切迫した葛藤
東江春館に通い始めてからどれほどの月日が経っただろうか。数えてはいないけれど、季節が一周しそうなほどにはなった。自分の心情も大分変ったと思う。それも、全部東のお蔭なんだろう。
「いらっしゃいませ」
この前東が化粧をしたと言っていたと言う少年が、礼儀正しく蝶子を迎え入れた。今日は少し薄めの化粧をしているが、元が良いのか、とても美しかった。
「こんにちは、東さんはいらっしゃいますか?」
「今は別のお客様のお相手をしております。少々お待ちください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
礼をして、傍に会った椅子に座った。
ふと、遠くから話し声がする。東の声だ。そちらの方に顔を向ける。と、
「……!!?」
東と共に楽しげに話していた男。その顔を見た瞬間、全身に緊張が走る。一気に水分が奪われる気がした。ぱくぱくと口を開くが、声が出ない。東は男に大分気を許しているらしく、その様子は自分との対応と違って、とても女性的で、甘えているようだった。
「じゃあ、またね。東君」
「うん、また!」
頭を撫でられ、嬉しそうに笑う東。その光景を見たくなかった。蝶子は俯いて、横切る男が通り過ぎるのを待った。
「…あれ、蝶子さん」
「あっ…」
ようやく声がでたが、掠れた声だった。崩れ落ちるように椅子から降りると、そのまま走って東の両手を握った。
「今の男は…!?」
「え?ああ、常連さんの斉藤吉兵衛さん。この前話した、草団子の人だよ」
のんびりと言う東に対して、蝶子は必至な顔で言う。
「…いますぐ、ここから逃げましょう。危険です」
「え?何言ってるの?」
「東さん!」
「……とりあえず、部屋行こ?」
状況を呑み込めない東を急かすように部屋へ行く。蝶子の焦りようは誰がどう見ても異変だった。
部屋に着くなり、蝶子は溜めていたものを吐き出すように言った。
「…さっきの男は、東さんの常連の方なんですよね?」
「う、うん」
「もう会うのは止めてください。金輪際です。お願いします」
「ど、どうしたの、急に…。蝶子さん、斉藤さんと知り合いなの?」
その言葉に蝶子は止まった。そのあと、東から瞳を逸らして、
「…わかるんです。私、今までいろんな人と出会ったから。あの男は危険です。東さんの命が危ないです」
「斉藤さん、蝶子さんが来る前からの常連さんなんだけど、とっても優しくて、良い人だよ?」
「お願いです、東さん」
「…蝶子さん、どうしたの?」
蝶子の真っ直ぐな目を見て、東は少し怯む。今までにないような切迫した顔だった。
「…あのね、この店ってね、暴力への対処だけは凄く厳しいんだ。暴力は絶対にしちゃ駄目なんだ。仮に斉藤さんが暴力的な人だったら、もう店には入れてないよ。
楽観的に振る舞う東に、蝶子は叫び出したい気分だった。
「……っ」
「だ、大丈夫?」
蝶子は苦しそうに顔を歪めた。東は心配そうに見つめる。
斉藤吉兵衛は、蝶子の前の主人だった。
終生に引き取られるまでの数年間、蝶子は斉藤の暴力を一身に受け止めていた。罵られ、存在を否定されながら苦痛に耐える日々を思い出すと、今でも震えあがってしまう。蝶子は、東に自分と同じ思いをして欲しくなかった。その反面、自分の過去を知られたくなかった。醜く、歪んでいて、あまりにも痛ましい彼女の過去を。
「蝶子さん…?」
東に名前を呼んで、我に返る。小さく大丈夫だと告げ、顔を上げる。
「…でも、気を付けてください。いつ何をされるか、わからないですから…」
「絶対ないと思うけど…。まあ、注意はしておくね」
どこまでも軽く考える東に、蝶子は胃が痛む感覚がした。
自分の過去を明かすことは、出来ないでいた。




