蝶と蛾
夢を見た。
蝶々の群れが一斉に東の方へ飛んでいく夢だ。
東は、その光景をすぐ傍で見ている。
美しい揚羽蝶が一斉に太陽に希う様に飛んでいく。
朝日は眩しく、目が眩むようだった。
そして、蝶の群れから離れたところに、
一羽の汚い羽根をした蛾が飛んでいた。
「ッ・・・!!」
ガバッと起き上り、額に浮かんだ汗を拭いた。
「今の夢は・・・?」
初めて見た夢だった。別に悪夢とかそういうわけじゃないのに、
(なんでこんなに嫌な気分なんだろう・・・)
ドクンドクンと脈打つ心臓を押さえて、今日も仕事が始まる。
「よう東、元気してたか?」
「あれ、今日は旦那だ」
東は襖の奥から見えた姿に少し驚く。
「今日は蝶子さんじゃないんだ」
「ああ、蝶子は今日は雛菊の手伝いをしてるよ」
「雛菊さんの?」
今更だが――雛菊とは柊生の妻である。柊生の事を一番理解し、また一番愛し、そして柊生が一番愛している女性だ。
「ああ、なんでも俺が明日ちょっとばかし遠出する為の荷造りだとよ」
「へえ、旦那どこいくの?」
「ちょっとな。お前に言ってもわかんねえだろ」
くしゃりと東の頭を撫でる。久々の感触だった。
「さて・・・どうだ、東。蝶子は?」
「んー、まだ慣れてないよね。優しいのは分かったけど」
「硬いんだよなー、アイツ。中々心開かねえし」
「え、旦那にもなの?」
「ん?ああ。アイツ、誰にも心を開かねえ。俺にも、雛菊にも――今までの『主人』にも、な」
今までの、主人。
その言葉を聴いて、東は少し心に何かがつっかかった。
「ねえ、蝶子さんの今までの『主人』ってどんな人だったかわかる?」
「残念だが、それは本人に訊けよ」
「訊けないから旦那に訊いてんじゃん」
「こういうのは本人の口から聴いた方が一番現実味があんだろ?」
くくくと笑う柊生に東は少し膨れた。
「旦那のケチ」
「上等じゃねえか。ケチじゃなかったら商人なんて勤まらねえよ」
ついに大笑いし始めた。東は呆れながらも、いつもの行為に耽ろうと思い、柊生の頬に触れた。
「ねえ、旦那・・・シよ?」
「お?やけに積極的じゃねえか」
「最近汚いオジサンとしかヤってないから、旦那みたいに精力的で優しい人とヤりたいの」
ふう、と耳に息を吹きかけながら囁いた。
「しょうがねえな。でも今日は一回だけな。この後雛菊と出かけんだから」
「雛菊さんとは沢山するんだ?」
「あったりめえだろ。今俺ら幾つだと思ってんだ」
柊生の言うとおり、二人は割といい年をしているのに子供に恵まれなかった。
雛菊が頑なに性行為を拒否しているのも原因のひとつで、それを解消する為に柊生はここに通っている。
「わかった。じゃあ一回ね。・・・でも、旦那満足出来るかな?」
「してみせるぞ」
ふふ、と笑った途端、柊生は東を押し倒したのだった。
「じゃあな、東」
「うん、じゃあね」
手を振って柊生を見送った。腰は痛まない。
(本当に優しいなあ、旦那は。・・・でも、本当に一回で終わっちゃった。まあ、いいけど)
そう思いながら部屋に戻ろうとした瞬間。
「・・・東さん」
「ひえぇっ!!?」
後ろから女性の声がした。勢いよく振り向くと、無表情を貫き通した蝶子が立っていた。
「あ、蝶子さん・・・いらっしゃい」
あまりの事に驚いて引き攣った笑みを浮かべる東をじっと見る蝶子。
(・・・?)
いつもとは少し違う雰囲気の蝶子に、東は少し疑問に思った。
「どうかした?」
「・・・いいえ、大丈夫です」
「そう?じゃあ、いこっか」
曖昧に微笑んで部屋へと向かった。
「東さん、見てほしいものがあるんです」
部屋についた途端、蝶子は東の着物の裾を掴んだ。
「何?」
蝶子の瞳をじっと見た。
影のかかった光のない瞳。それが少し揺らいでいるのがわかった。
(なんでこんなのわかんだ、俺)
心の中で疑問に思いつつ、こくんと頷く。
「いいよ、見る」
「ありがとうございます」
礼儀正しく一礼をすると、すとんと畳の上に足を崩して座った。
(珍しい・・・)
「私の背中を見ていてください」
「うん。・・・え?」
背中?
思わず繰り返して聞こうとした瞬間。
しゅるり、と衣擦れの音。
「え、ちょ、蝶子さ・・・」
女性の裸体など見慣れている筈なのに、何故か戸惑ってしまった。
それは、蝶子はそういった行為を絶対に仕掛けてこない人だと、この短期間に思ってしまっているからだ。
実際、蝶子の目的はそれではなかった。
蝶子の白い肩が露わになり、一気に腰まで着物をずりおろした。
「・・・!!!」
そこにあったのは、蝶子の白い背中とは不釣り合いな、
大きな赤い刺青。
東はその模様に見覚えがあった。
(今日見た・・・夢の・・・)
そう、東が今朝見た夢の中に出てきた、一羽の醜い蛾。
蝶子の背中の刺青の模様と全く同じだった。
「可笑しいですよね」
蝶子の単調な声が響く。
「蝶子なんて名前なのに、背中にあるのは蛾の模様なんですから」
「・・・なんで、こんな模様・・・」
「奴隷の証拠です。光に群がる醜い奴隷。蛾とそっくりと言うことで、奴隷には必ずこの模様があります」
「なんで、俺に見せたの?」
上半身裸のままこちらを見る蝶子。首のあたりまである黒髪が揺れた。
「実は、この模様は自分の主人以外には見せたら駄目なんです」
「それじゃあ、なんで・・・?」
「・・・理由は、わかりません。でも、」
そこで一つ言葉を区切った後、蝶子は真っ直ぐと東の瞳を捉えた。
「東さんに、知ってほしかったんです。私を、私の醜い部分を」
相変わらず平坦な声だったが、何処かに秘められた心があった気がした。
「うん、教えてくれてありがとう。俺も、蝶子さんに俺の事、知ってほしいな」
「・・・そう、ですか」
「うん」
ニッコリ笑う。蝶子は東の方を向いて、深く礼をした。
「嬉しい、です。ありがとうございます」
「俺も嬉しいよ。ありがとう」
(少し、蝶子さんに近づけた、気がする)
東は、ゆっくりと着物を着なおす蝶子を見た。
その表情は、心なしか柔らかい気がした。