Grow 《成長》 (2)
それからも僕は、何度かアイちゃんに会うことがあった。彼女はいつも携帯端末を片手に、ふらふらと中庭にやってくる。端末越しにお母さんとやりとり出来るのが嬉しいらしくて、なかなか端末を手放そうとしないらしいのだ。看護師さんたちも、彼女から端末を取り上げようと躍起になっていたけれど、すべて徒労に終わっているらしかった。
僕はしかし、メイ先生の話を聞いてからというものの、彼女のことを穿った目で見るようになってしまった。彼女と話すときはもちろん、そのような素振りは見せないけれど、どうしても彼女の顔の向こうに先生の言葉が浮かび上がるのだ。
『それで彼女が幸せになれるとは思えない』
僕には、今の彼女がとても幸せそうに見えた。たびたび中庭に来ると僕の隣に座って、端末を操作しながら自慢するのだ。「今日はね、お母さんにほめてもらったの」、「がっこうの友だちがね、おてがみをくれたんだよ」、「お母さんがおりがみつくってきてくれたんだ」……と。
しかし、そのたびに僕が思うのは、いずれ彼女はどうなってしまうのだろう、という危惧だけだった。アイちゃんの手術が行われるまで、その思いは僕の頭の中で渦巻き続けた。
彼女の手術が終わった、という報せが届いた頃には、僕はもう歩行器なしでも自由に歩き回れるようになっていた。
先生は僕の目覚ましい進歩に喜んでくれたし、週に一度義肢のチェックにやってくる祠堂教授も「私の義肢もすごいが、使いこなしている君もだな」と僕を誉めてくれた。
だけど、いまの僕にそれはどうでも良かった。不安に思っていることは一つ。アイちゃんが、あのあとどうなったかだ。
僕は彼女のことについて、一般病棟で働いている看護師の男性から聞いた。気さくな彼は、第三実験病棟にいる僕にも気兼ねなく接してくれて、病院の内部事情なんかについても「これ、ここだけの話しですからね」と前置きを入れつつも話してくれた。
そうしてアイちゃんの面会が許され、同時に退院の決まったその日、僕は中庭で彼女を待つことにしたのだ。いつもの特等席で、僕は空を見上げながら彼女を待った。いつものように、ギィッとベンチが音を立てて彼女を迎える瞬間を。
僕は一時間ほど彼女を待った。椅子に座って、空を見上げて。いつしか僕はウトウトしてきて、脳が休眠を欲しているのが分かってきた。だから目を閉じて、太陽の暖かさを感じようと思った。
彼女はきっと来る。だからそれまでゆっくりしていよう、と。
思った通り、彼女は来た。だけど、そこにはかつて僕が見ていたような彼女はいなかった。
聞こえてきたのは、ベンチが軋むギイッという音ではない。何か車輪が軋むギリギリという音だった。僕はそれと、少女の声にたたき起こされた。
「もう朝だよ、フレディ!」
と、子供の声。
だけれどそれは、快活な少女の声では無かった。どこか掠れて、そのうえ喉の奥へと押し込まれたような静けさがある。溢れんばかりの元気は、もうどこにもない。
そこにいたのは、もうかつての彼女では無かった。小さい体で押し車を押している彼女。青いワンピースの下からは、グレーの管が何本も生えていた。それらはすべて押し車に繋げられており、まるで彼女が機械に取り込まれたようだった。
その老婆のような姿に、僕は一瞬閉口した。だけどすぐに冷静さを取り戻し、気づいた。
メイ先生は言った。仮に成功しても、彼女は一生、人工心臓のエネルギー蓄積機を携行する必要が出てくる。僕のような全身を機械化し、初めから機械を動かす為に生み出された体ではない……。
「あたしね、今日退院するんだ」
掠れた声で言うアイ。
僕は、彼女にかけてやりたい言葉がいくつも会ったけれど、そのすべてを喉の奥に押し込んでおくことにした。
しばらくして、彼女の母親がやってきた。栄養科のある廊下を通ってやってきた母親は、ずいぶんとくたびれた様子をしていた。とても幼子の母親には見えないぐらい、余計に老けた印象を受ける。
「フレディさん、ですよね? 娘がお世話になりました」とアイの母。
「いえ。僕は何もしてませんよ。手術、成功して良かったですね」
「ええ、本当に……」
と、彼女は言った。
だが、僕は彼女の心の奥にある感情が、心からの喜びではないと分かった。
それから親子二人は、僕にお辞儀をして病院を出て行った。僕は、曲がってしまったアイちゃんの背中を見たとき、この僕が彼女に必要なのだと悟った。僕の体――その技術が一般化すれば、彼女も幸せになれるかもしれない。
*
〈Activity Diary : 2083/05/14〉[Recorded by Dr.May]
正直、私自身彼の成長ぶりには感心させられる。それは、私が日々こうしてつけている日誌を読んでいると、さらに如実に感ぜられた。
フレディが目覚めてから一ヶ月近くが経過した。もう彼は体に慣れ始め、ほとんど意識せずとも機械義肢を動かせるようになっている。はじめは時折かつての肉体の方に神経がいって、機械義肢から意識が遠のくこともあった。おかげで歩行器がなければ立っていることすらままならないぐらいで、車いすの使用も考えたぐらいだった。それが今では、元気に外を走り回れるぐらいにまで成長している。
現在時刻、現地日本時刻で十二時二十七分。昼休みである。私は昨日、フレディに外出の許可を出した。外出、といっても大学構内のみだ。帝都大学のキャンパスだけでも十分広いから、彼でも満足出来るとは思うけれど。ともかく、今の彼には広い世界を経験させてやることが重要だ。アイちゃんの姿を見て、フレディはいっそう自分のことに対して責任感を抱き始めたらしい。率先して私たちの実験に協力しようとしている。いまも窓の外から顔を出せば、大学病院のすぐ近くにある運動場で走り回る彼の姿が見える。一ヶ月前までは立つのもやっとだった青年には見えない。今では、オリンピックにも出れそうな俊足のスプリンターに見える。いや、機械義肢着用者は、原則として運動競技には出場できないのだけれど。
ともかく、彼の進化は目覚ましい。この調子なら、機械義肢の研究も進むだろう。それに、アマテラスによる感情解読も進んでいる。彼の存在が、現代科学にどれだけ貢献するだろうか。
*
皐月メイは、昼食――もとい紅茶一杯――を終えたところで日課である日誌をつけ、そして再び仕事に向かうところだった。
そんな彼女のオフィスは、白を基調としたシンプルなデザインだ。白い壁に遮光機能付きの高性能窓、そしてほのかにピンクがかった事務机。中空に立体映像を描き出すコンピュータが、現在の彼女の仕事状況を現している。
お気に入りのティーカップを机上においておくと、円筒状の掃除ロボットが床掃除のついでにやってきて、ロボットアームで回収。そのまま給湯室の掃除がてら、食洗機へと向かっていった。
メイは椅子から立ち上がって、診察予定の患者のもとへ向かおうとした。しかしそんなとき、ある男が彼女のオフィスに訪れたのだ。
三回のノックの後、白衣姿の男が了解も求めず入ってきた。無精ヒゲを生やした気怠そうな男。祠堂ジョウ博士。帝大工学部の教授であり、フレディの義肢の開発者でもあった。
「どうしました祠堂博士、こんな急に」
「いや、少し伝言がありまして。良い報せと悪い報せがあるんですが。どちらから聞きたいですか?」
「もったいぶるのは止めて、要点だけ話してもらえますか?」
メイはきっぱりと言った。彼女は、年や地位など関係なしに、歯に衣着せぬ物言いをすることで有名だった。
「すみませんね、先生。……じゃあ良い報せから。軍の方が先ほど見えました。フレディの機械義肢技術に興味を示しているようです。全身機械義肢の成功例はいくつかありますが、完全な例は数えるほどしかないですから。ついては軍が彼に関する報告書をほしがっています」
「それで、悪い報せというのは?」
「軍は、機械義肢だけでなく、フレディを介して行われている感情解析技術にも興味を示した、ということです」
そのとき、メイの顔から色が失せた。
つっけんどうな物言いは消え、メイは少しの間黙り込んだ。まるで何かを考え込むように。
――感情解析技術。
それは、現在フレディを介して行われている一つの実験である。フレディは、アマテラスを介して自らの意思を計算している。それはあくまでも脳が出してきた感情の数式とも呼べるものを、アマテラスが計算しているだけに過ぎない。だが、しかし、同様にアマテラスは感情や意志といったものがどうやって数値化されているのかを、そこで知ることが出来た。フレディを使って行われているのは、そうした感情の数式を網羅し、完全に人間に近い意識を持った人工知能を創り出す計画である。
そして祠堂は、軍がそれに目を付けたと言っているのだ。
「どういうことですか、それは」
「統合軍の将校殿が言うところには、現在の無人兵器はあくまでも人間の命令を従うだけに過ぎない。臨機応変な戦闘行動が可能な自律兵器は、未だ完成しえていない。しかし、もし人間に近い人工知能を生み出すことが出来れば話は変わる。戦闘に際して余計な感情を『殺す』ことは、軍では人間相手にいくらでもやってきた。しかし『生む』ことはどうやっても出来ない。無から有は出来ないが、有から無を生み出すことは出来る……。だから、フレディを介した研究に興味がある、と」
「フレディの技術を軍事転用するっていうの?」
「もとより、彼の機械義肢は軍用規格準拠ですよ。ほかの部位に関しても軍事技術に転用されることは、不思議ではない。故に彼は、どこの誰かも分からない人間なのに生きていられる。……ですが、もちろん快いことではない」
「当たり前よ。……彼の存在は、人殺しの為に使われるべきじゃない」
「言い分はもっともです。ですが……」
「分かっています。軍への報告書は作ります」
「面倒をかけさせます」
祠堂は、まったく申し訳なさそうな雰囲気を出さず、静かにオフィスを出て行った。彼の革靴が床をたたく音だけが残された。
メイは深くため息をつき、外を見やった。病院から見下ろした運動場には、たくさんの人がいた。広いトラックフィールドを走り回るものたち。運動選手がほとんどだが、その中に一人紛れる機械義肢の男がいた。
メイはそのとき、そこが一瞬だけ戦場に見えた。