだ。

「そういえば、待積君って休日は何をしてるーの?」

「通常はアルバイトか読書をしていますわ。たまに私と図書館に行ってくださいますし、一ヶ月に一回くらいはお友達のところへ遊びに行くこともあるそうです」

「友達かぁ。あんなことを言っていても、やっぱりいるんだね」

 ほのかは意外に思ったが、あの待積を友達と出来るのがどんな人物なのか、興味をそそられる部分はあった。

「もしくは、彼女さんだったりして」

 ほのかは楽しそうに言ってみた。

「それはありませんわ。お兄さまはまだ誰とも交際をしたことはありません」

「ん? 何で分かるの」

「私のお兄さまが、女性と交際するはずがありませんの」

「…………」

 その言葉に、ほのかは泥色の困惑に陥る。悠祈ちゃんはブラコンなのかなー、だとか。待積君はBLなのかなー、だとか。様々な想像を働かせてみたが、真実は分からなかった。

「それに、そのお友達は一度お会いしたことがありますの」

「どんな人だった?」

「とにかく不愉快だったので、私は席を外しましたわ。と言っても、家を出て図書館に行っていたのですけど」

 悠祈はただ不愉快と言うのみで、その人物について語ろうとはしなかった。

 しばらく他愛もない会話を続けていると、ふたつの紅茶とひとつのケーキを店員が運んできた。

「あら、ほのかさん。本日はお誕生日ですの? そうとは知らず、お祝いが遅れてしまいましたわ」

「違うよ……。どうかな、半分こしよっか」

「――っ!」どうしてか、悠祈は動揺を隠せなかった。「いけませんわ。そのような、甘いものはお好きで、誕生日はまだ先で、甘い時間を、そんな、いけませんわ」

 ほのかは、悠祈が動揺する理由が分からなかったが、それでもケーキが嫌いでないことは分かったらしい。フォークでマロンケーキを半分に割り、悠祈に差し出す。

「まあまあ、食べてみなって。おいしいっすよ」

「……はい」

 悠祈とほのかは紅茶をすすり、ケーキを食べた。

 素朴に彩られた、どこにも障らない時間。平和な時間。ゆったりと時は流れ、楽しむために時間は消費される。

 友達がいなかったという彼女は、この時間をどう評価しているのだろうか。

 友達が出来なかった、のではなく。敢えて友達を疎んじた彼女は。どうして今になって、ほのかと友達になろうと思ったのだろうか。いかに『潔癖症』とはいえ、していることは大多数の人間と同じだ。大量殺人の計画を立ててなどいないし、宇宙人を呼び出す方法を模索しているわけでもない。何気ない会話をするだけ。相手が相手とはいえ、『普通』というものに属されるそれを楽しいと感じるものなのだろうか。

 その是非は定かではないが。しかしこの日、この喫茶店で、彼女は動き出した。

 ケーキを食べて一息吐いたところで、悠祈は切り出したのだ。

「今日はお姉さまにお話があります」

 その言葉に、ほのかは考えさせられた。

おはなし? 話ならさっきからしているのに、今更何を言ってるんだろう。でも、わざわざそう区切るということは、何か重要なことかもしれないな。うん、何かの相談かもしれない。よし、お姉さんらしく相談には乗ってあげなくっちゃ。

そこまで考えて「何かな」と積極的に話を聴く姿勢をとった。

「実は……」悠祈は何を思ったのか、白い頬を微かに赤く染めた。「私、貴女の兄――基規さんが気になるのです」



「――え?」

 思わず、『私』が出て来てしまった。

 時間以外で変質が起きるなんて、相当な驚愕具合だ。

 別に本性がこっちで、無邪気なのが仮の姿ということではないのだけど。

しかし、なんだろう今の衝撃は。沸騰して凍った熱いお湯で叩かれた、みたいな衝撃は。驚嘆の域から逸脱をしている。

「それはどういうこと? 気になるって、まさか」

「その通りですわ。基規さんを異性として意識していますの」

 それはつまり、兄さんが二十一の年で、悠祈さんが十四の年だから……。

「約七歳差じゃない……」

 小学二年の時に、兄さんが深奈ちゃんにバレーボールを教えているところを思い出した。とは言っても、ボールはソフトバレーボールを用いてのものだったが。その時の私は小学四年生で、兄さんは中学三年生だった。当時の私は、兄さんがもう大人に見えていたし、遊んでいる深奈ちゃんと兄さんは兄妹らしい兄妹には見えなかった。逆に言えば親子に見えないこともなかった。

 今見れば、七歳差くらいでは親子に見えはしないのだろうけれど。当時の八歳だった深奈ちゃんと同じ年の子が、当時の十五歳だった兄さんと結婚……まで行かなくとも。付き合っているのを想像してしまうと、それはもう信じられないことだった。信じられないどころか、終始信じてはいけないことだ。七歳の差は大人になってしまえば大した差ではないが、それでも、戸惑ってしまう。

 特に、友達がしばらくいなかったという彼女が、こんなに早く交際を……?

 これは…………事件だ。

これを『事件』と言わずして何と呼称しようか!

「だっ。それは問題よ。いえ、付き合うのは問題じゃないのだけど。兄さんはロリコンじゃないし……それは分からないけど、だけど。私より若いどころか深奈ちゃんと同い年だし! むしろ犯罪になるわ」

「犯罪? 男女が交際することが犯罪ですの?」

 悠祈さんの目が如実にきょとんとしている。

 ……確かに、犯罪ではない。

「でも、悠祈さんが兄さんと結婚してしまったら、私はもう『お姉さま』ではなくなるのよ? むしろ、悠祈さんが私のお姉さまに……」

 錯乱も極まり乱れ咲き。私は何を言っているのかしら。

「大丈夫ですわ。お兄さまとお姉さまが無事ご結婚を果たせば、お姉さまはお姉さまのままですの」

「……っ!」

 今度は、ばらばらに砕けた月が流星群となって地球に落ちた衝撃で地響きが起きたかのような錯覚をした。月が丸々堕ちてきたとき、空気摩擦でどのくらいの大きさになるのかは知らないのだけど。

 いつもなら『誰々が好きなの』という会話は、人間の欲望が渦巻いているのが目に見えるくらい濃密だから、嫌悪感を抱くものだけど。

今回は例外だ。

例外中の例外だ!

 悠祈さんの存在が綺麗に過ぎる、というのも嫌悪感を抱かない原因のひとつかもしれないが。荒唐無稽な内容の割に威風堂々と語るものだから、聞いてる私の感想も支離滅裂となってしまう。

「そそそんな。何を言っているの?」

「何って、お姉さまはお兄さまのことがお好きなのでしょう。私が『お姉さま』とお呼びしているのは、それがひとつの理由ですのに」

 悠祈さんは多分、意識的に微笑んでみせた。

……嫌に余裕のある笑みだ。

「でも、本当に兄さんのことが好きなの?」

 これは訊いておかねければならないことだ。

「ええ、私は基規さんのことをお慕いしていますわ」

「でも、恋なんてものは幻想のかたまりでしかないのよ」言うしかないのだろうか。「そして、色欲を肯定するための都合の良い解釈ね。子供だとしても、その欲求自体は沸いてくるものよ」

 例え中学生が相手でも、知り合ってしまったら道を間違えさせることは出来ない。どんなに空虚な人間にさせてしまっても。

「好きという気持ちもその一環でしかないのよね。要は、欲求なの。そして二次的なこととして、好かれたいという孤独への恐怖や、相手への依存、付き合っていることをステータスとして考える人達もいる。自分が好きでいても、相手は自分を見てくれないかもしれない。その相手は自分自身しか見ていないかもしれない。――それでも、誰かと付き合いたいと思うの?」

 人と人が触れ合うとき、利害というものは必ず発生する。得なこと、損をすること。しかし、利害や損得を超えた関係こそ、真の愛情だと思う。というのは、少々きれいごとが過ぎるだろうか。

「ふふふ」悠祈さんは笑う。おかしそうに。愉快そうに。笑う。「貴女はお兄さまに似ていますわね。思想原理は別だと分かっていても、おかしいものですの」

「そう」

 でも、私はただひとりを除いて、人の愛し方を忘却してしまった。愛情の注ぎ方に違和感を感じてしまった。

 友愛さえも利己的で、友達は隔絶された他人でしかない。

 友達と遊んでいるときは楽しいとは思うのだが、そこになんらかの愛情が有るとは言い切れない。

それは寂しいことだ。

「では、基規さんの情報を聞いてもよろしいですか?」

「ええ、プライバシーに関わること以外なら」

 でも、どうしよう。兄さんと悠祈さんの恋。応援すべきか、止めるべきか。

 私は、自分の立ち位置を決めかけていた。



 喫茶店から無事に帰宅を果たし、時刻は十七時を過ぎた。夏休みでも両親と兄は仕事なので、私は夕食を作らなくてはならない。だが、今の『私』は料理を作ることに不安を隠せない。二重人格でもないのにおかしな話だ。原因不明だからこそ、私の中に変質が生じる、なんて表現を使うのだが。

 しかし、いつも『私』は料理を作っているのだから大丈夫だろう。別人ではないのだから、この身体で覚えたなら使うことが出来るだろう。不安になるのも、以前、夜食を作ろうとした時に酢と間違えてオリーブオイルを入れてしまったのが原因だし。一回中の一回。不成功率は百パーセントでも、二分の一に過ぎない。気にすることはないよね。

「よしっ」

 気合を入れて、洗面所で手を洗う。念入りに、ハンドソープで。

 泡の立ち方が、いつもと違う。

 …………おかしい。

よく見ると、私はシャンプーを手に付けていた。

「…………」

 何だろう、この茶番は。

 あらかた、誰かシャンプーが切れかけているから、切れたときに使おうと思ってその辺に置いておいたのだろうけど。

 それにしても、定位置のハンドソープではなく。台の上にあっただけのシャンプーを使ってしまうなんて。いつもの私では有り得ない現象だ。

それほどの不安なのだろうか。

ハンドソープとシャンプーを間違えるほどの不安なのだろうか。

 どうにしても、幸先が悪すぎる。我ながら不吉な予感しかしなかった。

「どうにかなるよね……」

 やめておけばいいのに。しかし、私の意志は揺るがなかった。ハンドソープで手を洗い直し、調理に入る。

 まずは米を炊く。炊飯器の釜に米と水を入れ米を洗う。白く濁った水を捨て、再び米を洗う。それを数回繰り返すと水の濁りが少なくなってくるのだ。そうしたら水を適量入れ、炊飯器にセットし、ボタンを操作すれば終わりだ。後は時間を待つだけ。

 ふふふ、私はやれば出来る子よ。

 私は昨日から肉じゃがを作ることに決めていた。

 牛肉、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、糸こんにゃくを切り、油を敷いた鍋に入れた。数分して砂糖と醤油とみりんで味付けをする。そしてぐつぐつと煮込む。

 これで大丈夫なはずだ。何も間違ってはいない。たとえ順序が少し違っていたとしても、間違いのうちには入らない。最終的に食材が食べられれば問題ない。

 調理を始めてから、おおよそ一時間。うん、完成だ。

 試しに、皿に載せてみることにした。

 あれ、玉ねぎはどこだろう……。

 みじん切りにしたから溶けてしまったのだろうか。

 あぁ、そういえば。肉じゃがって、外国でビーフシチューを食べた人が日本の料理人にどうにか作らせようとして出来たんだったよね。

 …………。

……それで、これって失敗なのかな?

 玉ねぎを入れたのになくなってるのは、嫌と言えば嫌だけど。失敗のうちには入らないかもしれない。

 その他の食材はちゃんと形があるしね。

 大丈夫大丈夫。

溶けてない、溶けてない。

 砂糖もちゃんと溶けてないし。

 …………。

 ……………………。

「がーん」

 自主的にその場で崩れ落ちる。

 いくら私でも、こんな規格外な量を入れてしまうなんて。

いつも『suger投下!』などと唄ってるから、気分で放り過ぎたのかしら。

 それとも料理の神様に嫌われてしまうの?

 今だけは昼間の私と今の私が別に思えてしまう。隔絶された意思を持っていると錯覚してしまう。

 そんな筈はないのに。

 溶けると思ったのにぃ……。

…………。

このおやつ、どうしようか。

 ……深奈ちゃんに相談してみようかな。

 迷ったのは一瞬で、私は深奈ちゃんの部屋を訪れた。

「深―奈ちゃん、元気かなー」

 深奈ちゃんは中学指定のTシャツに、下は学年カラーの青いジャージ。靴下は履いていない。そんな格好で机に向かって、本を読んでいた。ということは、午前中は部活だったのだろう。

「あ、お姉ちゃん」深奈ちゃんは振り返ったけど、私の顔を見るなり不思議そうな表情を浮かべた。「……どうしたの? 笑顔が引きつってるけど。『舞踏会に行ってみたら王子様が噂ほど格好良くなかったけど、友人にはそんなこと言えないわ』みたいな顔してるよ」

「そう、どーかなー……」

 その比喩は分からないが、もう少しで『私』が露見しそうなのは確かだ。

 何でいつも『私』は自然に無邪気に笑うことが出来るのだろう。

 『私』には何も無いのに笑うことなんて出来ないのに。何で昼間の私は何の疑念も抱かずに笑いかけることが出来るのか。

「必要以上に明るいお姉ちゃんも不自然だけど、不自然な明るさのお姉ちゃんはお姉ちゃんじゃないんだよ」

 でも、これは逆に。用件を切り出す良いきっかけだ。

「実は肉じゃがを作るのに失敗しちゃって、ちょっと手伝ってくれないかな……」

「えー! お姉ちゃんが!」

 深奈ちゃんは手に持っていた本を机に落とし、更にバウンドして床へと落ちる。タイトルは『筋肉の動かし方』だった。汗も流さず本を読んでいると思ったら……アスリートにでもなる気なのだろうか。

「うーん、私で役に立つかどうか分からないけど。手伝うよ」

 一度驚いた理由は謎のままだけど、それは置いておこう。とにかく時間がないのだ。

 二人で台所へと降りた。

「何これ。……作品名は『砂浜』?」

「肉じゃがだよ……」

 そんな否定も虚しかった。

 何を言われても否定が無意味に感じられた。

「じゃあ、途中でお菓子作りをしている夢を見てたの?」

「……もうそれでいいわよ」

 否定する気力も失われた。

「これを食べられる物にしてほしいのかあ……? 出来るかなぁ」

 そう言いながらも深奈ちゃんは作業を始めた。

「考えてみれば、毎日晩御飯を作ってもらって。疲れちゃうよね。明日は私、部活が休みだから。晩御飯は私が作ってみるよ」

「……じゃーあ、おー願い」

適当に長音を雑じらせて言って見た。

 そういえば、深奈ちゃんの手料理って食べたことないな……。何が作れるんだろう。

 深奈ちゃんは溶けていない砂糖を取り除いて、醤油を大量に鍋の中に入れた。

それだけで、何もしなかった。

「これでいいの?」どうなんだろ。甘いものがしょっぱいもので中和されて、結果として元に戻る……のかな。「深奈ちゃん……? お姉ちゃんはすごい不安だよ」

「うん、やっぱり駄目かなぁ」

 深奈ちゃんは何がしたかったんだろう。

「うーん、どうしよ」

 もう彼の登場を待つしかないのだろうか。

 我らが長男、小石基規兄さんに。

 お鍋を放置し、居間でくつろいで兄さんの帰りを待っていた。ちなみに、深奈ちゃんは部屋に戻って読書の続きをするということだ。

 そして十分ほど経過し、兄さんが帰ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさー」

 またもや適当に長音を付けてみた。これでどうにか誤魔化せないかな。何もかも。

 私は兄さんを台所に連れてきた。

 鍋の中の肉じゃがを超越したものを見た兄さんは、驚きを隠さない様子だった。

「このお吸い物は何だ?」

「肉じゃがを失敗したのよ……」

「へぇ、どんな感じだ」兄さんは気にする様子もなく、おたまを使って味見をした。「まずいな」

 それはそうだろう。

 兄さんはこれからどうするんだろう、と思っていたら。「ちょっと待ってな」とだけ言って、部屋に向かった。

 戻ってきたら、大きなドラムバッグを持っていた。

「何よそれ」

 あー、普通に喋ってしまったな。

「カレーのスパイスさ」

 兄さんが出した缶には、ターメリックやフェネルなどの名前が書かれていた。



 結果として、兄さんはおいしいカレーを作った。市販のルーからでは作れないような物が出来上がりはしたが、それは何だろう。カレーであった。醤油味なのに、砂糖過多なのに、砂糖醤油を入れたカレーではなく。存在自体を認めてしまうほどに、あれはカレーだった。むしろ醤油と砂糖が入っているからこそ成り立った味。兄さんはあの状態から計算して、いかにスパイスを駆使すればおいしくなるのかを見極めたのだ。

 あの状態からカレーとして復活させてしまうとは、私の兄さんは不死鳥なのだろうか。

 でも、そんなこととは関係なく。夕食後に、私は兄さんの部屋を訪れた。

 いくつか訊きたいことがあった。

「こんばんは。入ってもいい? 兄さん」

「構わないぞ」

 ドアを開けると、部屋の様子が見えるようになる。

積み重なっているCDケース。本棚には多様なジャンルの書籍。カメラの付いたパソコン。二十四インチ×2のデュアルモニター。アクリルとアルミで出来た無機質な低いテーブル。学習机の横にはさっきのドラムバッグ。扉の正面の壁に貼られているポスターは月のクレーターの写真。ちなみに先週は文房具会社の宣伝ポスターだった。

物量はあるものの、整理整頓が徹底されていた。

 その部屋の主は、自分の机の上に置いてあるパソコンを操作している。手を止めようとも、振り返ろうともしなかった。

キーボードの横には空けられた栄養ドリンクのビンが置いてある。これから朝まで作業を続けようというのか。

 テスターとトランプが置かれたテーブルの前で、私は体育座りをした。嫌に疲れる座り方だけど、何となく癖になっているのだ。

「何してるの?」

「仕事だよ。どうせ俺が進める企画なら、自分で立案しようと思ってね。もうくだらない企画はうんざりさ」

 兄さんの声は自嘲気味だった。

でも……厳密にはそうじゃない。自分を嘲り、他人を甘やかし、世界を軽んじる。彼の基本スタンスはそういったものだ。

気が付けばてが彼の掌の上。

この前のりんごの件もそれに近い状態となってしまったのがいい例だ。

仮に彼と誰かが争ってその誰かが得をしたとしても、それは彼の意図的な操作に過ぎない。

彼の裏を攻めたつもりの行動は、彼が奏でる音楽に合わせて踊っているだけで。彼に勝利を確信した者は、彼が用意したゴールテープを目指しているだけなのだ。

自分を維持し、相手を管理してしまう、世界の解読者。

味方も相手も気付かない。裏も表も完全無欠に無視をした。事象の狭間の司令塔。

 それが彼、悠祈さんが思いを馳せる、私の兄さん。小石基規だ。

「でも、そんなの会社でやればいいんじゃない?」

 そういえば、兄さんの仕事ってなんだろ。前に聞いた時はオペレーターだとか室長だとか言っていたような、記憶がある。なんだろう、オペレーター室の室長……なのかしら。

私はトランプをケースから出し、ショットガンシャッフルの練習を始めた。ただ遊びたい。これからの話は――遊んでいなければ語っていられなかった。

「そういうことにはいかないさ。俺には俺の仕事が割り当てられているからな。企画は全社員から随時募集中だけど、その資料を作ってる暇なんてない」喋りながらもタイピングは減速をしない。「時は金成り、ってね」

「ふーん。その企画、通りそうなの?」

 兄さんがこれだけやっているのだから、何かしらの見込みがあるのだろう。

「通らないだろうな」しかし、兄ははっきりと断言した。「上の連中は頭が固い、っていうのが世の常。今の職場にいるだけで充分な例外なのに、高卒の意見なんて真面目に検討してもらえないだろうさ」

「じゃあ、何で立案なんてしているの?」

 シャッフルに失敗し、五枚のカードが床を滑る。表になったのはハートのクイーン一枚だけど、そこに意味はないだろう。

「実験さ」

 兄さんは振り返って、私を見つめた。

「俺の知り合いも同じ所に目をつけているはずだ。だが情報量と、属している組織の大きさで俺の方が有利なんだ。それでも俺の会社は恐らく動かないが、奴の組織は必ず動く。それだけの話だ」

 徒労に終わる結果を予測しているにも関わらず、その企画を何故出そうとするのか。無言により私の疑問は推測されたらしく、兄さんは言葉を続ける。

「自分たちが没にした企画が他で成功する。それで上層部は後悔するかもしれないし、偶然だと高をくくるかもしれない。こんなに決定的なことが起きても俺を認めることはないだろう。その考えの裏付けを取っているのさ」

 相変わらず、底が深い人だ。自分の興味の為に自分の時間を消費する。それは言わば趣味と呼べるものかもしれないが。他人を試すことが趣味なんて、我が兄ながら惚れてしまいそうだ。

 兄さんは再び作業に戻るのだった。今は調べ物をしているらしく、モニター上ではウィンドウが七つほど開かれている。その上携帯電話を操作しインターネットに繋げていた。デュアルモニターを以ってしてなお面積が足りないとは。

 その間に私はトランプを片付けた。

会話が途切れる。キーボードを打つ音と、居間からのテレビの音がよく聞こえるようになった。

 忙しそうなところ悪いけど、話題を変えるのにはベストタイミングだろう。

「兄さんって、今は誰かと付き合ってるの?」

 どうするんだろう、私は。兄さんにそんなことを訊いて。もしも兄さんから欲望を感じ取ってしまったら。

「お前がそんなことを訊くなんて珍しいな」

 私はテスターを手に持った。テスターなんて、中学の理科の先生が持っていたのを見たのが最後か。いえ、どこかの家電屋で見た気もする。

「たまにはいいじゃない」

「いいけどな。誰とも付き合っていないさ」

「そう」それでは前提条件をクリアしてしまう。「じゃあ、年下ってどう思う?」

「どうしたんだ? クラスの友達から『貴女のお兄さんに恋をしてしまいました』と相談を受けでもしたか?」

 ……ほぼその通りだけど、同じクラスなのは深奈ちゃんの方だ。

「そうじゃないよ。兄さんのことを知っている娘なんて、同じ学年にいるかどうか」

「いないだろ。小学六年生の俺が敏腕な生徒会長だったとしても、小学一年生じゃあ名前も覚えてないだろうよ」

 そうかも知れないが、相手は小学校でさえも重なっていない。すれ違いですらない相手だ。

 それを知ったらどうなるか。

 そもそも、兄さんが人を愛することなんて出来るのだろうか。

 これは兄さんが心の無い冷淡で残忍な人物であると云うことではない。

 兄さんは物事を深部まで把握してしまう人間だ。それ故に人間の間違った考え方や行動や発言に気が付いている。理論が破綻していれば、限りなく正しい形で認識する。

しかし兄さんは基本的に人には『甘い』性格だ。

 大人の余裕。寛大な心。誠実な行動。尊敬出来る素直さ。それらを持ち合わせた人格者。

 女性に告白されて断ることが出来るのかどうかが心配だ。

 ……こんな、結婚詐欺に合っても自主的に騙されそうな兄さんが。ただの告白など断ることが出来るのか。

 他人を優先し、好きでもない相手と付き合うというのは妥協ではない。ただの自己放棄だ。決断不能症だ。そこに愛など微塵も存在しえない。

 あるのは事実と行動で。同意はあっても興味はない。

 だから兄さんと結婚して幸せなのは、相手に夫としての役割しか求めていない……もしくは、自分しか見ていない相手。なのだろう。

 兄さんもロボットではないし、心は正常に有している。それでも、気付く人は気付くのだ。その甘さに。優しさよりも、残酷な『甘さ』に。気付いてしまったら、絶望しか残されていない。

 ……私は不安なのだ。

 悠祈さんが愛してもらえるか、というのもあるが。申し訳ないことに、今は自分のことも考えている。

……兄の甘さというのは、私にも適用される。

 兄さんは私に愛情を向けてくれているのか。

 分からない。分からない。本当は、面倒くさい、煩わしいとさえ思っているのかもしれない。料理を作り忘れた時に代わりに作ってくれていた時なんて。本当は恨んでさえいるのではないかと不安に押しつぶされそうになった。

 偽善さえも善行に思えてしまう、潔癖症を前にして憂色の漂白。そんな兄さんが、兄妹というだけで、私なんかに愛情を注いでくれるのだろうか。

 小さいころにはたくさん公園で遊んでくれたし、喧嘩なんてしたことがなかった。年が離れていて喧嘩にならないというのもあるのだろうが、私に気を使い過ぎだと最近は感じるようになった。

父に理不尽な叱られ方をした時も私を子供ではなく人間として、区別なく扱って庇ってくれた。大抵の場合は「屁理屈を言うな!」などと兄さんは怒鳴られてしまい、一緒になって怒られたりした。その後は珍しく笑いかけてくれて、適切な解説やアドバイスをしてくれたものだ。共感してくれたり、間違いを正してくれたり。何故か奇行をする時もある。

 私は、そんな兄さんを倣って育った。父や母より兄さんを尊敬していた。 

だから、兄さんのことは大好きだ。恋愛感情とは違うけど。

それなのに。大好きな相手が、自分のことを好きではなかったなら。好きになった部分が、誤解と理想の融合だったとしたら。そんな悲しいことはない。

さながら兄を演じている他人のごとし。それは兄妹で対等な間柄だと思っている私にとっては、恋人のふりをした奴隷にも等しい。裏切りは錯覚かもしれないが、惨めな屈辱にはなりえる。

――もしもだが。

私がもしも、兄さんに愛の告白をしたら。兄さんはどう反応するのだろう。ありえない、とは思うが。もしもOKをもらってしまったら。

兄さんは、優しさよりも甘さを優先することになる。私のことを思えば、世間を鑑みれば。告白は断るはずだ。

つまりそれだけで、たった一言で。兄さんの愛を計れてしまう。今までの出来事が私に対しての愛情なのか。それとも人間に対する甘さなのか。それが明らかになってしまうのだ。

それは怖い。

今の関係が皮相でしかないと考えると、意識を恐慌に支配されてしまいそうだ。

「ねぇ、兄さん」

 テスターのレンジを切り替え『導通』に合わせる。

「何だ?」

 両方の端子同士を接触させ、測定テスト。レトロなブザーが鳴り、電気が通ることを伝えてくれた。

「私ってかわいいかな」

 精一杯、冗談っぽく言ってみた。今は、そこまで訊く勇気しかなかった。本当に愛の告白が出来ないで悩んでいるわけではないのに、何故だが心が締め付けられるように痛んでしまう。

「俺の妹がかわいくないわけないだろう」

 そして冗談っぽく返されてしまった。兄の本心は、まだ分からないままだ。

「ありがとう」

 今度は端子をテーブルのアルミ部分とフローリングの床にあててみた。木は電気を通さないらしく、ブザーはならない。

私と兄さんの心の導通、それが計れるテスターがあればいいなと。そう乙女チックなことを思ってしまう私は、昼間の私と同一人物としか思えなかった。


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