第六話 魔法の因縁
迷宮の薄暗い天井。その古びた石の表面に糸を張り付けて、一匹のクレイジースパイダーが巣を張っている。魔王だ。スライム達の巣を出て三日、彼はこうして天井の闇に潜みながら、獲物を狩っていた。クレイジースパイダーとなった彼にとっては、一階層のモンスターなど敵ではない。大胆にそして緻密に、彼は次々と獲物をとらえていく。
一匹のゴブリンが、彼の下を通りがかった。瞬間、白い物がゴブリンの太い首に絡みつき、緑の身体が地を離れる。そのまま魔王の元へと引き寄せられたゴブリンは、なすすべもなく頭をあごで砕かれた。魔王にとってはもう、何回繰り返したかわからぬほどの手なれた作業だった。彼は落ちたライフクリスタルを糸で回収すると、口へと放り込む。しかし――。
『うむ、いまいちだな……』
クレイジースパイダーになったせいか、ゴブリンの結晶を吸収しても魔王はさして成長しないようになっていた。ホーンラビットを倒していた頃の方が、まだマシに思えるほどである。
どうやら、敵が自分よりも弱い存在だと生命力の吸収効率が大幅に落ちてしまうようだ。逆に、敵が自分より強いと生命力の吸収効率も格段に上がるらしい。魔王はそのことを悟ると、ダンジョンの一階層に見切りをつけた。彼はそのまま、天井を器用に這って二階層への階段を目指す。
二階層への階段はあっさりと見つかった。濃密な瘴気がそこから吹きあがってきているのである。魔王はその瘴気の風にある種の心地よさのようなものを感じながら、階段の周囲に誰もいないことを確認する。そして、ゆっくりとその階段を下りて行った。
二階層は一階層とあまり変わり映えのしない構造をしていた。黒くてすべすべとした石が一面に広がり、通路は細く、灯りは壁に灯る小さな魔力灯だけが明るさを放っている。魔王が見たところ壁の材質などほとんどすべてが、一階層と変わらないものだ。強いて言えば、雰囲気が違う。通路を覆う闇はより濃密な物となり、深い。漂う瘴気も魔物の気配も、一階層よりはかなり濃かった。ゴブリンやスライムでは出せない殺伐とした雰囲気が、二階層にはある。
魔王は気を引き締めると、慎重に天井を進んでいく。すると前方に、ゴブリンのような生き物が見えた。しかしゴブリンとは違ってそのモンスターは、粗末な腰布ではなく黒いローブのようなものを着て、手には杖を持っている。叩けば折れてしまいそうなほど細く、細工もない粗末なものであったが、それは確かに杖であった。
『ん、ちょうどいい獲物か?』
モンスターの服装を不思議に思ったものの、飢えていた魔王は、そのゴブリンもどきへと的を絞った。彼は口に糸をためると、黒いローブへと狙いを定める。赤い複眼がキラリと光り、黒い背中を視界の中央にとらえた。瞬間、糸がヒョウと伸びる。細い糸は正確にモンスターの身体をとらえ、刹那のうちにからめ取った。
しかし、次の瞬間。モンスターの杖の先端が輝いた。紅の炎が噴き出し、弾となって魔王の顔に直撃する。
『ぐおおおお!!』
魔王は前足で顔面を抑えると、糸をほどき、一目散にその場から逃げ去った――。
『クソったれ、なぜあんな卑しい奴に魔法が使えるのだ!』
しばらくして、一階層の安全な地域へ戻った魔王は憤慨していた。己の身体を傷つけられたことだけではない。ゴブリンもどきが魔法を使えたこと自体に、彼は激しく怒っていた。
魔法と言うものはもともと、遥か古に初代魔王が編み出したものだ。それ以来連綿と代々の魔王に受け継がれ、幾度かの技術流出を経た物の、魔王が君臨していた時代ではまだ高位魔族や一部の特殊な人間しか使えないものだった。魔法を使えるということ自体がある種のステータスであり、最上級の魔法を際限なく使えることは魔王の力の証でもある。
しかし、この時代ではゴブリンもどきにも魔法が使えるらしい。かつての魔王には及ぶべきもない貧相なものであるが、屈辱的だ。魔王はその八本の足をわなわなと震えさせる。凶悪なクレイジースパイダーの顔が一層邪悪なものに見えた。
それから少しして、ようやく魔王は落ち着いた。怒りでいっぱいになっていた頭の中がほどよく冷えて、冴えてくる。彼は通路の突き当たりへと移動すると、そこに腰を落ち着け、思案に暮れ始めた。
『ううむ、やはり三百年の間に何かあったのだろうか。もしかすると我がスライムなどになった原因も……』
繰り返される景色、スライムだったころの体の感触。そして、前世最期の瞬間。思えば、これほど思案したのは魔王にとって久しぶりだった。凶暴性の権化ともいえるクレイジースパイダーになった影響だろうか。最近の彼は思考というものを放棄していた。改めてそれを考え直すと、魔王はさきほど魔法を使った生意気なゴブリンもどきへの制裁を考え始める。
魔法と言う遠距離攻撃を使う敵を、如何に倒すか。魔王は長年の経験と知恵を絞りだす。少なくとも、強くなってから制裁を加えるというのは魔王のプライドにそぐわなかった。加えて、あの魔法が使えるゴブリンを取り込むことができれば、魔王は間違いなく強さを増すことができる。力の誘いは途方もなく魅力的だった。
そうして迷宮の闇が一段と深まり、外には夜が来た頃。魔王は不意に顔を上げ、笑い声を上げた。
『よし、これで倒せる』
彼はいそいそと、ゴブリンもどきを倒す準備を始めたのだった――。