クリスマスには雪を降らせて
楽に死ぬ方法をネットで検索していた僕を見た彼女が、首を振ってそれを否定した。失敗した、と思った。まさかこのタイミングで彼女が現れるとは思ってもみなかったのだ。
「クリスマスが終わったら、あなたの前から消えるから」
そう言って、真っ直ぐに僕を見つめる彼女は、その大きな瞳からこぼれ落ちそうな滴を必死になって堪えているようだった。
「――知ってるよ」
彼女は小さく頷いて「だから」と僕から視線を外した。小柄な彼女がいつも以上に小さくて儚く見えたのは気のせいなんかじゃない。
「だからせめて……。それまでは一緒にいさせて」
普段の彼女からは考えられない程にか弱い声は、心なしか震えているように聞こえた。彼女の視線の先、窓の外にはみぞれ交じりの雨が降っていて、冷え切ったこの世界からさらに熱を奪おうとしているかのようだった。
死ぬのはもう少し待ってほしいと、彼女がそう伝えたかったのだろうという事が分かった。もちろん本当は、死んで欲しく等ないと思っているのだろうけれど。
彼女に言われたからとか関係なく、僕は最初からクリスマスまでは生きているつもりではいたのだ。
僕らが初めて出会ったのは、ちょうど三年前。今と同じクリスマス前の事だった。
運命を感じるような事は何もない。きっかけは、ただの合コン。くだらない話で盛り上がり、意気投合した僕らは連絡先を交換した。僕の方からデートに誘い、三度目で告白をして晴れて彼女と結ばれた。どこにでもあるような、ありふれた馴れ初め。
ありふれた関係。
ありふれた日常。
そのありふれた事がどれだけ幸せな事なのか。
僕には痛い程、よく分かる。
クリスマス前のこの季節。
華やかに彩られた街並みの中、幸せそうに手を繋いで歩く恋人達の姿を見て、羨ましさを感じてしまう。僕は今、一人きり。雨上がりの僅かに湿り気の残った風を頬に受けながら、足取り重く、郵便ポストへと向かっていた。
辿り着いたポストの前には家族連れがいて、楽し気に会話をしながら希望のプレゼントが書かれたであろう手紙を投函していた。
サンタクロースからのプレゼントが送られてくる確率は、およそ一億分の一。
ゼロに等しい確率ではあるけれど、それは確かに存在していて、手紙に書かれたプレゼントを必ず差出人の元まで届けてくれる。
例え書かれたそれが、死んでしまった人の名前であったとしても……。
もちろん、いくつかの条件はあるけれど、彼女の場合は問題なくその条件に当てはまっていた。
――はずだった。
「なんでだよ……」
どう考えても自分の手紙が選ばれる事などないと分かり切っていた。それでも、どんなに確率が低くても、ゼロでないのなら、それに縋りたいと思ってしまう。逆の立場だったら、きっと彼女だってそう思っていたはずなのだ。
葬式が終わってから、四十九日を迎えるまでの僅かな期間。肉体が死んでしまった魂達には選択肢が与えられる。子供でさえ知っている当たり前の事実。
大切な誰か一人の前に、姿を現すかどうか。
どちらを選ぶのもその人の自由で、そこに何のリスクも条件も存在しない。だけど選ばれた人にとってはそうじゃない。とても残念な事に、サンタクロースから貰えるプレゼントの選択肢からは外れてしまうのだ。
一億分の一というゼロに等しい確率だと分かっていても、それを失う事は、僕にとっては大き過ぎる損失だった。
「ごめんね」
幽霊となり、僕にだけ視えるようになった彼女が力なく項垂れる。どうしようか迷っていた時、僕があんな事を調べていたから居てもたってもいられずに、姿を見せたのだそうだ。
結局僕の為に彼女が動いてくれたのだ。それが悪いはずなんてない。むしろ最後に僕に会いに来てくれた事を喜ぶべきなのだ。そんな事は分かっている。
分かっているはずなのに、どうしてこんなにもやりきれない気持ちになるのだろうか。
「いや、僕の方こそごめん。大丈夫だから」
強引に笑顔を作って見せた。
久しぶりに笑ったせいで、引き攣ったような変な表情になってしまったけれど。
「変な顔」
そう言って彼女が笑う。
当たり前のように傍にあったその表情が、酷く遠くに感じられた。
「悪かったな、変な顔で」
「怒らないでってば。そんな事よりも手紙には何て書いたの?」
「これにしたよ。欲しい物は特にないから」
彼女に見せるように取り出した手紙。希望するプレゼントの欄には『雪』の一文字。それは確率に影響されない唯一のプレゼント。手紙を出した人の十%以上が希望する事で叶えられるそれは、世界中の空から舞い降りて、真っ白な優しさで全てを包み込んでくれる。全ての人に平等に送られるプレゼント。それを僕は、今回初めて手紙に書いた。
ホワイトクリスマスには奇跡が起こる。
嘘か本当か、そんな噂を耳にしたことがある。残念な事に生まれてからずっと、ホワイトクリスマスに巡り合えた事はないけれど。
でももしも。
もしも今回のクリスマスに雪が降ったなら……。
「そっか、雪か。降ると良いね」
期待のこもった目で、空を見つめる彼女。
その姿は薄らと透けていて、僕が伸ばした手が触れる事は決してない。分かっていながら伸ばしてしまった手は、案の定、空を切ってしまった。僕は彼女に触れる事の出来なかった右手を見つめて、小さくため息を吐き出した。口から出た息が、白く色付いて宙に漂う。ふわふわと、ふわふわと。そしてゆっくりと希薄になり、消えていった。まるでこれからの彼女のように。
手紙を投函した帰り道。
ぼんやりと歩く僕のすぐ隣、彼女がふわふわと宙に漂っている。
その姿はあまりにも非現実的でありながら、生前の彼女よりも生気を感じてしまうのだから不思議でたまらない。
でも、こうなる事は初めから分かっていたのかもしれない。
彼女の病気が発覚したのは付き合い始めてから僅か半年後で、僕らの思い出は病院の中がほとんどだった。いつか再びありふれた日常に戻れる事を願いながら、サンタクロースへの手紙にも、彼女の病気を治す為の特効薬を書いていた。
叶う事などないと、気付いていながら……。
「やめた」
「急にどうしたの?」
「ごめん、何でもないよ」
ウジウジと感傷に浸るのはやめだ。せっかく今、こうして彼女が傍にいてくれているのだから、このかけがえのない時間を楽しまなければ勿体ない。
不思議な表情をしてこちらを見ている彼女に微笑んで、僕は大きく伸びをした。その流れで深呼吸。胸いっぱいに吸い込んだ、冷たい空気が心地良い。
大丈夫。
そうやって自分に言い聞かせて、僕は気持ちを切り替えた。
幽霊となった彼女と過ごす時間は、冬に吐く白い息のように幻想的で温かかった。それでいて酷く儚げで、望んでいたありふれた日常からは随分とかけ離れたものだったように思う。
息を吹き掛けた指先が、ほんの少しだけ温まる。だけどそのすぐ後に、冷たい風に吹かれて急激に冷まされる。吐き出した息によって湿り気を帯びた分、その前よりもさらに冷たく……。
幽霊になってしまった彼女は、まさにそれと同じ。
冬に見る白い幻。
ふわふわと漂って、すぐに消えてしまう一瞬の温もり。
瞬く間に過ぎ去っていく毎日の中、日を追うごとにその存在が希薄になっていくような、そんな錯覚を僕に抱かせた。
「もうすぐだね」
見上げた先には大きなツリー。
駅前に飾られた色とりどりの明かりが、駅を利用する人々を楽しませている。これが見られるのも後僅か。イブという事もあって、たくさんの恋人達が手を繋いで歩いている。
「行こうか」
繋ごうと出しかけた手を、ポケットに入れて歩き出す。すぐ傍にいるのに触れる事さえ出来ない寂しさを噛み締めながら。
サンタクロースというのは、神様が世界を幸せで満たすために送り込んだ天使の一人なのだと、幼い頃に読んだ本に描かれていた。老若男女、善人も悪人も関係なく、全ての者へと与えられる幸せになる為の権利。だから、どんなプレゼントを望むのもその人の自由。しかし送られるプレゼントは誰かの幸せを願う優しい気持ちに応えるモノばかりだ。それはきっと、神様がそんな世界を望んでいるからなのだろう。
クリスマス当日の午前零時ちょうど。
サンタクロースがプレゼントを配る。星々が輝く夜空をトナカイがひくソリで駆けながら。その姿は世界中どこにいても、空を見上げれば見る事が出来る。時差の存在さえもなかった事にしてしまう、年に一度きりの不思議な光景だ。
「あれ?」
隣で眺めていた彼女が首を傾げる。
その理由は聞かずとも分かる。毎年のように眺めていたその光景が、今年はいつもと違っていたから。ソリが走った軌跡が輝いて白い何かが舞いだしたのだ。それが雪だと気付いたのは、果たしてどちらが先だっただろうか。次から次へと舞い降りる雪の中、家から飛び出した彼女が妖精のように飛び回る。その姿は驚くほどに幻想的で美しく、童話の中へと迷い込んでしまったのではないかと、錯覚してしまう程だった。
「ただいまー」
「おかえり」
満面の笑みを浮かべて戻って来た彼女の、その頭に積もった雪へと手を伸ばす。髪に付いた雪を払い落とし、冷えてしまった頭を撫でている途中で気が付いた。
「あれ? どうしたの? 何で泣いてるの?」
「だって、それは……」
――彼女に触れる事が出来たから。
ずっと望んでいた事だった。嬉しくて嬉しくて言葉が出てこない。
でも……。
同時に分かってしまう。この奇跡の時間はクリスマスである今日一日だけ。舞い降りた雪によって、世界中に届けられた一日限りの幸せだった。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな日差しで目が覚めた。腕の中では幸せそうな表情で眠っている彼女の姿。夢でも幻でもない、幸せな現実がそこにあった。乱れた彼女の髪を直すように、そっと頭を撫でる。しなやかで美しい黒髪は一撫でする毎にまとまっていく。
「んん……」
「おはよう」
腕の中、目が覚めたばかりの彼女に微笑んで自らの方へと抱き寄せた。素肌を通して感じる彼女の温もり。もう決して感じる事など出来ないと思っていた。少しでも気を抜けば、涙がこぼれ落ちてしまうだろう。
穏やかで優しい朝の時間を、僕らは二人、のんびりと過ごしていた。
少し遅い朝食を取った後、二人で散歩に出かけた。どちらが言い出した訳でもないのに、自然とそうなった。もしかしたら、ずっと病院で過ごしていたからなのかもしれない。
「不思議だね」
繋いでいない方の手を青空に向けて掲げた彼女。指の隙間から覗く太陽に目を細めた後で、くるりと返したその手で、舞い降りてくる雪を捕まえる。彼女によって捕まえられた雪はゆっくりと白く光りながら消えていく。そして消えてなくなった後には何一つ残っていなかった。
この雪は偽物なのだ。
溶けて水になる事もなければ、路面が凍結する事もない。白くて少しだけ冷たい、雪のような何か。幻想的で儚くて、それでいて優しくて。何もかも包み込んでくれる偽物の雪。
辿り着いた公園で、何気なく見つめた先。
いつも一人でベンチに座っていたはずの、名も知らぬ老婆の隣には優しそうな老紳士の姿があって、二人とも楽しそうに笑っていた。
周りを見渡せば同じように、幸せそうに笑う幾人かの姿。二人で過ごす人もいれば、家族で過ごす人達もいて……。
ふと気付いて隣を見た。
彼女の視線の先にあったのは、小さな子供と楽しそうに遊んでいる若い夫婦の姿だった。
「会いに行ってみようか」
「え?」
「家族に会いたいんでしょ?」
「いいの?」
「うん、良いに決まってる。一緒に行こ?」
「ありがと」
どんな奇跡が起こったとしても、彼女は一人きり。同時に複数の場所に現れる事なんて出来る訳がない。きっと今、彼女の両親は落胆している事だろう。せっかく雪が降って奇跡が起きたのに、自分達の下には娘が現れてはくれなかったのだから。
車を運転して彼女の家へと向かう。
幸いな事に同じ市内で、どんなにのんびり車を走らせても三十分もあれば余裕で到着する。事前に電話をしておいたおかげか、彼女の両親は死んだはずの娘との再会を、すんなりと受け入れる事が出来ていた。
「ありがとう。連れて来てくれて、本当にありがとう」
彼女の両親が僕に向かって頭を下げる。それを必死でやめさせて、彼女の背中をそっと押した。
「行っておいで」
「うん」
送り出し、こっそりと車に戻る。
エンジンをかけて目を閉じた。親子水入らずの時間を邪魔する訳にはいかないから。
コンコンと窓が叩かれた音で顔を上げれば、彼女の父親が一人で立っていた。車から下りると、改めて頭を下げられた。
「娘を連れて来てくれて本当にありがとう。今朝、事情を知った妻の落ち込みようと言ったら……」
「すいません」
「いや、君が悪い訳じゃない。娘が俺達よりも君に会いたかったという事だから」
なんて言って良いのか分からなかった。返す言葉を考えていると、先に向こうが口を開いた。
「申し訳ないけど、後一時間だけ、時間をくれないか? その後でちゃんと解放するから……」
そう言ってまた深々と頭を下げられた。
その願いを断る事など、僕には出来なかった。大切な人と一緒にいたい気持ちは、痛い程よく分かるから。
僕が了承の意を伝えた後、お礼を言って去って行くその背中がやけに小さく見えた。
彼女の家からの帰り道。
両親の話題には一切触れなかった。これが本当の意味での最後の別れになるのだから。
だから、だろうか。暗い気持ちを誤魔化すように、僕らは二人、車の中でカラオケ大会を楽しんだ。出会った当時に流行っていた懐かしい曲のメドレーに、あの頃の初々しい恋心を思い出しながら。
幸せな時間が流れて行く。
穏やかで優しいその時間は瞬く間に過ぎていった。常に一緒にいながら、たくさんの言葉を交わし、抱き締めてキスをした。身体を重ね、その存在を忘れないように必死だった。
そんな、かけがえのない大切な時間がもう少しで終わりを迎える。
窓の向こうではとっくに雪がやみ、世界中を包み込んでいた優しい雪が淡く光って消えていく。それと共鳴するように、目の前にいる彼女の存在までもが薄れていってしまう。
「ありがとう。またこうして、あなたと過ごせて良かった」
「うん、僕もだよ」
半透明になってしまった彼女の手を握りながら、最後の時間を惜しむように言葉を交わし合う。時計を見れば、もうほんの僅か。シンデレラにかけられた魔法が解けるのと同様に、零時ちょうどに、クリスマスの奇跡も終わりを迎える。
「ねぇ、お願いがあるの」
「何?」
「生きて。ちゃんと生きて、幸せになって」
「それは……」
頭では了承しようとしていながら、口から出たのは、はっきりしない言葉だった。
「大丈夫。あなたはもう、大丈夫」
握っていた彼女の手の感覚が不意になくなった。
「待ってくれ! もう少しだけ……」
「ごめんね。もう時間みたい。あなたに会えて本当に良かった」
「……」
何か言おうとして、こんな時に限って何も言葉が出ない。流れ出る涙をそのままに目の前の彼女をただ見つめていた。
「ありがとう」
最後にそれだけ言って、彼女は僕の前から姿を消した。何気なく見た、窓の外。そこにはもう、何もない。あれだけ美しく光り輝いていた雪はなく、ただ暗闇だけが広がっていた。
そうして僕は、再び独りになった。
残っているのは喪失感と、それ以上の優しくて温かい思い出だった。
「これじゃ、死ねないじゃないか……」
クリスマスに雪が降ったら、生きようと決めていた。
だけどそんな僕の決意などお構いなしに、死にたいと思う気持ちが完全に消えてなくなってしまっていた。
「分かったよ。生きるから。生きて幸せになるから」
胸の中に残った温かなこの気持ちを、僕はこれから守り続けて行く。そして彼女に言われた通り、いつか絶対に幸せを掴んでみせる。
クリスマスが終わった後で、消えてしまった彼女に向かって宣言した。
もう決して会う事のない、彼女に向かって。