二章 越権行為
「ふふ、お兄さま。今日の紅茶はなさいます?」
「……セイロンでお願いするよ」
片柄待積の希望を聞いた片柄悠祈は、この部屋と一体になっている台所で紅茶を淹れた。着ている制服にお湯が飛ばないように注意する。
「どうぞ」悠祈は妖しい微笑みを浮かべ、食卓の上にそっとマグカップを置く。「お熱いので御注意ください」
「ありがとう」
悠祈は待積の隣に座る。つやのあるショートカットがさらさらと揺れた。
「どうです?」
一方の待積は没個性的な動作で紅茶を啜る。
「おいしいよ」
登校前のひと時に、片柄家の古びた居間で予定通りのやりとりが交わされている。
所々黒い染みのある畳。
台所と同じ空間に、端に食卓とテレビを置いて二人分の布団を置けばそれだけで一杯になってしまうような部屋。
そしてを挟んだ向こう側には、こことさほど変わらぬ広さの空間がもうひとつ。
ボロアパートと言っても差し支えようのない、トイレ共用・風呂無しの古く狭い仮住まいだ。
この部屋に彼女がいることは、荒れ狂う嵐の海の絵に一束のラベンダーを描いてしまったような。場違いな光景だった。
「今日も晴れていますわね」
悠祈は首をかに動かし、窓を見上げる。
たったそれだけの何気ない動作さえも、彼女は非の打ち所がなく優雅なのだ。
さながら川のせせらぎのような。
月夜の風に揺れる稲穂のような。
「あぁ、眩しくて眩しくて。……私はもう溶けてしまいそうですわ」
太陽の光を見ている彼女は儚げで、太陽が透けて見えそうな白い肌をしていた。
放課後に友人の癒真奈と篝と別れ、ほのかは自宅に向かって歩き出した。
ほのかは手紙を『送られた』日から三日間、自分の家について異変がないかを調べていた。鍵は盗まれていないこと、窓やドアに細工などの異常はないこと。食材に毒物が注入されていないことなど。盗難も破壊もすり替えも毒もトラップも危惧して調べたが、気になる異常はなかった。家の中に命の危険がないことは確認出来た訳だ。
それはつまり、犯人の特定が最優先になったということだ。
だが、犯人に関することは何も分からなかった。家に異常がない中で、犯人特定に繋がりそうな物といえば『犯人が直接書いた』手紙しかない。
しかし、その手紙からでさえも、手がかりといえるものを発見することは出来なかった。
――犯人は分からない。
彼女の心中に寒気を催す嫌な言葉が響いた。
これからの現実がその言葉の裏付けのために存在してしまうと。そんな錯覚さえ覚えてしまう『擬似的な絶対』を孕んだ言葉だった。
そんなことはないと、響いた言葉を覆そうとした。
だがその思考は言葉にも――概念にさえもならずにした。
絶望感を抱くこと自体に絶望し、無力感を味わう。
「んーんーんー」と、どうしようもなく唸ってしまった。
数日間に渡って思考を巡らせ状況の整理と推理を行っていたのだが、その甲斐はなくこの通り散々な結果となった。
落ち込んだまま帰宅を果たしたほのかは、とにかく夕食を作って再び家の中を調べようと考え、台所へと向かった。
家の冷蔵庫を見て、嫌気が刺す。
十分な夕食を作れないほどに冷蔵庫の中身が不足しているのだ。
昨日の夕食を作っている際、今日の学校帰りに買い物に行こうと決めていたのだが、苦悩に気をとられてすっかり忘れていた。
ほのかは出掛けるためにシャワーを浴びて着替えた。
清涼感溢れるブラウスに、動きやすい素材のスキニージーンズ。最後に、長い髪を後ろの方でくくり、準備は整った。
「いってきます」
その言葉は誰に聞かれることもなく、虚しく消えるのみであった。
学校近くのスーパーマーケットで買い物を終えたほのかは、休憩のためにある公園に立ち寄った。三日分の重たい食材を――劣悪な精神状態で運んでいたせいで疲れてしまったのだろう。
清々しい晴れ空とはいえ十八時の公園に子供はいなかった。
だがベンチを探しているとき、先客の存在に気付いた。国道の影に隠れて、或いは入り口の配置の関係か。ほのかは公園に入るまで、ベンチに座っているその存在に気が付かなかった。
しかしよく見ると、その人物ほのかと同じ高校の、男子用の制服を着ているではないか。更に、その人物を一応見知ってはいた。
意識して接さなければ意識することがないような、薄い存在感。バランスの取れた顔立ちはしているが、いい意味でも悪い意味でも人目をひくことはないだろう。
何度か廊下ですれ違ったことがあるのかもしれないが、ほのかはその半分も気付いてはいない。
同じ地区のために小中と同じ学校で、現在通っている高校も同じなのだ。だが同じクラスになったことは一度もなく、言葉を交わしたことも数えるほどしかない。
話しかけるのも不自然ではないと思い、ほのかは木製のベンチに近付いていった。
「こんにちは、片柄君だよね」
その人物――片柄待積は空に向けた視線をほのかへと移した。声をかけられて初めて気付いた、とでもいうように。
「こんにちは、小石さん」待積は話しかけられて意外に思ったのか、少し間を置いてそう返した。「久しぶりだね。こんなところでどうしたのかな? って、見れば分かるか」
待積はほのかがげている買い物袋を数秒見つめ、視線を戻す。
「お手伝いかな? 外食やファーストフードなんかで済ましてしまう家庭も増えているのにさ、えらいね」
彼の口調は軽薄そのものだった。だがそれとは裏腹に、貼り付けたような無表情。
虚構でしかない社交的な演技を、彼はしなかった。
それは彼の内面の何を表しているのだろう。
不機嫌や無関心だと、ほのかは思わなかった。
その露骨で自然な待積の態度に好感を覚えたくらいだ。
笑顔を見たければ――笑顔を見たぐらいで安心出来るのなら、キャッチセールスとでも話していれば良いのだから。
「そんなことはないよ。これは私の仕事なの」ほのかは穏かな笑みを浮かべる。「帰ってきたお父さんやお母さんや兄さんに、『お仕事お疲れ様』ってね」
ほのかは右手を前に出して、それを表現した。
「――そうか、これは試練か」
ぼそりと、待積は呟いた。
「試練? 何のこと?」
「……何でもない。立ち話もなんだから隣に座りなよ」待積は右手の親指でベンチを指す。「嫌でなければ、だけど」
ほのかはその勧めに応じた。荷物をベンチに置いて、自分は待積の隣に腰を下ろす。
「そういえば、片柄君は一人で何をしていたの?」
「散歩だよ。部活に入ってないとすることがないからね。身体もなまるしさ……」
何故か、待積は自分に呆れたようだった。
「そういえば片柄君、田中君って覚えてる?」
「健の方?」
「まさ君の方」
二人はを始めてしまった。
「あぁ、生徒会長か」
「そうそう。あの田中君なんだけど、カメラマンを目指して高校を中退したらしいよ」
「あのまじめな『まさ』がか!」
「うん、今は雑誌の編集部に写真を送ってデビューを狙ってるらしいよ」
「彼にも不明なところがあったが、まさかそこまでとはな……」
待積は呆然とした。
「あと内海くんは卓球で全国大会に行ったらしいよ」
「内海は中学の時から凄かったよな」
「中学一年の時に、『内海君』対『部長と副部長』の一対二人で戦いながらも圧勝したらしいからね」
「化け物じゃねぇか……」
待積は愕然とした。
「しかも試合終了後に言ったセリフが『猫耳・眼帯・白ニーソ、白い手袋に日本刀を帯びたメイドたんの姿になったら、この試合はなかったことにしますよ?』らしいよ」
「また、えげつないぶっ飛び方だな……」
この話が広まっているということは、その姿にはならなかったのだろう。
「あと先生だけど」
「あぁ、それは知ってるよ。自分の担任だった先生のことくらいは、妹から聞いているさ」待積はくくく、とかに笑う。勝ち誇ったように。さながら素手で剣士をした空手家のごとく。
「実家のみかん畑をぐために教師をめたんだろ?」
「いや、自分の生徒にセクハラしてクビになったらしいよ」
「なんじゃそりゃ!!」
待積は柄にもなく漠然と叫んでしまった。驚きようが半端ではない。
「それはそれとして……良くはないけど。どうしてみかん畑なんて出てきたのかな?」
「悠祈のことだから、ろくに聞いていなかった話を適当に伝えてきたのかも知れないな……」
待積には同級生に関する『情報元』が無かったらしい。いちいち驚いてくれる待積は、ほのかにとって話し甲斐のある相手だった。
「そういえば双海さんだけど。あの時はどうなることかと思ったよね」
「確かに大騒ぎだったよな。いきなり失踪して」
「今は元気に登校してるって」
――そこで、待積の表情が最初の無表情へと戻った。
空気が変わるのをほのかが感じる前に、待積の発言が開始される。
「そういえば。どうして小石さんは、そんなに悲しそうなんだい?」
流れを無視した完全なる不意打ち。
突然の言葉というものは、言われた相手に相当な心当たりがなければ聞き取れすらしない。受け入れるための回路が閉じてしまっているためだ。
聞き返されてしまうだろう。例え聞き取れなかったとしてもすんなり否定されるだろう。
だが、逡巡してしまった。
ほのかは待積の問いに答えられず。
待積はほのかの返答を待っている。
それはすなわち。
心当たりの証拠。
楽しそうに話していても、心の奥の沈んだ気持ちを隠しきることが出来なかったのだろうか。
どこかに表情として出てしまったのだろうか。
ほのかは、待積に心境を読み取られてしまったのだろうか。
――だから、どうだというのだろう。
心境を見破られたからといって、どうだというのだろう。
そんなことはないと主張すればいいのだから。
まともに会話をしたのは、今日初めてなのだ。裏の裏まで読まれることはない。
否定をすれば待積も勘違いだと認識する。なんの問題もないだろう。何の問題もないはずだ。
「……実はね」
しかし。
ほのかにはそれが出来なかった。
三日間の絶望で、ほのかの心は弱り揺らいでいた。
もしもこのまま誰にも遭わず帰宅を果たしていたら、ほのかは兄の基規にでも助けを求めたのかもしれない。
だが、出会ってしまった。
知り合い程度の関係とはいえ、認識している人物と会い会話をしてしまった。
更には語りやすいためのお膳立てをもしてくれたではないか。
つまり。条件が揃ったということなのだろう。あるいは、意図的に揃えられたのか。
ほのかは三日前に起きた出来事を待積に話した。
「りんごがねぇ……」待積は呟く。「『小人さんか、魔女か。どちらが犯人でしょう……』と、妹なら言いそうだな」
「私の妹は『りんごに混ぜるんじゃなくて、りんごと交換なのが暗示的だね』って言ってたけど」
「気が合いそうだな……」
「そうだね」
二人はくすりと笑った。
「まぁ、前提条件を解説しようか」
待積は淡々と解説を始めた。
「この『問題』の概要は『居間にりんごを置いて学校に行って、帰ってきたらりんごの代わりに手紙が置いてあった』というので間違いないね?」
ほのかは「間違いありません」と肯定する。
「まず、この話しを聞くと『密室』を連想すると思うけど、それは間違っている。扉の外に鍵が存在する時点で、密室は破綻しているのさ。無人の時間が長過ぎるせいでピッキングをする時間的余裕もあるからね。まぁ、広義では密室なのかもしれないけど。犯人の選択肢が多過ぎて娯楽としてのミステリ要素すらも無いさ。
それに鍵を開けて閉めたトリックだとか、そういう華やかなものばかりを暴こうとしたかもしれないけど。そんなのは無駄さ。鍵が開いているうちに侵入しておけばいい。鍵を開けっ放しにしていた時に、こっそりとね。後は家にある鍵をコピーして、それで施錠すればいい。鍵も手に残る」
「……じゃあ、犯人は分かるの?」
彼になら分かるのではないかと、そういう期待がほのかにはあった。
「あぁ、方法ならわかるさ」
その言葉に、彼女は安心した。
これで救われると、彼女は希望を垣間見た。
そして静かに――しかしはっきりと。彼は言葉を告げる。
「警察に行きな」
突き放すような、冷たい声だった。
「え?」思いがけない言葉を聞いて、ほのかは固まってしまう。
「侵入されてりんごを盗まれて、変な手紙まで置かれて。何で警察に届けないのさ」
「それは……」
「どうせ――」
――家族か友達のいたずらだと思ってるんだろ?
核心を衝かれ、ほのかは何も言えなくなった。
その可能性を考慮している所為で行動を制限されているのは、紛れもない事実だ。
「もしそうじゃなくても自分で解決出来ると思ったんだろ? 甘いんだよ。お菓子の家くらい甘いね。塩羊羹を見習えば?」
あくまで淡々と、彼はを続ける。
「手紙はちゃんと保管してあるんだろ? 指紋くらい採ってもらえよ。プロファイリングくらいしてもらえよ。被害届けくらいだせよ。りんごを盗んで手紙を置いて嫌がらせするのが目的だなんて、平和ボケした考えを持っているわけじゃないよな? 十五年間も何して生きてきたんだ? ばれて殺されるために生きてきたのか? 無駄な人生重ねてどうするんだ。目先の出来事にわれるな」
「そんなこと……ないよ」
ほのかは否定しようと、発言をする。
「野菜に毒が塗ってないか調べたし、注入されてないか針穴も調べたし、どこかにが散らばっていないか床や布団の中も調べたし、可燃性ガスが充満しているかもしれないから換気もしたし……色々と調べたんだよ」
「へぇ、そう」
ほのかの三日間に対する感想は、たったそれだけだった。ほのかの三日間の価値は、待積にとってはただそれだけだった。
「警察に行かない理由が――君が自分でこの『問題』を解かなければいけない理由があるのかな? いや、『あるのかな?』なんて聞く方が間違いだ。君は何故この『問題』を解かなければならないんだい?」
そのことについては、ほのかには明確な『理由』がある。酷く自覚的で意図的な目的があるのだ。
犯人についての証拠が掴めないということに異常なまで落ち込んでしまう程――他人にその落ち込みを悟られてしまう程――具体的な『理由』がある。
だがそれは、言いたくない。
弱みだとか、人質だとか。そういった理由は必要ない。
自分で解決して、目的を果たそうと決めていた。
いたずらであると疑ってはいるが、いたずらだろうが本気の犯罪だろうが。それについては関係がなかった。
だが、ほのかは挫折しかけた。
一度、心が折れてしまった。
その理由を話さなくてはならないのだろうか。
話したところで協力してくれるとは限らないし、協力してくれたところで解決するとは限らない。
もうどうしてよいのか分からない。
自然と、涙が出て来た。
号泣にもすすり泣きにもならない。音も無く、静かに泣いた。
自分で何も出来ないばかりに、無力を自覚しなくてはならないのだから。
今のほのかは探し物が見つからない以前に、どこにも道が見えない状態なのだ。街に行く前に森を抜け出さなくてはならない。見つけるどころか、探すことも叶わない。
涙は静かに流れ続け。ぽたりと、ほのかのジーンズを濡らす。
隣にいる待積が、それに気付かない訳がなかった。
ほのかの涙を見た待積は、それでもほのかの顔を見つめ続ける。
お互いが見つめあうような形になっていた。お互いの視界の中心には相手がいるのに、二人が見ているのは――えようのない事実として――相手などではない。
ほどなくし、先に動いたのは待積だった。
「はぁ」いたって義務的な溜息を吐く。「いいよ、女の子には秘密があるものなんだろ。知らないけど」
「……え?」
そのちぐはぐな表現が、ほのかは気になってしまった。
「それに……女の子の涙は見たくないしさ」
「片柄君……」
待積の動作や言葉は義務的で機械的で没個性的で、心も人柄も見えてこない。それも、不器用というよりはそれこそ意図的に隠しているような。
そういった点で、待積を信用するのは人間として間違った行動なのかもしれない。
しかし、人間に重要なのは表向きの行動ではなく、心なのだ。さっきの優しい言葉は、計算というものとはかけ離れている気がした。待積のどういった感情が作用したのか、ほのかは読み取ることが出来なかったが。人間的な優しさだと、何となく感じた。
「なにそれ」
くすりと、ほのかは笑うのだった。
しばらくして――もとい体勢を整えたほのかと待積は、ほのかの家に向かって歩き出した。
事件解決の探偵、もしくは相談役となった待積は「現場を見ておきたい」と言い出した。安楽椅子探偵のような芸は出来ないと自己申告したのだった。
「でも、この問題の鍵は『りんご』なんだよ」
待積はほのかに、解説の続きを始めた。
「お金を盗まれたとか、テレビを壊されたとか、そういったことになると明らかに犯罪だ。しゃれでは済まされなくなる」
待積はほのかの後ろを歩いている。家の場所が、なんとなくしか分からないのだ。
交通量の激しい国道沿いを、二人して歩く。
「え? でもりんごでも犯罪は犯罪だよ」
ほのかは後ろを向いて待積を見る。そのまま三歩ほど後ろ向きに歩き、段差に躓き慌てて前を向き直した。
「それは君が証明したじゃないか。いたずらなんじゃないかって、思う訳さ。思うことが出来る方に属しているんだ。確かに普通の日本人は身近に犯罪がないから、犯罪を現実のものとして捉えられないものなんだけど。どちらにしても、りんごなら買い直せるからね」
待積は、面白いとばかりに笑ってみせた。喋りの調子に合わない、陰湿な笑みだ。
「これがどういうことか、分かるかい?」
「……食べ物に困ってるのかなー」
ほのかは学習したのだろう、今回は少し振り返るだけに留める。
「いや、物盗りは目的じゃないよ。挑戦か挑発だろうね。手紙を置いていったことからも分かるけど。警察に届けないように、バランスを考えたのさ」
そこで、待積は不満のようなものを漏らす。
「でも、犯人も犯人さ。これは事件として成り立っていないけど、問題としても成り立ってはいないね。事件なら少しずつ真実が明らかになっていって、どうなるんだろうと先を気にさせたり、どきどきはらはらの命の危機があったりする訳さ。でも、『出題者』がしたことはりんごを盗んで手紙を置いただけ。犯人に辿り着くヒントが少な過ぎるのさ。問題としての性質が破綻するほどにね」
ちなみに、公園を去る時に買い物袋は待積が預かっている。女の子には重いだろうという配慮だった。ほのかは遠慮したが、待積の曖昧な物言いに断る気が削がれてしまったのだ。
「そういえば、小石さんは付き合っている人はいるのかい?」
「えぇ!」
ほのかは動揺して立ち止まり、後ろを振り返った。顔が赤くなっている。
「どどうしてそんなことを訊くの!」
声には無駄な振動が混じっていた。
「世間話を振ったらまずい?」
「私が自分のことを話したら、世間話じゃなくてだよ」
「何だそれ……」
動揺の勢い余り、ほのかは訳の分からない発言をしてしまったらしい。
「いや、小石さんって男性から人気がありそうだなと思ったんだけどさ」
ほのかは前を向き、再び歩き出した。ただし、俯いている。
「そんなこと……ないよ」
「でも、告白されたことはある?」
「……うん、ある」
ほのかは静かに答えた。
それは恥じらいの表れではなく、もっと別の何かなのかもしれない。
「へぇ、僕は告白されたことがないから分からないんだよね」
果たしてその言葉に悪気はあったのだろうか。
「そんないいもんじゃないよ」
すんなりと否定する。
相手に恵まれなかったのだろうか。それとも照れ隠しか。
「告白されたら嬉しいってよく聞くけど、例に漏れたパターンか」
「いいえ……」そこまで言って、ほのかは発声をやめてしまった。口を小さくパクパクと動かす。
自分の過去を、言葉にするのを躊躇ったのだろう。
「まぁ、どうでもいいけど」
そう言って、待積は話題を変えた。
「小石さんはゲームってよくする?」
「……え、あまりしないけど」
「ちなみに、には親戚からもらった初代の『PM』しかないから、全然分からないけどね」
「そんな人がどうしてゲームの話しをふるのかな……」
どうにか気分を回復させたほのかは、待積を連れて自分の家に帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり……」二階から返事があった。
「じゃ、あがってあがって」
ほのかは靴を脱いで、自分の部屋へと歩いていく。
「ちょっと待て。俺のことがご家族に説明されていないじゃないか」流石の待積もこれには参ってしまった。
「え? 何で」
「トイレに行く時とかにご家族の誰かと鉢合わせたら、その人は俺をどう思うか……」
「片柄君は片柄君じゃない」
「それはそうだけどさ……」
待積は待積だが、片柄待積を知らないものは片柄待積とは分からない。
言葉は使いどころを間違えると空回りをするという、模範的な例だった。
「怪しいし、驚くだろ。それこそ空巣狙いだと思われる」
「嬉し驚きのサプライズゲストだね」
「度が過ぎて心臓に悪いわ!」
「お前らは何を玄関でラブコメなんてしているんだ……」
小石基規が階段を降りて姿を現した。玄関から見て左側に階段があり、その二段目で足を止める。
待積は基規の登場に素早く反応した。「どうも、おじゃましてます。小石さんのクラスメイトで、片柄待積と申します。今日は体育祭の計画を立てるために来ました」その割りに、訪問が不自然にならないように嘘を吐いていた。口調は相変わらず軽薄なままだったが。待積はほのかのクラスメイトではなく、二人は体育祭では参加者に過ぎない。
「あ、そう。ゆっくりしてきな。だけどあんまり騒ぐなよ。俺に怒られるからな」
そう言って、自分の部屋に戻っていく基規。
待積はもう少し何か言われるか、もしくは嫌な顔をされると思ったのだが。基規のあっさりとした態度に警戒をする。
「……あの人が同棲相手と噂されている彼かな?」
茶化すように言うが、声に緊張がこもっていた。
「その噂は間違ってるよ……。兄さんだよ」
「あぁ、そっか」
そう言って、思考に一区切りを付けた。今は長時間の思考をするほどの情報を持ってはいない。
「まずは居間を見せてもらおうかな」
「そうだね」
二人は居間に着いた。ほのかが買ってきた食材を台所へ運び、現場検証は開始される。とはいっても、りんごと手紙が交換されていただけだ。その行為には何の特別な手段を必要としない。手紙とビニール袋を持参すればいいのだ。手紙を置いた後、ビニール袋にりんごを詰めるだけ。そこにどのような証拠が残るだろうか。
「見たからって、何もないんだけどさ」
期待がない分、がっかりすることもなかった。
「もう三日経ったしね」
そして玄関の戸の作りや、糸や傷などの痕跡。その他、異常の有無を調べた。
ほのかの数日間をなぞるように、そして待積の予想通り何もなかった。
「手紙を見せてもらおうかな」
調べる所がなくなった待積は、ほのかの部屋へと入った。
淡いピンクのベットカバーに、猫模様の床マット。漫画のキャラらしきシールの貼ってある型落ちパソコン。全体的にミルキーカラーで統一されている部屋だった。
「はい」
黄色単色のクッションに座っている待積は、水色の封筒から出された便箋を受け取った。ほのかはそのまま自分の椅子に座る。
「……はは」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。やっぱり君は甘かったね」
「いきなりどうしたの?」ほのかは不安な表情になる。待積の笑いは、ほのかに不吉な印象を与えてしまったのだろう。
「どうもないよ。まさか手紙の内容を信じたのかい?」
「いえ……その」
「そう、半分信じたし、半分疑った。まさに半信半疑。中途半端なのさ」
「どういう……」
ほのかは戸惑う。
「隠しカメラは仕掛けられていない。この手紙を信じたら、そうなるよね。でも、、ということは。がないということにはならないよね」愉快そうに笑う待積。
ほのかは背筋がぞっとした。「でも、この部屋は隅々まで調べたよ。それこそ押入れやタンスをひっくり返したんだよ?」
待積の説を覆すように――覆したい一心で、彼女は言葉を口にする。そんな現実を受け入れたくない自分に従い、素直に拒絶をした。
「そう。でも、君は盗聴器の基礎知識を知らないのかな?」そうして告げる。「盗聴器はコンセントの中にある、ってね」
その言葉を聞いたほのかは動き出した。
現在も送風を行っている扇風機。スイッチを切ることなく、そのプラグをコンセントから抜いた。ゆっくりと扇風機の羽が停止していく。
そうしてほのかはコンセントを見た。上下がねじで留められ、固定されていることを認識する。
ほのかはドライバーを探した。ドライバーなんて、小学校の図工の時間で使ったのが最後だ。心当たりのないほのかは、兄の部屋に向かった。
「兄さん、ドライバー持ってる?」
「何だ急に、ミニな四輪車でも組み立てるのか?」基規は自分の机の上、パソコンモニターの横に置かれていたドライバーをほのかに手渡す。「ほら」
「ありがと!」踵を返し、急いで自分の部屋へと戻った。
再びコンセントに対峙する。ねじ穴が潰れないよう、しっかりとドライバーを抑える。暑さの所為ではく、緊張感により嫌な汗が噴出した。ゆっくりと回す。すんなりとねじは外れた。下を外すと、僅かにカバーが浮く。上を外してようやくカバーが外れた。虹色に輝く黄色に近いフレームに、白いコンセントが固定されていた。コンセントはフレームから後ろが緑色である。屋内の配線が上部へと伸びている。その中を隈なくチェックした。上下左右を覗き込み、電線とコンセントとの接続部を観察した。
盗聴器は無かった。
外したカバーをそのままに、次は入り口付近のコンセントに取り掛かる。
意識的に呼吸をした。息があがっているのだ。
今度は少し滑らしてしまったが、問題無く取り外す。
廊下、洗面所、風呂場、居間、台所、トイレ、父の書斎、母の部屋、空き部屋、妹の部屋、兄の部屋。
この家に存在するコンセントのカバーを全て外し尽くしたが、盗聴器はなかった。
結局のところ、犯人解明については何の進展もない。
待積は「何か思い付いたら連絡するよ」と言う言葉を残して去っていった。
それを見送ったほのかだったが。その待積と、家の近くの電柱付近ですれ違った人物は間違いようもなく深奈だった。
深奈はほのかの側まで近付くと、声をかけた。
「ただいま。お姉ちゃん、今の人は知り合いなの?」
「うん、探偵の知り合いだよ」
「はぁ……そうなんだ」
よく分からないほのかの返答だった。
ほのか自身でさえも、分かってはいないのだ。
「あ」ほのかは重要なことを思い出した。
「どうしたの?」
「夕食を作るのを忘れてた!」
家の中に戻り、台所へと向かう。そこには三角巾を頭に付けた基規が、既に夕食を半ば作り終えていた。
「兄さん!」
「あぁ、ほのか。小さい四駆は完成したか?」
「何それ、何の話だっけ? ……そうじゃなくて、夕食作らせてごめん」
「……たまには遊んどけって」
小石家のキッチンにはコンロは二つあって、牛肉やジャガイモや人参などが煮られている鍋と、白湯でうどんを茹でている鍋がそれぞれ載っている。
今日の夕食はビーフシチューうどんに決定していた。
「ほのかと深奈のはオムレツ入りにしてやるからな。豪華にグリーンピース載せだぞ」
「うーん……そっか。じゃあお願いね」
ほのかは逡巡してが、そう言って自室に戻る。妙に疲れていて、ベットへと倒れこんだ。
片っ端からカバーを外していったほのかの後に続いて、親切にも待積は外したカバーを戻していた。そのため取り付ける労力を負わずに済んだのだが、身体的な疲労よりも精神的な疲労が目立つのだ。
「ふにゅー……」
ほのかは夕食の時間まで、一眠りすることにした。
先ほど外で別れた深奈は、放置されたままだった。
夕食を食べ終えた私は宿題を終え、お気に入りのまんがを読み、気持ちよくシャワーを浴びた。そして今、ベッドの上に寝転んでいる。
「彼は何者なのかしら……」思わず言葉を漏らしてしまう。「底も素性も読めないわ」
片柄待積の言動にはむらがあるというか、一貫性がないような。その時々で対応を変えているような気がする。
それは臨機応変という振れ幅ではなく、一言一言を違う人格で話をしているといった感じだ。
――現在の時刻は九時十四分。私には既に変質が現れていた。
声はのように冷たく尖り、心は洞窟のような静けさ。たまに水滴の音が空虚に響くだけ。いつもより雰囲気が落ち着いていると言えば、聞こえはいいが。いつもより気分が沈んでいると言えば、いい感じはしないだろう。
結局のところ、この状態のほのかの思考でも犯人への手がかりは掴めなかった。そもそも犯人に辿り着ける『ヒント』すらも無いのだから、答えはナンプレのように仮定を積み重ねて求めるしかなくなる。そして、その『仮定』する対象さえ候補が無いのだから、どうしようもない。
しかし、そこで『彼』の登場だ。
停滞してしまった物語を進めるためのキーパーソン。解決に近付いたかどうかは分からないが、物語が進展したのは確かだ。
今後の私は『彼』とどう関わればいいのだろうか。どんな形で、どのくらい関われば。
そして、この物語における彼の役割とはなんなのだろう。
探偵、被害者、道化、犯人、一般人。色々と候補はあるけれど、どれなのだろう。もしかすると、主人公かもしれない。私が被害者だからといってヒロインとは限らない。
それでも構わない。いえ、関係ないわ。私は私のすべきことをするだけだ。それに、彼は何を知っているのかが気になる。
何かを知っていなければ、説明が出来ない発言をしていた気がする。
私のことも、何か知っているのかもしれない。知られるような行動をした覚えはないけれど。
私は横向きになり、この部屋の入り口付近にあるコンセントを見つめた。特に意味はない。
今は何も分からなくても、もう少しすれば何か分かるはずだ。
「片方が柄である刀を持ち、待ちを積む堅実な者。とでも言うのかしら」
彼の名前の由来を考えたところで意味がないことは分かっていたのだが、どうしてかそんなどうでもいいことを考えてしまった。
そして次の日、多くの学生や社会人が待ちわびた土曜日がやってきた。
ほのかは五時に目が覚めてしまったが、まだ眠かったので二度寝をしてしまった。しかし次に起きた時は午前十一時だった。ほのかは愕然として、午前中がもう一時間しか残っていないことをいだ。
土日のどちらかは大抵、篝と癒真奈と遊んでいる。そして今日は友人の篝と遊ぶ約束をしているのだ。癒真奈はと遊ぶので来られないらしい。
待ち合わせは十三時に駅前だ。駅までは歩いて二十分くらいのところにあるので、そんなにかからない。毎日学校まで三十分歩いて通学しているのだから。
ともかく、ほのかはお気に入りのパジャマ姿のまま一階へと降りてきた。小石家の朝食はいつも母が作るのだが、小石家の人間は土日に何かしらの用事で出かけることが多いので、いつも個人個人で済ませることにしているのだ。
台所に行くと、ビーフシチューの入った鍋がコンロに置いてあった。
基規のビーフシチューに対するこだわりは半端ではなかった。基規のビーフシチュー作りは野菜や肉を切るところからではなく、赤ワインを選ぶところから始まるのだ。肉は硬いすね肉を使い、柔らかくなるまでは煮ない。デミグラスソースは作り置きだが、それでもなかなかの味が出る。昨日はうどんだったので更に別の小さい鍋に鰹出汁を取り、それを入れて和風テイストに仕上げていた。オムレツもなかなかのものだった。鶏肉などを入れないプレーンオムレツ。フライパンにはバターをひき、卵に牛乳を入れない。とろけそうなのに崩れない絶妙な熱の通し具合だった。ほのかと深奈それぞれの好みになるよう砂糖と塩の加減を調整していた。
彼と結婚したは幸せだろうと、ほのかは思った。もちろん性格が合えばの話だが、というのも忘れない。
しかし。ほのかはそのビーフシチューを食べようとせず、冷蔵庫を開けた。市販の餅を二つ取り出す。トースターの中に入れ、レンジを回す。タイマーの作動音が規則的に鳴り、中の電熱器が赤く光った。ぷっくりと膨らむ餅。
「おー、ミステリックぅ!」
そう餅に対して感想を述べ、取り出して皿の上に載せた。別の皿に醤由と砂糖を入れて混ぜ、居間に座る。テレビを点けると、適当にチャンネルをニュースに合わせた。土曜日、特にこの時間帯は理解の出来ないドラマかバラエティくらいしか他に放送していない。
ほのかは作った砂糖醤油を付けて餅を食べる。口の中にくど過ぎない甘さが広がった。
ちなみに、塩羊羹とは羊羹の中に塩が入っているのではなく、単に砂糖を少なくし甘さを控えた羊羹のことである。
餅を食べ終え、食器を洗い、シャワーを浴びてお出かけ用の衣服に着替えた。
ほのかはその間、誰とも合わなかった。
父と母は仲良く出掛け、深奈は部活だろうと予想をした。基規については、予想のしようもなかったのだが。
そうして十二時二十分となった。
ほのかは一応戸締りをし、荷物の準備をして家を出た。
事件のこともあるが、いつまで悩んでも仕方がない。メリハリが重要なのだ。遊ぶ時は楽しく遊ぼう。
ほのかはそう、前向きに物事を考えた。
「しゅっぱーつ、っと」
鍵を閉め、駅に向かうため元気よく歩き出した。
歩き出して、その元気が勢いよく破壊された。
一瞬で、しかし徹底的に容赦なく、ほのかの前向きな思考は否定された。
足が重くなる。喜んでいいのか、悲しめばいいのか。それすら分からなくなる混乱だった。
郵便受けから――まるで舌を出すように、水色の封筒がその姿を覗かせていたのだった。
「片柄君、大変だよ!」
手紙を読んだほのかはすかさず、待積に電話をかけた。昨日、家に着く前に連絡先を交換したのだ。
「どうしたんだい? せっかく妹と風呂に入って髪を洗ってあげていたのに。まったく、こんな時に電話なんてかけないでくれないかな」
「え? 妹さんていくつだっけ?」
「十四かな。中二さ」
「何してるの! 幼女愛好者、引きこもり(ロリコン)、性犯罪者ー!」
ロリコンは犯罪ではないし、引きこもりはロリコンとは限らない。
とんでもない偏見だった。
「こんな話を信じないでくれないか。僕がそんなことをしそうな奴と思われているみたいじゃないか……」
待積の声が小さくなった。残念だったのだろう。
「あ、ごめん」
ほのかの謝罪にも、待積はいいよいいよと返すのみだった。
「……ところで、僕に電話なんでどうしたのかな?」
さっきから、待積の一人称は『僕』だった。昨日は『俺』だったのだが、気分の問題なのだろうか。
「実は、また封筒が来たの。今度は郵便受けに」
ほのかはすっかり落ち着いたようだった。分かりやすい衝撃を受けて、混乱が相殺されたのかもしれない。嫌な相殺のされ方ではあるが。
「それで、読んだのかい?」
「まだ読んでない」
ほのかは封筒を開けようとは思わなかった。一人で開ける勇気がないのかもしれない。
「そうか……今から、時間はある?」
「いえ、友達と遊ぶ約束をしてるの」
「じゃあ、今は読まない方がいいね。衝撃のあまり遊べなくなったらかわいそうだ」
「……分かった」
ほのかはそれだけ言って黙った。反論したり肯定したり、何かしらの意思を伝えたかったのだが、うまく言葉にならなかったのだ。
「じゃあ、二十時に公園で会おう。その時に手紙を持ってきて、それじゃあまた」
そう言って、待積は電話を切った。
「あれ?」
ほのかは、考えてしまった。自分は何を不自然な行動をしているのだろうと。
何故兄ではなく、待積に電話したのだろうか。
読んでいただき、ありがとうございます。