笑顔
日が傾き始めたころ、蝶子は松江家の屋敷から出ていく。
「では、行ってまいります」
「蝶子ちゃん、気を付けてね」
「はい」
蝶子は見た目麗しい女性の笑顔に一瞥すると、外へ出て行った。
「・・・ねえ、柊生」
「なんだ、雛菊?」
雛菊と呼ばれた女性は、自分の夫に向かって困ったように笑った。
「・・・蝶子ちゃん、何時になったら私たちに笑ってくれるのかしら」
その言葉に頬を少し掻きながら、柊生は言った。
「何回も言ってるだろ?最初よりは全然表情が柔らかくなった」
「でも、笑ってほしいのよ、私は。折角の美人が勿体ないわ」
「まあ、それについては俺も賛成だな。・・・でも、残念ながら俺たちじゃあアイツの笑顔は生み出せないな」
その言葉に更に顔を曇らせる雛菊に、柊生は肩を抱いて言った。
「大丈夫だって。アイツは今変わろうとしてんだ。そいつを見守ってやんのが俺たちの仕事だ」
「・・・そうね」
「こんばんは、東さん」
「ごめんね、大分待たせちゃって」
「いえ。大丈夫です」
東は蝶子の前に腰を下ろした。
(前来たのはあの刺青を見せてくれた時・・・。もう来るのが嫌だったのかと思ったんだけど)
そう思いながら、東は蝶子に尋ねた。
「久しぶりだね。しばらく来なかったけど、どうかしたの?」
言った後に、前にも同じことを訊いたな、と思った。
「いえ、旦那様が暫くの間留守になさってたので・・・」
「ああ、そういえばそうだったね」
苦笑をしながら足を崩す。その動作を一通り見た後、蝶子は袖を物色し始めた。
「東さん、これをどうぞ」
蝶子が差し出したのは、いつかと同じような小包。
「これって・・・」
「お団子です。この間渡したとき、気に入ってくれたようだったので」
そんな事を良く覚えているな、と東は思った。
随分前の事の様な気もするけど、最近の気もする。
(こんなことやってると、時間の流れがわからなくなるな・・・)
「っていうか、旦那の家ってお金持ちだよね?蝶子さんが家事をやってるの?」
「いえ、私ではなく奥様がやられています」
「雛菊さんが?普通侍女がやるものじゃないの?」
「旦那様の口に入る物はなるべく自分で作りたい、とのことです」
「愛されてるねえ、旦那も」
はあ、と一つため息を吐くと、蝶子はそれを見て俯いた。
「・・・奥様は、私の笑顔が見たいそうなんです」
ぼそりと呟かれた言葉を、東は危うく聞き逃すところだった。
「え・・・そうなの?」
「はい。いつも、私の笑顔が見たいから、と仰っています」
「へえ」
それがどうしたんだ、と思いつつ相槌を打つ。
「でも、私は笑えないのです。いつだって、迷惑ばかりかけているのに・・・笑うなんて、できません」
「…笑ってあげればいいのに。笑ってって言われてるんでしょ?」
東が言うと、蝶子は横に首を振った。
「直接言われたことはありませんが、奥様と旦那様が話されていた時に…」
「言ってたんだ」
「はい。…盗み聞きをするのは無礼なことですが…。」
「そっちを気にするんだね」
蝶子は、苦笑を漏らす東をじっと見た。
「どうしたら良いのでしょうか。奥様の望みどおりにはしたいのです。」
「見せたらいいよ、にっこり笑ってさ。何か気の利いた言葉をかけてあげればいいんだよ」
身振りをしながら言うと、蝶子は黙った。
(悩んでる…。最近、蝶子さんの表情の変化がわかるようになってきたなあ…)
呑気に思う東を余所に、蝶子は重そうに口を開いた。
「……私が、奥様に笑顔を見せたら、奥様はどんな顔をするのでしょうか。」
「そりゃあ、嬉しいんじゃない?」
東がなんとなしに言うと、蝶子は勢いよくにじり寄った。
「本当ですか?嫌な顔をされたり、怒鳴ったり、不快そうな顔でやめろと言ったり…しませんか?」
「しないと思うよ。蝶子さん、笑ったらきっと綺麗だろうし」
「いえ、それはありません」
「…」
きっぱりと否定する蝶子の顔を見た。
(でもなあ…。無表情だから雰囲気は怖いんだけど…。絶対に綺麗だと思うんだけどなあ)
考えていると、蝶子は徐に立ち上がった。
「…東さん。今日は失礼します」
「え、もういいの?」
「はい。少し…考えたいので」
「…そっか。じゃあ、送るよ」
「大丈夫です。では」
手短に断り、礼をして去っていく蝶子。
「頑張ってね、蝶子さん」
東はその背中に、心からの声援を送った。