紅色の病
蝶子が『蝶子』でない前。それ以外の名前を付けられていたずっと前。彼女の本当の名前は『桜』だった。
桜は近所では、明るく聡明な女の子として有名だった。父親と二人三脚で一緒に薬屋を盛り上げるべく奮闘していた。
「ねえ、お父さん。今日小清水さんの弟君が熱を出しちゃったんだって」
「そうか、じゃあ、熱を早く引かせる薬を作らないとな」
父親はとても優しく、桜の話を嬉しそうに聞いていた。収入は僅かだったが、日々の生活が苦しいほどではなく、それなりに楽しく過ごしていた。
そんなある日。二人は買い物をしに街へ出かけた。料理は桜の仕事だ。桜は真剣なまなざしで目利きをしたり、値踏みをしたりと大忙しだった。父はそんな桜を優しげな眼で見つめていた。
いつも通りの事をしていると、何処かで騒ぐ声がした。
「逃げたぞ!追え!」
数名の男たちが、豪華な着物を着た女性を追いかけている。
「やめっ、放して!」
その悲痛な叫びを聞いた父は、桜にここに居るようにと言った後、その騒ぎの中に飛び込んでいった。
「嫌がってるじゃないですか。放してあげたらどうです?」
父は二人の間に割り込み、女性を庇う。
「そいつはウチの商売道具だ!連れ戻さないと大損なんだよ!」
「嫌だ!僕はあんな所で働きたくない!」
と、女性は叫んだ。父は驚いて彼女を見る。化粧で美しく飾られている顔を良く見てみると、その人は男だった。
「な、な…!?」
女の恰好をしている男に戸惑いつつも、美しさに目が離せない。
深紅色に染められた唇を、ただぼうと見つめていた。
「何を言ってるんだ、いいから戻れ」
ぐいぐいと引っ張られ、男は叫びをあげながら大きな館へと吸い込まれていった。
「…綺麗な人だったな」
「お父さん、買い物終わったよー」
桜は混乱に気も留めず、良い買い物をしたと言わんばかりに胸を張った。
「…桜は良いお嫁さんになるなあ」
「えへへー」
頭を撫でると、嬉しそうに笑う。父はその間も、先程の男の事を思わずにはいられなかった。
ある日、父は夜遅くに帰ってきた。
「ただいま」
「お帰り…遅かったね、お仕事大変だったの?」
眠気眼を擦りながら問いかける桜。だが父は何も答えない。
「…お父さん?」
そこでようやく父の顔を見た桜は、驚きで眼を見開いだ。
「ああ、大変だったよ…」
恍惚とした表情。口元は緩み切り、頬は紅潮していた。ふらふらと、畳の上に座り込む。
「ど、どうしたの?風邪貰ってきたの?」
様子がおかしい父に、桜は動揺する。いつも見ていた父ではない、と。父は急に立ち上がると、そのまま寝床へ行ってしまった。
「お父さん……?」
その日から、父の様子がおかしくなってしまった。
「おはよう、桜」
目を覚ますと、父がすでに仕事の準備をしていた。桜も挨拶を返すと、こう付け加えた。
「珍しいね、お父さんが先に起きるの」
「まあね、心境の変化ってやつかな」
言いながら桜の頭を撫でた。
「顔を洗って来なさい。今日は少し大きな仕事があるんだ。店番を頼むよ」
「うん!」
いつも通りの父に安心しきった桜は大きく頷くと井戸へと駆けた。その父の表情が、劣情に歪んでいるとも知らずに。




