東の危機
「お前の前の主人ねえ…」
帰ってくるなり涙声で柊生に縋る蝶子を何事だと思い、事情を聞いた。蝶子は少し落ち着いたのか、雛菊が淹れたお茶を啜っている。
「そんなにやばいのか?」
「はい。…今でこそ消えていますが、毎日傷をつけられていました。あと一歩で死に至るときもありました。」
「まあ、確かに俺が拾ったときは随分とボロボロだったが…。まさかそんな事があったとはな」
蝶子は柊生にすら自分の過去を明かさない。だが、訊かれれば全て答えるつもりだった。柊生は初めから、蝶子の過去を聞くような事はしなかった。それは、彼なりの、蝶子への思いやりだった。
「で、斉藤吉兵衛だっけ?」
「…はい」
身を固くさせながら答える蝶子に、柊生は優しく微笑んだ。
「そんな顔すんなよ。雛菊の茶は美味いか?」
行き成りの質問に戸惑う蝶子だが、もう一度お茶を飲んで、頷いた。
「よし。…そいつの名前、どっかで聞いたことがあったが、今度の商談の相手だな」
その一言に、蝶子は一気に顔を上げた。
「へえ、確かに騙されるよなあ。表向きは好青年って感じだからなあ。お前も騙されたクチか?」
黙って俯かれ、しまったと思いながら話を続ける。
「…まあ、そりゃ東が心配だよなあ。でも、お前がそいつの元へいたのは三年前の事なんだろ?改心でもしてるんじゃあねえのかい?」
「…私が捨てられた理由は、新しい奴隷が手に入ったからです。私よりも幼く、華奢な女の子でした。」
暗い蝶子の声に、頬を掻く。その様子だと、斉藤の嗜好は全く変わっていないのだろう。
「俺も、注意してみるよ。何かあったら俺がそいつを取っちめてやる」
腕をまくる動作をしながら勢いよく言う柊生に、蝶子は少し顔を綻ばせた。だが、すぐに暗い顔に戻り、
「東さんに、言った方が良いのでしょうか」と、呟いた。
「…別に、隠しときたい過去の一つや二つ、あんだろ。東を守れりゃ、言う必要なんてねえよ」
笑いながら蝶子の頭を撫でる柊生に、蝶子は少し安心したのか、崩れるようにその場に倒れた。
「斉藤さん?どうしたの?」
東は、ふと笑いを止めた斉藤の顔を覗き込む。蝶子の忠告など気にも留めていなかった。
「……東君は、可愛いねえ」
言いながら頬に口づけをされる。くすぐったそうに身を捩ると、両肩を掴まれた。
「あー、もう駄目だ。辛抱たまらん」
「するの?」
「いいや、違うよ」
「え?」
いつもと違って獰猛な笑みを浮かべる。そして東を乱暴に床に倒した。
「うわっ」
「東君ってさ、殴られたことある?」
「え?」
東は斉藤の顔を見た。今まで見たことのない邪悪な笑みがそこにあった。思わず逃げ腰になる。
「駄目だよ、逃げちゃあ。お客さんを残して帰るなんて失礼だろ?」
「やめっ…」
大声を上げようとする東の腹に、斉藤の拳が落ちた。
「ぐふっ」
そのまま身を倒し、東の耳元で囁く。
「東君、最近奴隷の子と仲がいいんだっけ…?蝶子ちゃん、だっけ」
「…!」
「奴隷がさぁ、人に立て付けると思う?思わないよねー。だって、道具だもん」
「蝶子さんは道具なんかじゃっ…」
「煩いなあ。あははっ」
笑いながら東の腹に拳をつけ、ぐりぐりと押し付ける。東の呻き声が漏れた。
「大声で叫んでもいいんだよ?蝶子ちゃんがどうなってもいいならねっ!!」
言いながら東の上に馬乗りになり、身体を痛めつける。
「顔は止めてあげるよ、商売道具だしねえ!」
大声で笑いながら東を殴りつける。
「こんな綺麗な子を殴ってみたかったんだよねえ!一年待ったかいがあったかな!?」
痛みに声をあげながら、朦朧とした意識の中で、蝶子の事を考えていた。
(ごめんね、蝶子さん…。蝶子さんの言いつけ、守ればよかった…)
東はしばらくして、意識を沈めた。




