関ケ原へ向けて 三成編
石田三成目線での、関ケ原へ向けての動きです。
太閤殿下の死後。
五大老の一人。徳川家康殿は、婚姻の斡旋などを独断で行っている。
これは、豊臣家に対する反逆行為だ。
高台院様と淀殿との不仲。
どうにかして、立て直さなければ……。
「落ち着け。こちらが慌てれば、徳川殿の思い通りじゃ」
「あ、あぁ。すまない」
利家がいなければ、この均衡は保てていないな……。
「わしも長くはない。気を付けるのじゃぞ」
「あぁ」
しかし、数日後。屋敷にて。
「報告がございます」
「なんじゃ」
「前田殿がお亡くなりになられました」
「なんじゃと!」
このままでは……
「いかがいたしますか」
「…………」
「よい方法があるぞよ」
「あなた様は……!」
その日の夜。
「緊急事態です!」
「なんじゃ」
「一部の武将たちが、加藤殿の屋敷に集結しております」
清正たちか……。
「…………」
「いかがいたしますか」
「佐竹殿を頼ろう」
「かしこまりました」
しかし。
「大変です!」
「なんじゃ」
「武将たちが殿の不在を知り、大名屋敷をしらみつぶしに探し始めました」
思ったより早かったな。
「…… ……」
「いかがいたしますか」
「宇喜多殿を頼ろう」
大老の屋敷までは来ないだろう。
「かしこまりました」
かくして、一時難を逃れることはできた。次は。
「伏見の屋敷に行くぞ」
「伏見ですか?」
「そこで徳川殿に仲裁を頼む」
「徳川殿に?」
「いかに徳川殿とはいえ、伏見城を戦火にさらしはしないだろ」
「かしこまりました」
そして、徳川殿が出した条件は、
「今は抑え込むことができたが、いつ再び襲われるかわからぬ。おぬしは奉行職を退き、隠居するがよい」
命が助かる以上これくらいはせねばな。
その後。隠居しつつも情勢を確認していると、徳川殿の強引な態度に反発するものが増えていることが分かった。
「そろそろか……」
「そろそろですな」
「直江殿に連絡はとれるか」
「すぐに」
「頼むぞ」
上杉、反徳川派と呼応して、なんとしても。
慶長五年(一六〇〇年)六月。行動開始。