止められない夢
東さんを自由にできる、と喜びに満ち溢れた足取りで東のもとへ急ぐ蝶子。
「東さん、こんにちは」相変わらず表情は硬いけれど、どこか喜びに滲んだ声色で蝶子は挨拶をした。一方の東は、どこか上の空と言ったようで、一瞬蝶子に気付かなかった。
「…東さん?」
「あ、蝶子さん。いらっしゃい」ぼうっとしたところを見られた恥ずかしさか、はにかむ東。
「どうかなされたんですか?」東の様子を不審に思った蝶子は率直に訊いた。
「え、っと。実はね」一息置いてから、「俺、買われたんだ。」と、耳を疑うことを言い放った。
「え…?」「ここを出ていくことになったよ。…俺、外の世界にでられるんだ」東は嬉しそうに話す「でもね、ここからずっと遠くに行くみたい。…だから、蝶子さんにお別れを言わなきゃなあって思ってたんだ」勿論旦那にも言わなきゃね、と東は微笑んだ。
と、東は蝶子の様子がおかしい事に気付いた。表情は硬く、肩は震えていた。
「…蝶子さん?」不振がって顔を覗き込むと、蝶子はハッとしたように目を丸くした。
「あ…お、おめでとうございます。……これで、東さんの夢が叶えられますね」
「うーん、どうだろうね?中には家の中に入れっぱなし~って人もいるみたいだけど。でも、ちょっとは外に出してくれたらいいなぁ」楽しそうに言う東を、蝶子はどこか遠い目で見つめていた。
「……ねえ、蝶子さん。これが一生の別れってわけじゃないよ。また会えるよ」
「そう、ですね。」
どこにもそんな確証はない。東も蝶子もそれをわかっていた。でも、だからこそ、東はこの別れを湿っぽいものにしたくなかった。
「蝶子さん、泣かないでね」「え?」「泣きそうな顔してたから。悲しいお別れっていやじゃない?さっきも言ったけど、また会えるよ。ね。」蝶子の頬を撫でる。冷たい肌に、暖かな掌が滑り、体温を分け合っているようだった。蝶子は東の手を見つめ、それからその手に自分の手を重ねた。
「東さんの手は暖かいですね」「蝶子さんのは冷たくて気持ちいいね」「気持ちいいですか?ただ冷たいだけです」「そんな事ないよ。ずっと前、俺の頭を撫でてくれたときの蝶子さんの手が、ひんやりしていて気持ちよかったの忘れてないよ」
東が微笑む。とても美しい笑みだった。一瞬目が奪われる。
「東さん。ありがとうございます」小さく呟いた声はしっかりと東の耳に届いていた。東は笑みを深めると、「うん」と答えた。
二人は、そのまましばらく見つめあっていた。
永遠とも一瞬とも思えるその時間は、終わりを告げる。
「…じゃあ、そろそろ」東の手が離れる。蝶子はそれをただ見つめるだけだった。
目じりが熱くなるのを感じ、慌てて立ち上がる。
「蝶子さん、あのね、」「もう、帰ります」東の言葉を遮るように蝶子は言う。
「…今まで、本当にありがとうございました。……さようなら」
深く深くお辞儀をし、そのまま背を向けて去っていく。
溢れる涙が止まらないのはもう仕方のない事だ。
次々に零れ落ちていく涙を止めることもなくただただ家路に急ぐ。
止めることなど、できなかった。




