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小宇宙の故郷

作者: ねむみ

 先輩は『それ』を観察するとき、ときどき奇妙な歌を歌っていた。楽しげで、どことなく調子外れな感じがする、不思議な歌。少し謎めいた感じがする先輩にぴったりの歌だった。

「それ、どこの歌なんですか?」

 ただ、歌詞が上手く聞き取れなかった僕は、ある日先輩にそんなことを尋ねてみた。すると先輩は『それ』を指すと、小さく笑みを浮かべた。

「聞こえてくるの」

「な」

「真ん中の恒星から三番目、青っぽい色の惑星。白い星が公転してるからわかると思う」

 なにが、どこから、と訊く前に先輩は早口でそう説明してくれた。どれどれ、と研究室の作業台に乗せられた『それ』を覗き込むが、残念ながらなにも聞こえてこない。

「わかるかなあ。そこからときどき歌が聞こえてくるんだけど、私以外の人にはなかなか聞こえないみたい」

「めちゃくちゃ耳がいいんですね先輩……」

 腰を屈め、真横から『それ』を見つめる。頭ほどの大きさの『それ』――その鉢には、闇がなみなみに注ぎ込まれており、きらきらとした粉砂糖のような星が無数に漂っている。その中でも指の爪ほど、もしくはそれ以上に大きな星が数えられるほどあり、先輩はそれらを「よく育ってるでしょ」と得意げにすることが多かった。

「でもすごいですよね。鉢の中で生命が誕生するなんて。しかもひとつの星を覆い尽くしているとなると……」

「運がよかったの。最初適当に掻き回してたら、いい位置にその星が来ただけ」

そう言いながらも先輩は愛おしげにその星を見つめて、わずかな微笑みを口元にたたえていた。親指の爪ほどの大きさしかないその星は、真ん中の恒星や他のいくつかの惑星に比べてずっとずっと小さいが、一番豊かであることが一目でわかる。それは近すぎも遠すぎもしない位置で恒星に照らされ、生命が生きていける環境を獲得したからなのだと、先輩は言っていた。

「それね、さっきも言ったけど白い星が纏わりついてるでしょ? 可愛いよね」

 そう言ってにこにこと鉢の中を見つめる先輩は、とても学内有数の秀才には見えない。ガーデニングが好きなだけの普通の女性に見えるし、実際そういう感覚でこの疑似宇宙を作り出したのだろうとも思う。


 この学校にはいくつもの研究室があり、学生たちがそれぞれの好きな分野に分かれて様々な研究を重ねている。それは学外の人から見たら理解しえないものも多く、実際そこの研究員でもない限りよくわからない。工学系の研究室ではときどき閃光が瞬いているし、生物系の研究室では、危険な猛獣を縮小させて小籠の中で飼育している。

 校舎の三階にある天文系の研究室――僕の所属する研究室では、すでに存在するものを発見することが主な研究のだが、僕がまだ低学年の頃にいたこの先輩だけは異例中の異例だった。

「楽しげな生物ですよね。さっきの」

 ふと呟くと、先輩は「うん?」と言いながら、ポケットから折りたたまれた闇中スコープを取り出した。それをカシャンと広げたかと思えば、鉢の蓋を開けて、スコープの先を鉢の中に差し込んだ。こうすると星の詳細が見えてくるらしい。

「だって、歌を歌っていたんでしょう? それって楽しいから歌っているんじゃないですか」

「どうかなあ」

 先輩はスコープを横に置くと、作業台に突っ伏し、じっと青い星を見つめた。

「歌だけじゃない。泣き声も、なにかが壊れる音も、いつもしてくるよ」

 悲しげにそう呟く先輩の耳には、いつもどんな音が届いているのだろう。星は留まることなく恒星の周りをぐるぐる公転しており、歌声を聞こうとしたときの位置の反対側まで来ていた。

「楽しく歌っているのに、泣いているんですか?」

「うーん……そうみたい」

「感情が矛盾してますね」

「そうかなあ。でもある程度の思考能力を持つ動物って、往々にして矛盾した感情を持ち合わせているものだと思うよ」

「僕たちみたいに?」

「私たちみたいに」

 それが本当なら、この青い星にいる生命体がかなり高度な思考力を持っているということになるのではないか。僕は少し動揺して、そしてその高度な知的生命体を生み出したかもしれない先輩が少し怖くなった。

 そんな思いなどは露知らず、先輩は「そーだ」と言いながら、今度は鉢の中に小さな網を突っ込み、もう死んでしまった星をすくい集めた。そして作業台の下の戸棚から袋詰めの星を取り出すと、折りたたまれた口を開け、中にあらかじめ入っていたスプーンで粉砂糖のような星をすくい上げた。

 先輩は一日に一回、こうして老いた星を鉢から除いては、新たな星を落としている。こうして鉢の中の星の量を保っているのだそうだ。

「お手入れは大事よね。不安定なものだから」

 またガーデニングのお姉さんのような微笑みを見せる先輩。神様ってこんな顔してるのかな、と脈絡のないことを考えていると、研究室の入り口でなにかがバサバサと落ちる音がした。

「准教授!」

 床に散らばった大量の書類の中央で、慌ててそれらを掻き集めている女性。ときどき学生に間違われることもあるが、一応僕らの指導教員である。

「ごめんなさい。私ったら、両手がふさがってるのにドアノブひねろうとしたから」

「中から開けましたのに」

 歩み寄って書類拾いを手伝うと、准教授はにこやかにお礼を言って、眼鏡の奥の目を細めた。

「あら、あなたもいたのね」

 准教授は研究室の奥の先輩に気付くと、集めた書類を持って、彼女のもとへ、正確には鉢のもとへと歩を進めていった。先輩はその鉢の存在をまだ公にはしていないが、その准教授だけはどういう手を使ったのか、いち早くその傑作に気が付いていた。

「星を撒いてるの?」

「ええ、そうです」

 先輩は准教授を一瞥もせず、星を鉢の中に落としていた。そして近くのガラス棒で闇を搔き回し、それらを軌道に乗せる。

 何度でもいうが、先輩は学内有数の秀才である。研究熱心で結果も出しており、教授陣からの評価もすこぶる高い。しかし、彼女自身はどの教授に対しても心を開くことがないので、ひたすら腫物のような扱いを受けていた。

 しかし、この准教授は鉢の存在を知ってから先輩に対して親しげに話しかけることが多かった。研究者として興味が湧いているのが見え見えである。

「青い星になにか変化は見られた?」

「特には」

「他に生命が宿った星は?」

「今のところありません」

 先輩は横にいる准教授を気に留めることなく鉢の中をくるくると掻き回していた。と思えば急にその手のガラス棒を抜き取り、鉢の蓋をきゅっと閉めた。不意に准教授を見上げる。先程と比べてはっきりとした声で、口元には愛想のいい笑みすら浮かんでいる。なかなか見ない表情だ。そして僕はこれが近所の書店でアルバイトしている先輩の営業スマイルであることを知っている。

「准教授」

 なにかしら、と答える准教授。先輩は上目がちに准教授を見上げた。

「展覧会、やっぱり出品しないっていうのは、だめですか?」

 それを聞いた瞬間の准教授の顔は、研究室の入り口付近からは見えなかった。しかし一瞬間研究室の空気が冷たくなったような気がして、思わず視線を床に落とす。

「――なに言ってるの? それだけ素晴らしい作品なんだから、お披露目しない理由はないでしょう?」

「でも」

「もうエントリーしてるし、いろんな業界の方が楽しみにしてるの。日にちも近いんだから、今更キャンセルなんてできないわよね?」

 明るく聞こえる准教授の声には、得体の知れない高圧さがあった。ぞわっと背中に嫌悪感が走る。自分のことでもないのにひどく苦々しい思いに駆られた。それなのに当の先輩は、僕が視線を上げた時には営業スマイルを崩すことなく、准教授を見上げていた。

「そうですか。わかりました」

 従順そうに笑う先輩に満足したのか、准教授はよろしいとでも言うように息を吐きだした。それがまた少し怖くて、僕は視線を再び落とす。

 そうして准教授が出ていくと、先輩はふうと溜め息を吐いて鉢の中を覗き込んだ。その様子が少し弱って見えて、僕は居たたまれない気持ちになる。

先輩の作品が出品される展覧会は、あと数日で開催されてしまうらしい。そこに彼女の意思はない。

「作品って、なんなんだろうね」

 ふと先輩がそんな言葉をこぼした。真意を図りかねて思わず視線を投げると、彼女は「なんでもなーい」といつもの調子ですっとぼけてみせた。


     *


寮の部屋にいると、いつも列車の音が聞こえてくる。今ではすっかり慣れたものだが、入居当時は最終列車が通り過ぎるまでは眠りに就けなかったし、始発が通りかかると目を覚ましてしまっていた。

それらの音にも完全に慣れ、休日の朝を満喫していた僕を叩き起こしたのは、連絡機の着信音だった。

「……先輩?」

ぼんやりしながら連絡機のボタンを押すと、半透明な先輩の姿が空中に映った。向こうには枕に顔を半分うずめた自分の姿が映し出されているだろうが、気にしない。

「寝てたんだ」

「休みですから」

「そう」

「……」

「……」

 先輩はむっつりと押し黙ったまま、なかなか用件を話し出そうとしなかった。用がなくても連絡を取り合うような仲ではないので、きっとなにかがあるのだろう。

 じっと沈黙が横たわる中で再びうとうとしていると、先輩がようやく口を開いた。

「展覧会、行けない」

「――は?」

「進級するのに必須の試験がその日にあって」

「ちょ」

「准教授が代わりに行ってくれるんだって」

 思わず上体を起こして先輩の映像を凝視する。先輩は諦めた様子で息を吐き、

「准教授、ちゃんと鉢の手入れしてくれるかなあ」

 と心配そうにつぶやいた。もっとも僕とは心配する箇所が違ったけれども。

「その試験科目の担当教員、誰ですか?」

「准教授」

「……」

 窓の外から列車の音がしてくる。ますます事態が不穏な方向に動いた予感がして、僕は眉間に皺が寄るのを感じた。

「先輩、それ大丈夫ですか?」

「なにが」

「展覧会のプログラムとか、ちゃんと確認してます?」

「見せてもらってない」

「……そうですか」

 先輩も僕も再び黙り込む。そうして外で列車が走っている音が止んだあと、僕は思い切って口を開いた。

「僕はどうすればいいですか」

「君ってつくづく私に懐いてるよね」

「悪いですか」

 僕は少しむっとすると、先輩がわずかな微笑みを見せた。


     *


 驚くことに、先輩は自分の作品が出品される展覧会の名前を知らなかった。隠されていたからなのか興味がなかったからなのか確認したところ、鉢と一緒ならどの展覧会でもよかったなどと言うものだから頭を抱えた。

 同じ時期に開催される科学展覧会はいくつもあり、連絡機に付属している検索機能で引っ掛かったものを、連絡機越しに先輩と見ていく。

「そんじょそこらの学生作品の展覧会ではないですよね」

「わかんない。そうなの?」

「そりゃそうでしょうよ……」

 とは言ったものの、自分にもその確証はなく、ひとつひとつの詳細を見ていく。

 果てしない作業をしている僕の横で、先輩は自分の連絡機の検索機能で別の調べ方をしていたらしかった。

「疑似宇宙の出品がされているところは――」

「それもいくつかあるでしょうね」

 しかし知的生命体が住み着いた星が含まれている作品はそうそうないはずだ。僕は今の検索画面を弾くと、別の画面を呼び出した。

「なんて調べるの?」

「『知的 生物 惑星』でヒットするのがないかと思って」

 その読みは当たっていたらしく、対象の展覧会は一気に絞られた。順番に見ていくと、明後日開かれる展覧会で出品されるもののひとつが、僕たちの目を引いた。

「これ……」

 写真こそ載っていないものの、付けられたタイトルですぐにピンと来た。

「『命の星とその周辺』……だって」

「……」

 先輩は自分で付けたのではない作品名を呟くと、それを何度か口の中で転がして、不服そうにむくれてみせた。

「だっさ。誰が付けたんだろう」

「それは横に書いてありますよ」

 僕は空中に映し出された画面に二本指で触れると、そこに書かれている名前に向かって拡大した。

 先輩の目が大きく見開かれる。そこには案の定准教授の名前があり、先輩の名前はどこにもなかった。

「これって、犯罪ですよね」

 そろりと先輩の映像を窺うと、彼女はしばらくその画面を見つめた後、黙ってそれを弾いて検索機能を終了させた。

「学校のほうに連絡しましょうか」

「だめ。鉢の存在をなるべく知られたくない」

「なら、展覧会の運営にプログラムの訂正を求めるとか」

「そうだね」

 先輩はふうと息を吐き出し、髪を掻き上げると、わずかに眉根を寄せた。

「出品を取り消してもらう」

 先輩らしい決断だと、そのときは思った。ただでさえ渋っていたのに、准教授に制作者の座を奪われるところだったのだ。もう関わりたくないからに違いない。

「制作者の欄に名前がないといけない展覧会なんて、この鉢に相応しくない」

「……」

 そう思っていたのに。彼女の口から出たのは意外な理由だった。

「准教授に問い詰めようと思う」

「それはもちろんなんですけど、先輩今どちらにいます?」

「……研究室」

「僕が行くまで待っててもらえません?」

「……うん」

「先輩が気付いたとなれば、准教授もなにをしてくるかわかりませんから」

「そうだね……そう思う」

「先輩、どうかしました?」

 急激に会話のテンポが悪くなったような気がして、僕は思わず怪訝な声を出す。

 じっと先輩の映像を見つめる。先程より顔色が悪い。表情も固く、呼吸が浅くなったように見える。

「……なんでもないよ」

 そう言い切る先輩の顔に説得力はない。

「……やっぱり、来なくて大丈夫」

「どうしてですか」

 先輩は答えなかった。ただ、最後になにかしら決心したかのような表情を見せると、いきなり連絡機を取り落とした。僕は動揺して「先輩!」と連絡機に向かって叫んだが、がたがたと音がするだけでなにも返っては来ず、

「!」

 一瞬だけ、ちらりと教授用の白衣の裾が映ったように見えた。

それを最後に交信の途絶えた連絡機を握りしめ、僕は傍にあったジャンパーを鷲掴みにすると、部屋着であることも忘れて外に飛び出した。


    *


研究室には案の定人の姿も鉢もなく、先輩が普段鉢を保管している戸棚の鍵はかかっていなかった。恐る恐る開けてみても、中にはなにも入っていない。

先輩が、なんの理由もなしにこの研究室から鉢を持ち出すわけがない。そう確信していた僕は、とにかく先輩の安否を確認するべく研究室を後にした。

先輩はきっと抵抗したはずだ。准教授ひとりでそれを制圧したのなら、薬物か武器を使い、意識を失わせてから運んだと考えるのが妥当なのだが、

「いや、見てないよ?」

 近くの研究室にいた研究員に尋ねても、誰も先輩が准教授と一緒にいるところを見ていなかった。よもやと思い「大きな荷物を運んでいる准教授を見ていないか」と尋ねても、手掛かりになりそうな情報はなかった。

「その准教授、ここの研究室に来たよ」

 そう答えてくれたのは、生物系研究室に所属する友人だった。つかみかからんばかりの勢いで詳細を問いただすと、准教授は他の研究室の見学をしたいと言って猛獣たちを見せてほしいと言いながら入ってきたらしい。己が研究にとてつもないプライドがある彼らは喜んで猛獣たちの小籠をいくつか実験台の上に並べて見せたのだそうだ。

「小籠?」

「これだよ、これ」

 友人はちょうど実験台の上に置いてあった小籠を僕に手渡した。固い素材で出来たそれは、真上の透明な面から中の様子が確認でき、

「わっ」

 覗いてみるとその小籠の中には、通常なら大きくて凶暴なはずの猛獣が縮小されて入っていた。ガウッと威嚇され、思わず落としそうになる。襲わねーよ、と友人が茶化して小籠をひょいと僕から受け取った。

そうだった。生物系研究室にはこういう器材が置いてあるのだった。こんな、危険な猛獣を縮小して入れておけるような――

「なあ、今って何匹の猛獣を小籠に入れて飼育してるんだ?」

「四十七匹」

「数えさせてくれ」

「え」

「早く」

 戸惑う友人をせっつき、他の研究員たちに訝しげな目で見られながら、小籠を保管してあるという戸棚の鍵を開けてもらう。

思った通り、そこには四十七個の小籠が保管してあり、実験台の上にあるものを合わせると四十八個になった。

「どういうことだ?」

 友人が他の研究員に新参猛獣の確認をしにいっている間に、実験台の上にぞろりと並べられた小籠の中を確認していく。幾多の猛獣に睨まれ威嚇され、びくつきながらお目当ての猛獣(・・)を見つけた僕は、蓋をキュキュと回して、小籠を床の上でひっくり返した。

「!」

 床に走った衝撃となにかの落下音で、研究室内の全員がこちらを見た。元の大きさに戻りながら出てきた先輩は、背中から落ちた衝撃でケホケホと咳込みながら、僕をじろりと見上げた。

「助けてくれてどうもありがとう」

「表情と台詞が合ってないように感じます。准教授は?」

「私をここの研究室の猛獣たちの中に紛れ込ませてから、どこかに行ったみたい」

 研究室内が驚きでざわついてくる。事情を話している時間はないと感じた僕は先輩の腕を取り、ごめんなさいごめんなさいお騒がせしました、とひたすらに謝りながら研究室を飛び出した。

「時期からして、もう展覧会の会場に向かっていてもおかしくはないはず」

「じゃあ、駅に向かっている可能性が高いですね」

 廊下を駆け足で進みながら話し合う。普段から運動している気配が少しも感じ取れない先輩は走り始めから息が荒くなっていたが、なんとか僕と並ぶために必死だった。すれ違う人たちが何事かと思って振り返るが気にしてはいられない。

「生物んとこの見学してたって言うし、まだ遠くには行ってないとは思うんですけど」

「それに鉢を抱えているはずだから、そんなに飛んだり走ったりはしないはず。そこまで丁寧に扱わなくても鉢さえ割れなきゃ大丈夫なんだけど――ああ、もう、どうしよう。今日まだ星の量の調節してない」

 今その心配なのだろうか、と突っ込みたくなったが、ガーデナーとしては日々の手入れを少しでも怠るのが嫌で仕方がないのであろう。笑ってしまうくらい研究者肌なのだ、この先輩は。

「この世界の神様も、俺たちの住んでるところの手入れをしてくれているんですかね」

「神様なんていないよ」

 荒い息とともに吐き出された言葉は、僕の胸部が冷や水を浴びたと錯覚するほどに冷たく冴えていた。僕は「え」と短く発することしか出来ず、その瞬間に少し先輩に追い抜かれた。

 そっか。そうなんだ。とやや衝撃を受けた胸元を押さえながら、先輩の後頭部を見つめる。無神論者の友人などいくらでもいるし、これまで「神はいない」と声を大にして言っているのを何度も聞いてきたが――その都度、僕はそっとあの鉢と知り合いの神様を思い浮かべては、心の中でその意見を否定してきたのである。

 あの鉢を知って、この世界にもきっと神様がいるのだと思っていたのだが。

「――君はさ」先輩が急に振り返って尋ねてくる。「自分のお父さんやお母さんが、自分の神様だと思う?」

「まさか」

 首を振って否定する。両親のおかげでこの世に存在はしているが、神様だと思ったことは一度もない。

「じゃあ制作者?」

「僕は作品じゃないんですよ」

「そういうことだよ」

 先輩は再び前を向くと、今度はもっと力強く、熱を持った声で言った。

「神様も制作者もいない。いるのはただ、生み出すものと生まれるものだけ」

 そこまで言われて、僕はどうして先輩が展覧会への出品を嫌がったのかに気が付いた。

「先輩――」

「あ、ごめん、先行ってて」

 そのとき、先輩がぴたりと立ち止まった。後を追う形になっていた僕は思わずぶつかってしまったが、先輩はみじんも気にすることなく「ちょっと用事あるから!」と正門とは別の方向に向かって走っていってしまった。離れて見ると、本当に運動が出来ない人の走り方だと思った。

「絶対に准教授を捕まえてね!」

 振り向きざまに残していった言葉に、辺りの生徒がどよめくのがわかった。もっと伝え方を考えてくれないだろうか……と恨み言を垂れ流したい気持ちを押し殺し、視線を振り切るようにして僕はまた走り始めた。


     *


 すでに通勤ラッシュの時間帯も過ぎ、駅は閑散としていた。そんな中で准教授の姿は比較的見つけやすく、僕がホームに駆け下りて彼女の姿を捉えるまでにそこまで時間はかからなかった。

「准教授」

 声をかけるのと、ホームに列車が滑り込んできたのはほぼ同じタイミングだった。准教授はこちらを振り向くと、ほんの少しだけ瞠目して、冷めた視線で僕を見据えてきた。彼女の鞄は不自然に丸く膨らんでおり、そこに先輩の生み出した世界がきちんと存在していることにとりあえず安心する。

 しかし、今はまだ准教授の手元にある。不用意に手を出したらどうなるかわからない。急いで走ってきた勢いのまま取り返せるものではないのだ。

「……ああ、あなたね。どうしたの? 大好きな先輩のおつかい?」

「……」

「研究熱心なだけの学生に見えて、後輩の扱いが上手いのね」

「鉢を、返してください」

「嫌よ」

 准教授の視線が厳しくなった。鞄の紐を握りしめる手に力が入り、靴の爪先がこちらを向いて尖っていた。

「あの子、こんな奇跡のような作品を作っておきながら、どこにも発表しようとしないじゃない。だったら私が発表したっていいでしょう」

「それは」

 列車の扉が開き、客が乗降を始める。言いかけた言葉を聞くことなく、准教授は列車に乗り込もうとした。思わず腕をつかんで制止する。

「なによ。叫んで駅員に来てもらいましょうか?」

「先輩は、それを自分が作ったとは言っていません」

「は?」

「ただ、偶然に生まれたものだと言ってて――」

「……」

「先輩は、その鉢に制作者を付けたくなくて――」

「……」

「――その世界を持っているからって、准教授がその世界の神になれるわけじゃないんですよ」

 その一言を聞いた准教授の表情が豹変した。目を剥いて歯をぎゅっと食いしばったかと思えば、僕の手をパンッと振り払い、鞄の中から鉢を取り出した。

「いいえ、神になれるわ。だって私がこの鉢を砕けば世界が終わるし、星を撒かなければ数が減ってしまうもの。私が手をかけないと死んでしまうものなのよ。だったら私が神なのよ。神でもいいでしょう!」

 頭上に思い切り振り上げられ、鉢の中の闇がゆらりと揺れた。僕は反射的に鉢に手を伸ばし、准教授と揉み合いになった。



 鉢さえ割れなきゃ大丈夫なんだけど――



 先輩の言葉が鮮明によみがえる。あの世界を守らないと。先輩の、後輩として。

「っ!」

 鉢が准教授の手を離れ、僕の背後に飛んだ。准教授も僕も、はっとしてそちらを振り向く。

 世界が壊れる。それはきっと、今准教授と揉み合っているこの瞬間にこの世界が一瞬で消滅するようなものなのだろうと思う。

 世界が消滅する瞬間ってどういうものなのだろうか。なんとなく空が割れるようなものを想像しているのだが、先輩はなんて言うのだろう。

「――想像を絶するわ」

 発車ベルがうるさく鳴り響く中、僕はその声をなぜかきちんと聞き取れた。よく知った声だからだろうか。知らず知らずのうちにつぶっていた目を開き、自分の背後をきちんと見つめる。ホームに尻もちをつき、鉢を大事そうに抱えていたその人は、僕の問に自分なりの答をしっかり提示してくれていた。

「この星の住人が世界の終わりになにを見るのか……ところで空って割れたりするものなのかな」

「先輩」

「乗るよ」

 その一瞬の掛け声で、僕は先輩の後に続いて列車に飛び乗っていた。発車ベルが鳴り終わる。准教授が続いて鉢に手を伸ばしながら飛び乗ってこようとしたが、

「入って――」

鉢を持った先輩の目が、見たことのない色でぎらりと光った。

「くんな」

 ポケットから薄っぺらいなにかを取り出し、叩きつけるように准教授の顔に投げつける。

「え」

 唐突な攻撃に僕と准教授が戸惑っている間に、列車のドアは重い音を立てて閉まった。ガタゴトと発車しながら、ホームに准教授をひとり置いてけぼりにしていく。追ってくる視線が夢に出てきそうなほど恐ろしくて、僕はドアからそろりと離れた。

「……」

「……」

 ちらり、と先輩と目を合わせる。一生懸命走ったのか額には大粒の汗が浮かんでいる。それは僕も同じだとは思うが。

「……座ろうか」

 先輩が鉢を大切そうに抱えながら僕を促した。改めて見渡すと、列車はまばらで席の空きも多かった。

僕は先輩が真っすぐ向かっていったボックス席に黙ってついていき、彼女の向かいに腰を下ろした。先輩は膝の上に鉢を置くと、ふうと息を吐き出して、窓枠に肘をついた。

「……さっき投げたの、なんだったんですか」

「……あの准教授、他にも悪いこといろいろやっててさ。他人の論文の剽窃したり、作品盗んだり。いつか告発しようと思って前々から罪状をまとめてたから、それをいろんな証拠証言込みで学部長に報告しに行ったの。で、あれは学部長から預かってきた解雇通知。音速で発行してもらった」

「ああ……」

 これで今後、准教授がなにをどう騒いでも信じてもらえないようにするということらしい。先輩も相当怒っていたんだな、と今更になってしみじみと思う。

 それだけ教えてくれると、先輩はもうなにも言わなかった。この列車に乗ってどこまで行くのかも先輩は言わなかったし、僕も訊かなかった。

ガタゴト、ガタゴト。寮にいるといつも聞こえてくる音だ。大学のある街やその周辺、そしてさらに遠くを繋ぐ列車。自分たち天文系研究室の研究員たちが闇を採取してくるときにも利用している。

僕は鉢を注視してみる。激しく振り回してしまったが、中にある星々は無事のようだった。

恒星から三番目、周りを白い星が公転している青い星。先輩が「生まれたもの」と言っていたものが住んでいる。

「先輩は、お母さんなんですね」

 ぽつりと落とした言葉に、先輩はなにも返さなかった。ただ、窓の外に向いている顔に、わずかばかりの笑みが浮かんだような気がした。


     *


 かなり遠くまで来たような気がする。これ以上進むと、運賃が大変なことになりそうで、僕は少しひやひやしていた。

「先輩、どこまで行くんですか」

 僕の質問に、先輩は「えっとね……」と返しつつ、ポケットから折りたたみ式の闇中眼鏡を取り出した。

 列車が次の駅のホームに滑り込む。これより先は、研究員たちと行く領域であり、学校の経費で運賃が落ちるはずのところなのだが。

「先輩」

「待って」

 ドアが開く。ここで降りるのでなければ、次は「あっち」に出てしまう。

「先輩」

 先輩は鉢の蓋を開けて、闇中眼鏡の先を差し込んだ。恒星の周りを公転する青い星を追いかけて注視する。

「先輩!」

「しー……」

 しーじゃないです、とむくれながらドアが閉まるのを残念な気持ちで見つめる。あーあ、と僕が溜め息を吐いたのと、それはほぼ同時だった。

 突如として、狂ったような笑い声が響く。

 ぎょっとして、この車内のどこにそんな笑い声をあげる不届き者がいるのかとキョロキョロするが、僕ら以外の乗客の姿は見えなかった。みんなここに来るまでに下りてしまったのである。その笑い声の正体は、信じたくはなかったが、目の前の人物で間違いなさそうだった。

「せん……ぱい?」

止まらない様子で、栓が抜けたかのように笑い声を漏らし続ける。今まで溜め込んでいた分が大放出されたかのようだ。こんなふうに先輩が楽しそうに笑うところを、僕は見たことがなかった。

 列車は「あっち」のほうに差し掛かっていた。普段の空も街の風景も徐々に見えなくなり、窓の外は漆黒に塗りつぶされていった。

 鉢の中は、疑似宇宙だ。その中を満たしている闇をどこで採取してくるのかと言えば、それはもちろん、本物の宇宙である。

「見て、宇宙だね」

「……宇宙ですね」

 僕は馬鹿みたいに同じことを繰り返すしかなかった。先輩は楽しそうに窓の外を眺めていたかと思えば、突然、列車の窓をがたんと上に上げた。

「ちょっと先輩!」

 列車には特殊な処置が施してあり、宇宙で窓を開け放したとしても闇が入ってこないようになっている。けれども宇宙はとても風が強いので、僕は顔を軽く右手で覆った。

「何するんですか! 早く閉めてください!」

 そんな僕の声には一切返事をせず、先輩は鉢の蓋を閉めると、それを窓の外に掲げてみせた。

「え」

 そのまま迷いなく車体に打ちつける。

 がしゃんという派手な音。粉々に砕け散った鉢。中からその美しい軌道を保ったまま出てきた星々は、猛スピードで風に流されながらどこかに消えていってしまった。

「な」

 にしてるんですか。そう怒鳴りつける前に、先輩は「すごい」と溜め息のように言葉を吐き出した。

「青い星の周りに、白い星が公転してるって言ったでしょ」

 戸惑い、言いたいことをすべて飲み込みつつ頷く。

「彼らがね、行ったの」

「え」

「青い星を飛び出して、白い星に行ったの」

 興奮冷めやらぬ様子でうわ言のように話し続ける先輩に、僕はなにも言うことが出来ない。

ただ、そのとろけるように嬉しそうな笑みが、子の成長を喜ぶ母親のようで呆気に取られているしかなかった。

「楽しみだな。いつか私にも会いに来てくれるかな」


サークルの部誌にねむみ名義で掲載したものです。

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