Awaken 《覚醒》
これは夢か。それとも現なのか
視界が暗い。まぶたの裏を眼球が踊っているように。でも光も見えず、完全な闇が見えた。
始まりは音だった。音楽が僕の耳に心地よく響いてきたのだ。
ポロン、と響くどこか悲しげな旋律。それからまもなくボーカルの力強くも美しい声が聞こえてきた。とても綺麗な歌声だった。
まもなく視界がつながった。眼を通し、頭の中に像が映る。そこは、真っ白い空間。病室だった。
僕には、今まで自分が何をしていたのか、さっぱりわからなかった。何か事故に巻き込まれたらしい、という曖昧な記憶はあるのだけれど、それ以上のことはわからない。だた、とても痛い思いをしたことだけは覚えている。だから病室にいると考えれば、合点がいった。
病室、といっても一人部屋だった。比較的広い部屋で、すぐそばには窓もある。ちょうど葉の生い茂る木がそこから見えて、木漏れ日が窓を通じて降り注いでいる。気持ちの良い陽気だ。
僕はそんな外の風景を見ながら、どこからか聞こえてくる曲に耳を傾けていた。
『ママ、人を殺しちゃったんだ……』
歌はそう僕にささやく。悲しげな声で。
僕はそのときになって、自分の使っていた言語というものがはっきりと分かってきた。何げなしに聞き流していた音楽だったけれど、その歌声を音ではなく一つの歌詞と見なした途端、僕は、僕が覚醒する前までに使っていた言葉が蘇った気がしたのだ。
今の僕は妙な感覚だった。自分が誰かも分からない。だが、いまこうしてここに存在している。
どこに?
僕は誰だ?
もしかしてここは死後の世界? それとも、第二の人生というヤツだろうか?
そうして悩んでいた僕だったけれど、そのとき病室のドアが開いた。
僕の視線は自然とそちらへ向かっていった。病室の奥、開いた白の扉へ。
入ってきたのは、二十代後半ぐらいの、白衣姿の女性だった。黒髪をポニーテールにした彼女は、小脇にタブレット端末を抱えている。
「目が覚めたのね」と彼女。
彼女の声色は、とても優しい、まるで聖母のようだった。白衣の聖母だ。
病床に横たわる僕を、彼女は覗き込むようにみた。見つめられると、なぜか変な気分になった。
彼女は僕の額や頬、首筋などに手を触れてから、再び僕の顔をのぞき込んだ。眼をあわせて、光彩をじっと見つめるように。
「私はあなたの主治医を務めます、皐月メイです」
「皐月、先生……?」
「メイでいいわ」
「……メイ、先生」
彼女は僕がそういうと、「よろしい」と言ってはにかんだ。その笑顔が、何ともかわいらしかった。
「それでだけど……あなた、名前は分かる? ……って、分かるはずないわよね」
「ええ、なんというか……すみません、僕、自分が誰なのかもさっぱりで……いったいこれはどういう状況で、僕はいったい何者で……?」
「それが私たちにも分からないのよ」
「分からない?」
「ええ。あなたの身元は分からないの」
「どうしてです?」
「分からない物は、分からないでしょう? あなたはどうして自分の正体が分からないか分かる?」
「いえ、それは……」
「じゃあ、つまりそういうことなのよ」
彼女はそういって、再び微笑んだ。
僕として、自分の正体が分からないなんて死活問題なのだけど、彼女はそれをポジティブに捉えているみたいだった。
「でも、名前が無いのは不便よね。……そうね、仮に『フレディ』なんてどうかしら?」
彼女は会話の背景で流れる曲を聴きながら言った。
「フレディ、ですか?」
「そう。それで、フレディ、もう一度聞くわ。あなたは自分が誰なのか分かる?」
「さっきも言いました。分かりません。なんか、目が覚めたら病室にいて、それ以前自分がどこで何をしていたのかもさっぱりで……この世界、現実なんですよね? まさか明晰夢とかそういうんじゃ……?」
「あいにく、夢じゃないわ」
と、とたんにメイ先生の声色が変わった。まるで、親が子供を躾るときのような、そんな声に。
「ねえ、フレディ。あなたは、いま自分がどんな状況に置かれているか知りたい?」
「そりゃ、もちろんですよ」
「覚悟は出来てる?」
言って、彼女は病室の奥に姿を消した。
病床の横にはサイドテーブルがあったのだけど、彼女はそれに手を伸ばしたのだ。メイ先生は一瞬、僕の視界の外に消えたけど、すぐに戻ってきた。その手に、鏡を持って。
「よく見て。これが、今のあなたよ」
鏡を、僕に向ける。
そこには信じられない姿が映し出されていた。
青白い肌。バーコードのプリントされた首筋。はげ上がった頭頂部。それはいい。問題は、僕の手足だ。
そのとき、僕は自身の肉体感覚が蘇り、脳の中枢に痛みが広がっていくのを感じた。
いまの僕は、まるで達磨。そうだ、手足が『なかった』のだ。
*
病室を監視するように作られた、ディスプレイばかりの並べられた部屋。中空に立体映像が投影されているそんそ部屋は、古めかしい板状のディスプレイが所狭しと並べられている。だがそれらは今も現役で、この病院で未だに使われている物たちだった。
帝都大学医学部付属病院。この病院は、そう呼ばれている。
そして、患者を監視する為に造られた薄暗い部屋に、二人の男女が立ち尽くしていた。髭面の壮年の男は、立体映像を見ながら顎をさする。一方もう一人の女性の方は、部屋の壁に寄りかかってコーヒーを飲んでいる。マグカップに淹れられたブラックは、もうとっくに冷めていた。
二人は、部屋の中空に描き出された映像を見つめていた。青白い立体映像。そこには、一人の男の姿が映されている。病室に取り残された、一人の男。四肢の欠損したサイボーグ。……仮称、『フレディ』。
「やはり彼を起こすには時期尚早だったのでは。ドクター・メイ?」
と、男が映像を見ながらつぶやいた。
男の名は、祠堂ジョウと言った。帝都大学工学部所属、そして機械義肢技術の第一人者でもあった。
「いや、これでいいのよ」
と、コーヒーを飲み干した彼女が言った。
皐月メイ。同大学医学部所属の医師。リハビリテーションと脳科学を専門とする。そして何より、フレディの専属医だ。
「彼は、早くに外界に慣れておく必要がある。彼の負った傷を回復させるには、いまの状況に適応させることが重要なのよ」
「それは分かっていますよ、ドクター」
言って祠堂は、ヒゲをポリポリと掻きながら、フレディの姿を見た。
四肢欠損のサイボーグ。彼の正体は、誰にも分かっていない。実際に彼の命を救った医師たちにも。全身を機械に作り替えねばならなかったほどの怪我を負った男。その脳核は、急に大学病院へともたらされた。知らぬ間に、実験材料として。
「それよりも」とメイが沈黙を区切った。「彼の四肢は、もう出来てますか?」
「それは心配する必要はありませんよ。明後日までには揃います。……もっとも、あなたが覚醒を早めなければ、私もゆっくり出来ていたのですが」
「ならいいのだけれど……。祠堂博士、お願いします。これ以上フレディを暗闇の中に閉じこめてはいけない」