Exodus 《逃走》
脚が折れそうだった。動力源が今にも絶えそうだった。腕が千切れてどこかへすっ飛んで行きそうだった。それでも僕は駆け続けた。
日の沈みゆく大学構内を飛び抜け、行く宛もなく走り続けた。大学の外なんて何があるか分からない。分からなくても、いまいる場所よりずっとマシに思えた。僕は、ともかくどこでも良いから、今いる此処より遠い場所に行きたかった。逃げたかった。
しばらく僕は、周りの情景などまったく気にすること無く、脚を動かし続けた。どの道を進んでいようがお構いなしだった。ただ病院より遠くへ、一歩でも遠くへ行ければそれで良かった。
きっとそのときの僕の姿を見た者たちは、なんであいつはあんなに急いでいるんだろう? と思ったに違いない。
――急いでいるんじゃない。逃げているんだ。
いったい何時間走り続けていたのだろう。そのうち日も暮れてきて、あたりは暗くなってきた。街には街灯の明かりがあったけれど、しかし裏路地に入るとそれもパタリと途絶えてしまい、気づけば真っ暗になっていた。
ちょうど僕の体力が尽きたのも、そのような真っ暗な場所だった。ちょうどビルとビルの合間らしく、背比べをする煤けた壁のせいで明かりが入って来れずにいる。倒れた僕は、その壁に背をもたれかけて、一息ついた。
疲れを知らない体、という訳ではない。僕の体は軍用規格準拠らしいが、それでも長時間走り続ければガタが来る。熱く火照った体が、休ませろと悲鳴を上げていた。それがまた脳に「疲れた」というコードに変換を要求し、アマテラスを介して再び全身に行き渡る。
僕は腰を降ろして機械義肢に休息を与えた。そしてそのときが、僕がようやく外の世界をしっかりと目にした、初めての時だった。
曇り空。夜のくぐもった空は、月を覆い隠してしまう。病院で見た月も変わらず隠れていたけれど、しかしここで見る月は、よりいっそう雲隠れしてしまっている感じがした。
風景自体は、大学構内と変わらない。しかし、いま僕が座っている路地裏は、少なくとも大学内には無いものだった。散らかったゴミ箱は、おそらくビルのオーナーが外へ出したものだろう。猫が餌を探してひっくり返した跡がある。ゴミがあたりに散乱していたけど、それを片づけるような清掃員はいない。ビルの壁だって掃除が行き届いていないし、地面に至っては小便のすえた臭いがする。正直、腰を降ろすが億劫だったぐらいだ。
それでも僕の体の各部は休ませてくれと唸っていたし、その司令塔たる脳も疲れていると信号を発した。だから僕は、外の世界をもっとよく見る前に目を閉じることにした。
とても疲れていたからだ。何もかも。ここにいることに、とても疲れた。罪の意識が僕を追いかける。それから、一度離れたかったのだ。
*
〈Setup process beginning...〉
〈Code=F : Connecting to AMATERASU...〉
やがて僕が目を覚ましたのは、義肢の各部が『痛み』という名の信号を発したからだ。
どすん、どすんと全身に響く衝撃。休眠状態にあった僕は、徐々に意識を回復。いまの状況を飲み込もうとし始めた。
「兄貴、やっぱり止めた方がいいですよ。こいつ、格好からして病院から抜け出して来たキチガイですよ。目が覚めたら何しでかすか分かりませんって」
「うるせえな、カズ。こいつはどこからどう見てもちょうどいいカモの浮浪者だろうが」
「いや、でも兄貴――」
僕は目を開いた。そして、声の主の顔を見た。
そいつらは、いわゆるチンピラという類の人間だろう。大学構内ではまったく目にしなかったけれど、さすがに僕も報道番組などで何度か目にしている。くたびれたグレーの上着に、だぼだぼのパンツ。汚れたブーツの裏にはガムやタバコのゴミが付着している。彼らの吐息は常に薬品のような臭いがしていて、僕のような入院患者よりよっぽど病人らしかった。
「兄貴、こいつ目ェ覚ましましたよ!」
と、弟分らしき腰も背も低い男が言った。
「ああ、うっせーな。黙らせりゃいいだろうが」
もう一人。兄貴と呼ばれていた男は、僕が完全に覚醒するよりも前に、僕の頭を蹴りつけた。
〈Setup process was failed ; Error code : EE4514〉
そうして僕の視界は、またも暗転したのである。
*
暗転してから、いったいどれぐらい経ったのか。また僕の視界は回復した。だけどそのころには、もう義肢の感覚に不良が起きていると、もう目覚めた瞬間には分かった。
兄貴とカズと言ったチンピラは、もうそこには居なかった。僕は身ぐるみ剥がされて、全裸の状態で寝かされていた。球体関節も白い膚も丸見えだ。バーコードの浮き出た腕が、青白く月明かりの下で輝いていた。
もちろん、僕が持っていたお金など無くなっていた。札入れとも呼べないいい加減な財布。その中に入っていた先生やテルミの為のお金は、財布ごと取られていってしまった。
僕にはもう、何も無くなってしまった。大切な人も、頼れる人も、お金も服も、何もかも。
このまま僕は老朽化したロボットとして、錆び付いて死んでいくのだろう。
僕はぼんやりとそう思いながら、路地裏のゴミ箱に背を預け、体育座りをした。ゴミ箱から猫が驚いたように飛び出す。
猫ちゃん――
彼女は僕に気にする風もなく、むしろ怖がる様子で、そそくさとこの路地裏を後にしていく。
僕は、それでいいんだと思った。
僕は人殺しだ。ここにいちゃいけないんだ。
『ママ、人を殺しちゃったんだ……』
脳内に歌声が響く。目覚めとともに、今の今まで過ごしてきた、あの曲。それが僕に訴えかける。
『死にたくない。生まれてこなければ良かったんだ……』
もし僕に涙を流す機能があったとしたら、おそらく僕は泣いていただろう。先生を亡くした悲しみ。人を殺してしまったという後悔。そして、どうしようもない今の状況に。
生まれてこなければ良かった。
僕は、ついに自分の生まれをも否定し始めた。生まれて来なければ、こんな悲しみを味あわずに済んだのに。今こうして、生と死の境目を渡り歩かずとも済んだのに。
どうしようもない。
僕はもう何も出来ないのだ。
そんなとき、一陣の風がビルの谷間を吹き抜けていった。風は音を運び、僕の耳に届けてくれる。
革靴の音。コツ、コツ、コツ……と小気味よいリズムとともに、地面を叩く足音。そして、男の声が風に乗って聞こえてきた。
「ほら、謝りに行くんだよ、ボケ。抵抗もしねえ病人からカツアゲたぁ、プライドもクソもねえのか、てめえら!」
張り上げた声。
それに続く、「すんません」という言葉。
僕は薄ぼんやりとした意識のまま、その声を聞いていた。どこの誰かは分からなかったが、なんとなく僕のことを話しているんだろう、ということは分かった。
やがて男二人と、見たこともないコート姿の男が一人。そして、そのコートの男の陰に隠れる膚の白い少女が現れた。僕は半目を開いて、ぼんやりとした視界のままそれを見た。
「すんませんでした!」
と、声を上げ、僕から巻き上げたものを返すチンピラ二人。視界ははっきりしなかったけれど、彼らの顔が青く腫れていることは、それでもよく分かった。
やがてチンピラは、逃げるようにその場から立ち去っていった。残されたのは、僕と、例のコート姿の男。そして少女だけになった。
クリーム色のトレンチコート。くたびれた帽子。白髪交じりの頭。手入れの行き届いていないヒゲ。とても小綺麗とは言えない男の姿は、よく見ると僕と似ているところがあった。膚の白さ。そして、指先に描かれたバーコードの模様である。
男は僕に言った。
「おい小僧、まだ生きていたいか?」
*
気づけば僕は、その男に肩を借りて、夜の街をトボトボと歩き続けていた。僕の体はもうぐったりとしていて、まるで初めて覚醒したころのように思うように四肢が動かなかった。
男はお節介にもほどがあった。僕に肩を貸して、夜の街を歩く彼。後ろからは、彼の連れらしき少女がとてとてと後を付いてきている。
男は、僕に寝床を提供してくれるらしかった。
「待ってろ、もうすぐ着くからな」
と、男は常に僕を励ましながら進んでくれた。
このとき僕は、人の優しさや親切心というものに疑念を抱くようになっていたから、同じように彼にも疑念は抱き始めていた。
「どうして……こんな……」
僕はつぶやいた。
眼球は故障しかけていた。僕は必死に男の顔を見ようとした。人の人相を見れば、だいたいそいつが嘘をついているかどうか、おおよその予想がつく。だから彼の顔を見ようとした。だけど僕の視界にはホワイトノイズが溢れて、男の表情を見ることさえままならなかった。
男は僕に言った。
「俺は、この世の中じゃ奇特な人間なんだ。今の世の中、誰も自分のことしか考えていない。だがそれは違うんだな。情けは人のためならずさ」
「情けは人のためならず……?」
「そうだ。……ああ、だがお前さんを養うつもりはないぞ。働かざる者くうべからず、だ」
「働かざる者、食うべからず……?」
僕がそう問いかけると、男は「ああ、そうだ」と応えたような気がした。
気がした、というのは、僕の意識がまもなく途絶えたからである。
*
〈Setup process beginning...〉
〈Code=F : Connecting to AMATERASU...〉
〈Modulation : Code Reversal...Underture〉
〈All systems are go〉
〈Welcome back to "Fantasy", F〉
*
目が覚めると、僕はいつの間にか室内に移されていた。僕の体は寝台の上にあって、目線は天井にある。まるで初めて覚醒した時のようだ。
機械義肢もまた、初めての覚醒時がそうであったように、思うように動かすことは出来なかった。ただ、体を起こすことだけは出来るようで、僕はすぐさま飛び起きて、周囲の状況を確認した。
薄汚れたコンクリート打ちっ放しの壁。病院とは違った静けさがここにはある。病院の内が黙っている静かさだとすれば、ここは死んでいるかのような静けさだ。音がしないのは、みんな黙りを決め込んでいるからではなくて、そもそも口を開くものが存在しないからだ。そのような静けさ。
薄汚れたコンクリート打ちっ放しの屋内。天井は低く、年代物のサーキュレーターが回っている。ぶんぶんと低い音を鳴らしながら、それは生暖かい風を送ってくる。
僕はタオルケットをはぎ取って、何とか寝台から起きようとした。すると、向こうの部屋から少女が現れたのだ。少女は扉を開けて部屋に入ってきたが、その手には杖らしきものがあった。
「使って」
と、彼女。
肩ぐらいまでの黒い髪に、病的なまでに白い膚。それが美しいコントラストを描いている。
「ありがとう」
と、一言言って僕は杖を受け取る。
そうして立ち上がり、彼女を見つめた時、僕はようやく気づいた。この少女も、僕の同じ機械義肢であるのだ、と。彼女はTシャツに黒のジャケット、そしてプリーツスカートという姿をしていたが、そのスカートから見える膝関節にうっすらと球状のものが見えたのだ。球状関節。僕と同じだ。
それからしてもう一人の男が部屋に入ってきた。立て付けの悪い扉は、彼らが開く度にギィーギィーと小うるさく響いた。
男は、チャコールのスラックスに白のワイシャツという姿だった。ネクタイはない。ボタンも開けている。髪の毛もやはりボサボサで禿げかけていたし、白いものが目立った。無精ヒゲの処理もまったくなされていない。まるで祠堂博士を老いさせたみたいだ、と僕は思った。
「よう、起きたか、あんちゃん」と男は言った。
「おかげさまで……」
「そいつは結構。一応だが説明しておくと、お前さんの体はひどく損傷していたんでな。ジャンク品の有り合わせだが修理しておいた。ゴミみたいなジャンク品ばっかりだが、元はどれも高級品だから、性能に問題はないはずだ。体の調子はすぐに戻るぜ」
「どうしてそこまで……? あのまま僕を殺してくれれば良かったのに……」
「なんだぁ、あんちゃん。あのまま死んでたかったなんて言うのか? 助けたやつにそれはねえだろうがよお?」
男は少々語気を荒らげて、僕へと歩み寄りながら言った。同時、少女が一歩ずつ僕から下がっていく。
「俺はシン。お前さん名前は?」
「フレディです」
「悪くない名前だ。……いいか、フレディ。命あっての物種ってやつだ。次死にてえとか抜かしやがったら、俺がてめえのドタマぶっ飛ばすからな」
「矛盾してますけど、それ……」
「細かいことは気にするな!」
シンはそういって、ゲラゲラと大声で笑い始めた。よく見れば顔も赤い。酔っているのだろう。
「いいか、フレディ。俺はお前を助けたが、何も今後もてめえを養ってやろうとは思っちゃいねえ。もし生きていたけりゃ働け。寝床と仕事なら俺が用意してやるさ。働かざる者食うべからず、だな」
「待ってください。シンさん、あなたが僕を匿う必要はないんです。むしろ、僕の存在はあなたに害を与える。僕は軍や警察に負われているんです。僕は――」
「てめえの身の上話なんぜ聞く気はねえよ。おもしろくもなんともねえ。それにな、フレディ、警察と軍に追われているだって? そんなのな、この街じゃ希少価値にもならんぜ」
シンが言った、そのときだ。
壁の向こう側、外から警察車両のサイレンの音が聞こえてきたのだ。僕は一瞬身構えた。軍から逃れ、二人も人を殺した逃亡犯。そんな僕を追ってきたのではないか、と。そう思ったのだ。
しかし、まもなくサイレンはドップラー効果とともに間抜けな音を残し、消えていった。
その音に耳を澄ませていた僕に、シンは「ほら」と言わんばかりの顔をしていた。
「いいか、この街じゃてめえの都合なんて誰も気にしちゃいねえ。ようこそ、フレディ。ここでは、お前さんのいた病院や大学区の常識は通用しない。アンダーグラウンドへようこそ。俺はシン、そしてこっちのチビっこいのは相棒のイヴだ」