Sadness 《感情》
〈Modulation : 2083/05/31〉[Recorded by F]
メイ先生が喜ぶ姿を見て、僕は幸せだった。テルミにも感謝しているし、僕はみんなに対して感謝の気持ちでいっぱいだった。
この感情は、決して数値化出来るものではない。僕は心の底からそう感じている。そう感じたかった。
そうして僕は、病室で一人嬉しがっていたのだと思う。自分の境遇に感謝した。
しかしそんなとき、誰かが僕の病室の扉をノックしたのだ。コンコン、と二回ノック。だけど、いまこの時間の来訪者というのは、正直言っておかしなことだった。メイ先生の検診はまだ先だし、祠堂博士は週に一度しか来ない。あいにく今日は祠堂博士の日ではない。そうなると、来訪者は誰か。僕の中で考えついたのは一人だけ。テルミだった。だから僕は何の警戒心も無く、
「どうぞ」
と言った。
だけど言った後になって、安易にそう応えるべきでは無かったと後悔した。
扉の向こうからやってきたのは、紺色の制服に身を包んだ女。ベレー帽を被り、糊の利いたパリッとした上着に身を包んでいる。目つきは鋭く、左頬には爪痕のような傷跡があった。
女は部下らしき男を二人ほど連れていた。男二人は、濃紺のワークシャツに、黒のベストを羽織っている。ベストには拳銃と、その予備弾倉が仕込まれていた。軍人だ。
「ハロー、フレディ」
と、女。
僕は硬直して応えることも出来なかった。
「まあ、そう畏まらなくてもいいよ。そんなに私が高圧的かい?」
女はそういって、左右に侍らせた男二人に問うた。男たちはどう応えていいのかも分からず、「いえ……」などと当たり障りのないことを口にした。
「誰ですか、あなた」と僕。
「ああ、自己紹介がまだだったね。この部隊章が見えないかい、フレディ? 私は統合陸軍第八機甲師団長、神田カレン少佐だ」
「統合陸軍?」
「いかにも」
軍靴の音。
神田少佐は、胸に付けた勲章をジャラジャラと言わせながら、革靴の音で空間を支配する。カンッ、という小気味よい音。それが一瞬で静寂を作り出した。
僕は状況が飲み込めなかった。なぜ軍人がここに来ている? しかも、銃を持った男を二人も連れて。僕は考えた。だが、いくらアマテラスに繋げられた脳であっても、その答えを導き出すことは出来なかった。
それからまもなくして、再び病室のドアが開いた。今度は、見覚えのある人が飛び込んできた。皐月メイ先生だ。
「フレディ、逃げなさい!」
と、叫びながら、メイ先生は病室へと飛び込んできた。軍人の前を通り抜け、先生は僕の前へ。そして両手を広げて、さながら僕を守るように立ち尽くした。
「おやおや、何の真似ですか皐月先生」
「話は祠堂博士から聞きました、神田少佐。実験データは、解析が終了し次第、軍にもお渡しします。ですから、ここは引き取ってもらえないでしょうか」
「残念ですがね、皐月先生、そういうわけにもいかないんです。今後はそのサイボーグ、フレディの身柄は、我々統合陸軍が預かります。そういう命令なんです。私も所詮は政府の小間使いでしてね。先生には同情しますけど、でも仕事はきっちりやらなければマズいんですよ」
「ですが、あまりにも急すぎます! まだ彼は不安定な状態で……」
「ですから、それは陸軍が引き継ぐと言ってるんです。……さて、彼を移送する準備をしなさい」
先生の言葉をはねのけ、神田少佐は部下二人に命じた。
屈強な男二人。その胸のベストには拳銃。最新式の自動照準機能推進式拳銃だ。弾丸に込められた推進材が、ミサイルのように相手を追尾するというもの。一度狙われたら、ほぼ確実に急所を貫かれる、いわゆるスマート・ピストルと呼ばれるたぐいのものだ。
男たちは、その銃を抜いて、僕のもとへと近づいてくる。軍靴の音。四つの足が織りなす四重奏。
「メイ先生、逃げてください」
僕は、たまらずそう叫んだ。硬直状態で唯一発せられた言葉というのは、大好きな先生を思う言葉だけだった。
「それは聞き受けられないわ、フレディ」
「でも先生……!」
スマート・ピストルを持った、筋肉質の男二人。どう考えても、華奢なメイ先生がかなう相手ではない。なのに先生は、僕の前に立って、あまつさえ僕の患者衣をつかんでいた。僕を前に出させないように。
「どけ、我々が用があるのは、そのサイボーグだけだ」と兵士が言った。
「いやよ。それなら私を殺してからにしなさい。でも、無理でしょう? 私は彼の専属医。彼のデータも、私がすべて管理しているのよ」
「くそったれ」
男が腕を振り上げた。強引に先生を僕から引きはがそうとする。メイ先生は必死に抵抗した。このとき、彼女はきっと人生で一番力が出ていたのではないか、と僕は思う。火事場の馬鹿力というヤツだろう。現に僕も先生を引き剥がそうとしたのに、どうにも出来なかったのだから。
しかし、彼女の馬鹿力もある時を境に薄れていったのだ。
そのある時とは、『銃声』によって告げられた。
銃声。
そんなもの、今までの日常には存在しなかった。存在するはずのない、非日常だった。だけどのその日から、僕は未来永劫その音と暮らさなければならないと、覚悟しなければならなくなった。
一発の凶弾は、僕の人生のすべてを壊した。たった一発。されど一発。トリガーを引くというたったそれだけの行為。しかしそれが撃鉄を動かし、弾丸のケツを叩いて火薬に発火。ガンパウダーの香りをまき散らして、薬莢が飛ぶ。古めかしい、百年近く前の自動拳銃。神田カレンが持っていたそのローテクな銃、H&K USP。それが放った九ミリパラベラム弾は、ものの見事にメイ先生の額を貫いたのだ。それも、僕の目の前で。
僕は、顔に先生の血を浴びた。先生の脳を浴びた。僕と違って、完全に生身の彼女の脳を。僕の微量には、彼女の肉質が飛んできて、真っ赤な血と共に口元へと垂れていった。つーっと、綺麗な曲線を描いて流れ落ちる彼女。僕はあまりのことに理解が追いつかず、すべてを悟ったころには、もう先生は床に倒れ臥せっていた。
僕は、言いようもない恐怖と、怒りとも言うべき感情に襲われた。全身に響いていく痺れのような感覚。それが僕を支配した。
「邪魔者は消えた。あとはその男を運び出せ、いいな」
神田カレン少佐はそういって、僕の病室を出ていく。
残された部下二人は、僕に拳銃を突きつけたまま、両腕を後ろで固定した。電子式の手錠。一度吸着すると離れない、強力な電磁磁石が使われている。
僕はやられるがまま、両腕を後ろ手に縛られた。呆然とする僕のことなどつゆ知らず、軍人二人は僕を拘束する。
そのときの僕と言えば、頭の中でずっとメイ先生の姿を再生し続けていた。思い出すように。忘れない為に。
だけど同時、僕には違う映像も見えていたのだ。それは、地獄の業火が街を焼き尽くす、凄惨な光景だった。
*
銃声が聞こえた。
ふつう銃声というと、耳が割れんばかりの爆音を想像するものだが、実際の銃声というのはそんなに主張の激しいものではない。特に断続的に聞こえてくると、もはや銃声が銃声と認識出来なくなる。パン、パン、パン、と乾いた破裂音が聞こえる。ただ、それだけのことになってくる。
そのとき僕が思いだした光景も、まさにそのようだった。そこかしこで鳴り響く銃声。隣の家が燃えている。向かい側の家も。バチバチと音を鳴らして、炎が昇り龍がごとく燃えさかっている。僕はそんな光景を見ていた。ぐったりと倒れた状態で。
すぐそばには誰かが居て、その人も僕と同じように倒れていた。いや、きっと死んでいたのだろう。皮膚は焼けただれ、もはや男か女かの区別も付かない。ただ髪の毛が長いことから、女性であろうということは分かった。
しかしまもなく、その女性の頭髪にまで炎が回ってきた。
バチバチ。
タンパク質が焼ける香り。馬鹿になった僕の鼻でも分かるくらい強烈なにおい。目の前の女性が死んだ香り。
その臭いがしたとき、僕の脳裏には、ふっともう一人の女性の姿がフラッシュバックした。メイ先生だ。黒い髪をポニーテールにした彼女。嘘をつけない性格で、感情の起伏が顔を見るだけで分かるおもしろい人。
僕の大好きな人。
その人の額に風穴があいて、パッと赤い花が咲く。ちょうど僕が先生にプレゼントした赤いバラのように、パッと。
そしてその瞬間、僕は現実に引き戻されたのだ。
先生は死んだ。
……じゃあ、お前はどうするんだ、フレディ?
*
二人の男が僕の両腕を掴んでいた。ガッシリとした筋肉質の腕。それが僕の機械の腕を掴んで離さない。二人のうち一人――僕の右側にいる奴は、常に僕のこめかみに銃口を突きつけているし、完全にこれは拘束状態にあると言って良かった。
しかし、僕はそのとき足を止めたのだ。二人の兵士が僕を引っ張って無理矢理病室から連れ出そうとする。だけど僕は、それに抵抗したのだ。両足――機械義肢に意識を集中させて踏ん張った。
「おい貴様、とっとと歩け!」
銃を突きつけていた方の男が言った。
だけど僕は、彼の指示には従わなかった。代わりに、行動で示してやった。
そうだ、僕は初めて人に暴力を振るったのだ。
強引に男の腕を引き剥がす。軍用規格の機械義肢である僕の体が、そこらの兵士に負けるはずが無かった。男の腕をあらぬ方向へ曲げてやると、今度はそのまま拳銃を奪う。そして、男の腹を蹴飛ばしてやった。僕が出せる限り最高の力で。男は吹き飛んで、白い壁に亀裂を描き出した。
僕は更に、続けざまに銃を抜いた。銃口をもう一人の男へ向ける。その兵士もまったく同じタイミングで銃を抜き、僕に向かって構えていた。けれど、僕の決断の方が彼よりも早かった。
僕の意思。
アマテラスを介して演算される僕の意思は、殺意となって表出した。つまり、トリガーを引いたのである。
スマート・ピストルから射出された弾頭は、一瞬で加速を付けて男の額を抉った。血の花が咲く。僕はその光景を見て、メイ先生の死に際を思い出してしまった。いまもなお、病室に横たわる先生の亡骸を。
そうして二人の男は、病室で息を引き取ったのである。一人は銃弾を喰らい、もう一人は全身を骨折し、内部出血の末ショック死した。
僕は恐ろしくなって、手からスマート・ピストルを落とした。そして、すぐにメイ先生の亡骸に近づいた。
先生の顔は、僕の膚のように白くなっていた。まるで生きていないように……いや、実際死んでいるのだ。僕のように。
僕は先生のまぶたを閉じてあげた。
するとそのとき、僕の耳にある曲が響いてきたのだ。それは、先生と初めてあったときに耳にした、あの曲だった。それがどこからともなく、まるで僕の脳髄の奥から響いてくるかのように聞こえてきたのだ。
『ママ、人を殺しちゃったんだ……』
その歌声が、悲痛な叫びをした。
まさしく今の僕がそうだった。ママ、僕は人を殺してしまったんだ。相手に銃を向けて、引き金を引いたら、彼は死んでしまったんだ……。
僕はもう、先生の前には姿を現せないと思った。僕は罪を犯してしまった。もう先生のもとへも、祠堂博士のもとへも、ましてやテルミのもとへも戻れない。アイちゃんにだって、何と弁明すればいい。
「いたぞ、ここだ!」
どこかで声が聞こえた。革靴の音が聞こえてくる。誰かがこの銃声騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。僕はもう、ここにはいられない。
「さようなら、みんな。僕はもう此処にはいられないみたいだ……」
僕はそうつぶやいて、窓ガラスの方へと走った。ガラスを蹴破って、僕は外へ出た。病室は地上三階だったけれど、気にしている余裕は無かった。
先生……本当にごめんなさい……。