封じられた番犬
◇
朝。私は寮の部屋で、鳥の朝の囀りを目覚まし代わりに冷たい床から起き上がる。時計は5時半を差していた。カレンダーの曜日を確認すると、木曜日か……。勘違いされるが、学校は遅刻がちでも私は朝方である。ちなみにベッドを使わないのは、あんなものに眠っていては背骨がおかしくなりそうだからだ。
据え付けの冷蔵庫から、ペットボトルで売られているアイスコーヒーを、ガラス製のコップに入れて一杯を一気に飲み下す。
「そんな黒い液体が、本当に美味しいのか?」
緑茶の方が良いと昔からごねるお嬢のコーヒーや紅茶への目線は冷たい。どっちを取っても嗜好品。別にいいではないか。
窓際に立って、カーテンを開ける。東の空には生まれたばかりの太陽が、暁の光を放ちながら、今日も天へと昇り詰める。栄枯盛衰とはよく言った物だが、その最たるものの象徴は、やはり太陽ではないだろうか。そしてこの日の本の国は、地震や台風などの自然による害で、なんど落ち込もうとも再び立ち上がる強い国だ。
「お嬢、今日は東に向かいましょう!」
常備してある、保存食用の乾燥パン。そして水筒に水を入れて鞄に詰める。私服へと手早く着替えて、鞄を背負うと、準備の要らないお嬢は既にドアの前で待機していた。なんだか散歩を待ちわびる子犬みたいで、可愛い。
ガチャンと金属の扉を開けて外に出て、一度深呼吸。朝方の涼しく気持ちのいい空気で肺を満たす。
「…………!」
どこかから人の声が聞こえた。まったく朝早くからご苦労な事である。
「行きましょう、お嬢」
「……のぉ、祀?」
はい? と私は振り返る。しかしお嬢もまた後ろの何か見ている。着物の裾がゆらゆらと揺れていた。
「どうしました?」
「ふむ。あれは……神代とか言う小僧ではないか?」
誰だったか―――あぁ、そうだそうだ。私の事を覚えていた奇特な人間だ。挙句に私と友達になりたいとかほざき始めた、危篤な人間でもある。
こんな朝っぱらから、何をしているのか。会えばまた面倒くさそうなので、早々に立ち去ろう。
「ひぃいいなぁあぁたぁあぁくぅううううんっ!」
「祀。おぬしを呼んでおる様じゃが」
「そうですか? 私には何も聞こえませんが」
「殺生な奴じゃの」
はぁ。じゃあお嬢は『あれ』に関われって言うんですか? 別に構いませんけど、絶対にろくな事になりませんよ? あの日だって根掘り葉掘りとまぁよく他人にそこまで興味が持てますね、ってぐらい私達の事を聞いて来て。
お嬢の指差す方を見てみれば、あの黒縁メガネは猛ダッシュで人の寮部屋に駆けつける(どうやって調べたのやら)と、バンバンと近所迷惑も考えずに、ドアをノックと言うには強すぎる勢いで叩き始めた。
「……行きましょう、お嬢」
「……うむ」
階段を下りていくと、ビービ―と泣き叫びと、たまに「ひーなーたーくーん」と間延びした声とが、徐々に遠ざかっていく。
うわぁあぁああああぁん!
びえぇええんっ……!
びーなーたーく…………。
……ああもう!
「なんじゃ戻るのか?」
私は踵を返して階段を登る。
自室のドアの前では、果たしてお前は本当に日本男児なのかと問い質したくなるぐらいに、無様に顔を涙と鼻水で汚した神代が、崩れ落ちていた。
「何をしてるんだお前」
私が声を掛けると、顔を上げる。一瞬は信じられない、と驚いた顔が一面に広がり、再び顔をぐちゃぐちゃに崩して、人の名前を濁った声で叫びながら、飛びかかってきた。
「汚い寄るな」
「あっ……」
脳天に手刀を振り下ろして、神代を叩き落とした。
◇
紺の制服に窮屈に拘束されていた。2年である事を示すバッチと、この学校の校章が、ブレザーの胸元に光っている。どうして朝のホームルームにまで間に合う……どころかそれよりも早い時間から、学校の校舎にいなければならないのか。
人をわざわざ着替えさせて、こんな場所に連れて来た冴えない、一見は人畜無害の優男を見る。人の憂鬱には気づきもせず、神代は先ほどの号泣はどこへやら。鼻歌を歌いながら前をスキップしていく。
「そろそろ何の用か話せよ」
「あれ? なんだっけ?」
帰ろう―――――。私は踵を返し、学校を後にしようする。
「ちょっとちょっと日向くん!? これから学校だよ!? どこに行くの!?」
腕にしがみ付く神代。さすがに50㎏程の人間を引きずるなんて芸当は面倒なので。
「お前の知らない場所」
振り払う。
「それってもしかして神様の会合とか!?」
かと思えば目を輝かせて聞いてくる。お前、たまにとはいえ視えるんだろう。
なら分かるだろうが、会合って何をするつもりなんだ。そんな退屈で無駄な決め事をするための集まり、西洋の神様しかしない。あっちの神様は割と精力的で、戒律だのなんだのをいそいそと定めているらしいが。
こっちの神様が集まる目的と言ったら、暇つぶしの宴会。それか何かしらの事情で縛られた連中だけだ。
「殺ればよいじゃろう。いつもみたいにこう、サクッと」
お嬢、物騒な事を言わんでください。殺人罪でお上に追われるのはごめんですよ。私がいつ、サクッと人を殺したんですか。神様みたいに生き物を消したら、法律とか言うのに罰せられるんです。
「分かりましたぁ……。素直に話します」
いきなり素直になり、神代は私の要求を呑んだ。
「ふぅん。占い……ねぇ」
生徒の数の少ない早朝の教室。神代が鞄の中から取り出したタロットカードという、占い用の約80枚の長方形の紙の束を眺める。私はこうした手合いに興味はないので、知識は薄い。
何やらTHE FOOL(愚者)だの、THE MAGICIAN(魔術師)だのと仰々しい単語が書かれ、そのイメージだろう。絵がでかでかと描かれている。
「こんな札で何を占うのじゃ?」
お嬢も背後から覗き込んで首を傾げている。日本の昔の占いと言えばなんだろうか? やはり、あーしたてんきになぁれ、と言いながら下駄を飛ばすあれだろうか。しかしお嬢ほど、このカードの似合わない人も少ないだろうな。
「それが大アルカナ。確かえーっと、十何枚だっけ?」
「一般知識はどうでもいい。これがなんだ」
返しながら、付け焼刃の知識を遠慮する。そう? と昨日辺りにでも調べた知識を自慢でもしたいのか、名残惜しそうな神代。
「占いで、未来を百発百中に当てる人がいるって言ったら信じる?」
「信じない」
「うわ、即答だよ……」
そりゃそうだろう。未来の事など複数の神様にお伺い立てたって、当たる確率は猿がダーツ投げてど真ん中に当たる様なもんだ。それを個人の手で、カードを何とかしたぐらいで分かったら誰も人生を苦労はしない。
……いや、中には神様と通じて未来を知る事が出来る者もいるのか?
『造物主の予定表』と言う話を、神様業界で聞いた事がある。
神様業界と言うのは神様の共同体みたいなもの。そこでいろんな物品の魂が取引されたり、宴会したりしている。争いはないので、人間の町と比べかなり平和な場所だ。みんな死んでいる上に、未練たらたらの連中はそもそも行けないし、そこまで強い我欲がないのだ。ちなみに式神は皆、そこから来る。
話を戻す。話では、どこかに万物の未来、全てを記した何かがどこかにあると言う事だ。実在かどうかは知らない。
しかし稀に確かに視える者はいるのだ。神様が視える如く、その存在を視える者が。そういった人物が預言者であり、つまりは占いや宗教のルーツだろう。マヤの司祭とかノストラダムスとか、某宗教のメシアとかも恐らくはその一人だ。
ただこれは知り得ても、未来は不確定であるために、見た時点での未来は確かにそうなのかもしれないが、刻一刻と変わってしまうのだ。近い未来ならば比較的近い現象が起こるが、遠い未来はそれこそ定かではないのだろう。
だから起こりはしなかったが、話が正しければ確かに彼らは視たのだ。人類の終末の日を。
この存在は割と有名らしく、人間の中でも知れ渡っている話らしい。人間たちがなんて呼んでいるのかは知らないが。
「それでだよ。日向くんに朝霧さんの占いが本物かどうか見て欲しいんだ」
「……あのな」
何かこいつは勘違いをしている様だから、改めて入念に言い聞かす。私は『影がない』だけで、そういった怪現象とかオカルトチックな何かを解明する事が出来る訳でも、詳しい訳でもない。
「まったく、朝っぱらからビービー何を泣いてるのかと思えば……」
「えぇー、日向くん分からないのぉ? 使えないなぁ」
「私が怒る前に黙れよ?」
「……はい」
人間には物理的に法律で守られているので何も出来ないが、精神を崩壊させるのは割と簡単でおまけに自由だ。少し問題があるからあまり使いたくは無いのだが、相手がその気なら躊躇う気など毛頭ない。
「でもなんでその朝霧さん? を本物かどうかなんて知りたいんだ?」
「ヴ……。言っても……怒らない?」
どうせ下らない理由なのだろう。
「のう祀、少し付き合ってやってはどうじゃろう」
突然口をだすお嬢。また悪い癖が出たか……。私の双肩に手を置き、楽しそうなおもちゃを見つけた子供の様にはしゃいでいる。その様子を目の前のバカは視えていないだろうから。
「……分かった」
「え?」
「とりあえずその人に会わせろ」
「どしたの急に」
お前の知る必要のない事情だよ。とも言えず、気まぐれという答えにまとめておく。あながちウソでもない。私のではなく、お嬢のと最初に付くが。
善は急げとばかりに、人を教室から連れ出してどこかへと向かう神代。私の待てと言う静止も聞かずに引きずっていき、やがて同階の、ある教室にたどり着く。
「特進ー?」
この学校は私立だが、学問に部活動にかなり精力的で、学業の方では各学年、希望者の中から上位者のみを選り出した特進クラスと言うものがある。あるのだが、意識した記憶はない。学業など真面目にする気はないのだ。
中に入れば、そこにはこのクソ早朝にも関わらずに、部活動の朝練という訳でもあるまい。何やら紙の束を数枚取ってはホチキスで留めると言う、何とも地味で空しい事務作業の典型みたいな事をする女子がいた。成績優秀の上にそんな事を朝っぱらからしているのだ。彼女を真面目と言わずして誰を言うのだろう。
……頭の堅い人間は苦手だ。騒がしい人間も苦手だが、それはそれで別のベクトルである。
にわかに扉の開閉音に気づき、こちらを向く。するとすぐに私達が他クラスの人間である事に気づいて、疑問符を浮かべていた。
気のせいかもしれないが、若干お嬢に似ている。気の強そうな目元とか。言えば後に仕返しされるので、何も言いはしないが。まぁ髪の色は、お嬢の漆みたいな艶のある黒色は滅多にいないから仕方ないとして。またお嬢は下ろした長髪だし、鼻や口元を取って見ても全然似ていないか。
「あっ、昨日の……」
彼女は神代の事を覚えているらしく、小さく声を上げる。
「覚えているのなら話は早い」
神代は何故か、高圧的な態度を取って、わざわざ足音を立てて彼女に近づいて行く。私は入り口付近で待機し、事の成り行きの傍観した。
「何かしら?」
彼女の机の前まで歩いた神代は、突然何を思ったか勢いよく机を叩く。刹那にびくりと反応する女子生徒。
「とぼけるな……。貴様の悪行、この神代東矢が全てお見通しだぁっ!」
バーンッ……………。
………………。
………。
「……満足したか?」
「うん」
「じゃあ帰ろうか」
「うん」
神代を連れて、迷惑をかけたと一言わびて教室を出たその時だった。
「ちょっと待ってよ日向くん! 全然まだ用終わってないよ!」
思い出しやがった。
「芸人の方だったのねー……」
さっそく間違った覚え方をされているので訂正。
「こいつがソロでやってる事だ」
「それだと僕は芸人だ!?」
反論する僕っ子は放って置いて、件の女生徒と自己紹介を交わす。明日になれば忘れる相手に、意味もなさそうな気がしないでもない。シカト!? と叫んでいるが、もちろんスルーして私は名乗る。
「わたしは『朝霧 海石榴』」
そう名乗る女生徒。しかし私は片鱗も興味はなく、返事も素っ気ないものになる。
「それで日向くんは何の用なの?」
だと言うのに、少しも不愉快そうな気配を見せずに言う。……意外に思った。大概は怒りを露わにするか、そうでなくとも冷えた対応を飛ばしてくる物だが。ただの鈍感なのか、それとも人間が出来ているのか。
私は神代が握りしめているタロットカードをひったくると、彼女に差し出す。
「何? これ」
「……? これで占いするんじゃないのか?」
「違うけど……」
話が違う。私と朝霧さんは同時に神代を見た。するとそいつもまた首を傾げていた。
「あれ? 僕、タロットカードを使うなんて言ってないよね?」
「……そうだったか?」
「そうだったよ。やだなぁ日向くんたら、は・や・と・ち・り☆」
神代が私の額に人差し指を当てて、軽くはじいた。……刹那だった。
ぎゃあぁぁぁあああ止めて止めて止めてぇえええええ!
と、早朝の校舎に悲鳴が響く。かく言う私は、こいつの頭蓋が軋む勢いで暴れるそいつを顔面を掴んで持ち上げていた。
「……死んじゃわない?」
「首絞めてる訳じゃないから」
やがて全身の力が抜けてぶら下がる神代を見て、朝霧さんは親切にも彼の心配をしていた。こんなやつ、心を痛めるにも値しないと思うのだが。
これは右に捨てて置いて。
「さて、本題に入ろう」
「え、ええ……」
お嬢が神代と言う男の残骸をつついて遊んでいた。
「朝霧さんは未来が視えるってのは本当か?」
「……またなの?」
また? と尋ねると、朝霧さんはその理由を語る。
以前にある悩みを持つ友人がいたのだと言う。その悩みの内容はと相手の名前は、プライバシーに関わる事なので明かせない。その友人の悩みの解法を、まぁ彼女が直感的と言うか何というか。ある日彼女に触れたら視えたのだそうだ。それを友人に伝えた所あっさりとそれで解決した。その話はそれで終わる……ハズだった。
事もあろうにその友人は、彼女の事を未来視出来る人だと触れ回ったのだそうだ。以来その噂を聞きつけて、自分も見て欲しいと来る人間があるのだと言う。
「口の軽い事だな」
そして未来を見られると言う事の意味を分かっていない連中も馬鹿だ。
「日向くんは、そういうのの専門家なの?」
「専門家じゃない。じゃないが……まぁ信じるか信じないかは自由だ。私はみんなが幽霊と呼ぶ連中が視える」
それをどう勘違いしたのか、神代のバカが本物かどうか見て欲しいと、泣きながら来たのだと説明すると、あー。と何か納得したように朝霧は呟く。
「ゴメンナサイ、それ多分わたしのせいかもしれない」
「どういう意味だ?」
「いつもはちゃんと説明して、帰って貰うんだけど……昨日も一組彼の前に人が来てて、ちょっと……ね」
なるほどと納得する。うんざりしていた所に、この純朴そうな青年が尋ねて来たという訳か。
「ちょっと悪戯してやれと思っても不思議じゃないな」
「うん、話分かるね」
自慢にならないが、同様の経験は積んで来たからな。忘れるか気味悪がって離れる前に、一度は好奇の目で寄って来るものだ。しかしそこで、視線が若干左へと泳いだのを見逃さない。
「明日、再起不能になるまで打ちのめされるって言っちゃった」
…………私はそこで再起不能になっている神代を見てみる。……少し情報公開ついでにカマでも掛けてみるか。
「それで、実際はどうなんだ?」
「実際ってどういう意味かしら?」
「本当に未来が視えるのかって意味だ」
首筋を掻きながら言う。朝霧さんは少しの沈黙の後に答える。そのアンサーはNOだ。
「お嬢、どうやら視えないらしいです。とんだ無駄足でした」
お嬢? と呆気に取られる彼女を余所に、私は席を立ち、真相を知れば興味はないとばかりに神代の首根っこを掴んで去ろうとする。
これで何の反応もないならば、本当に視えないか、あるいは他のそういった連中と関わる気はないのか。後者の、いわば同類同士だったとしても。折角のお嬢曰く暇つぶしの種だが、明かしてはくれない事には話にならない。
「あ、あの!」
―――食いついた。
「日向くんは、幽霊が視えるん……だよね?」
「……視えるんだな?」
「その……たまに」
まぁそんな物だろう。超能力がどんな物かは知らないが、きっと多分、霊能力と似たような物。何かの拍子に使えるのだろう。スプーン曲げと言うのが一時期はやったそうだが、あれは一体どれだけが本物で、どれだけが偽物だったのやら。人はとかく、一度でも出来なければ騒ぎ立てるからな。結局今では分からない。
「あ、でも本当に、触れた拍子に突然とかで、いつも視えたりはしないからその……!」
「分かってる。私はある意味同類だ。覗き魔だのなんだのと言う、そこいらの人間と一緒にするな」
少なからず勢いで言った所もあるのだろう。覗き魔と言う言葉に、怯える様な目をした彼女だったが、すぐに安堵の表情へと変わる。それから他の心配も思い当った様で、昔自分が思った事を思い出しながら、それを列挙した。
「別に疑ってる訳でも、かといって好奇心って訳でもない、それから利用も考えてないし、誰かに言うつもりもない。……これで全部か?」
「……う、うん。……日向くんこそ超能力者じゃないの?」
さてな。幽霊が視えるのが、人の能力を超えた物だと言うならば超能力者なんだろうが。正直そうであろうがなかろうが、どっちでもいい。
ところで。最初に思った事を訂正しよう。彼女に興味がなかったが、名前ぐらいは覚えておこう。例え彼女が忘れたとしても。
「そういう意味じゃないんだけど……まぁいっか。でも、じゃあなんでわたしに会いに来たの?」
それは私に会ってみようと言った人に聞かなければならない。で、なんでなんですか? お嬢。そんなゴミつついて遊んでないで答えて下さい。
「戯れと言うたであろう?」
「戯れだそうで」
はぁ……と、自然に通訳する私を、一応信用して納得はしてくれたらしい。本物だと。
ホームルームの時間も近づき、真面目な彼女は私に自分のクラスに帰るよう促す。辺りには自主学習をする生徒が増え、窮屈なこの場に残るのはやぶさかではないので、とっとと出ていく。
戻る途中でふと、これを保健室に連れて行くのも、教室に連れて何か聞かれるのも面倒だと気づく。なので男子トイレに立ち寄り、未だ伸びる神代を個室へと押し込み、適当な紙に『猛獣注意 餌を与えないで下さい』と書いて張り付けておいた。鍵は開かない様に固定してと。
「よし」
有害指定生物の封印に成功。
……それから6限が終わるまで学校にいたが、神代の姿を見る事はなかった――――。
のそりのそりと下駄箱から下足を取り出す。
「のぉ、祀。暇じゃ。のぉ」
背後ではしきりに、お嬢がブツブツ何かを言っている。これは昼を超えた辺りからだ。はいはい、どこかから面白い何かがやって来てくれるといいですね。
「なんじゃつまらんやつめ。祀はそれで良いのか?」
「お嬢が居ればなんでもいいですよ」
「……むぅ……。その物言いは、何やら卑怯ではないか」
どうしたのだろうか。神様のくせに朱の差した頬で、口を尖らせている。
「独り言は、ほどほどにした方がいいわね」
下校時間帯をわざわざずらして帰っているので、今ここにいるのは私だけだ。だからこそ、お嬢と平然と話してる訳なのだが。どうやら盗み聞いていた悪趣味なやつがいるらしい。
「そこの怪しい人」
どこかで聞いた声かと思えば朝霧だった。誰が怪しいだって?
全寮制と言う事はだ。例外なく全生徒は同じ宿舎っていうか牢屋っていうか寮に帰る。必然的に同じ方向へと歩く朝霧と私は、傍から見れば一緒に帰る友人にも見えるだろう。バスを使わずに歩いて行く私に、朝霧はついて来る。
「それで、何の用?」
あの場所で、偶然見かけて声を掛けたなんて都合よく考えられる程、私の頭は簡単に出来ていない。私には影がないのだ。探そうとしなければ見つけられるはずもない。
故に、私を私と言う個人として認識する生者に偶然はないのだ。
「なんか怒ってる?」
これだから人間は――――。わざわざ語調を和らげ、感情のある様に言わなければ不安になるらしい。人の顔を窺って生きるのは疲れやしないのだろうか。これが私の個性だ、個性。
言っても仕方ない。それは生者には分からない話だ。差違だとか個人尊重だとか言いながら、汎化した人間を作る謎の社会システムを作る妙な連中なのだ。そんな同じ人間ばかり作ってどうしようと言うのだろう。
改めて訊ねると、言い辛そうに、言葉を選ぶ様に私に聞いて来る。
「あ、あのさ。日向くんはさ、その……いつから?」
「生まれた時からだな」
「そ、そうなんだ。それで悩んだ事とかって……」
「ないな」
少なくとも記憶にはない。小学生低学年から以前の記憶はあやふやだが、誰だってそんな物だろう。
物心ついた時から神様たちが視える私にとって、神様は親身な親であり兄弟であり友人だ。親やクラスメイトや近所のガキに何か言われた時は、悩むと言うよりは反発した。
「強いんだね……」
「私は単に生きた人間に期待してないだけだ」
恐らく強い訳ではない。お嬢なんぞは、人が前に居ても平然と、祀ほ弱い人間は知らないと言う。……まったく。
「生きた……?」
そう、生きた人間はすべからく、言ってしまえば馬鹿だ。馬鹿は死ななきゃ治らないと言う言葉がある様に、一度死んで神様になれば、幾分マシになる者もいる。とても小さな事に固執するのは、生き物特有の下らない感情だ。
「私は……ね。突然。ある日本当、突然なの」
中学の入学式の日、すれ違った、袖の触れた見知らぬ生徒が、一瞬だけ怪我をする光景を視たのだと言う。それは校門前の交通事故で、五臓六腑が飛び散っている、見るに無残な光景。気のせいだと自分に言い聞かせながらも目に焼き付いて離れなかったのだと言う。
その2日後、その生徒は交通事故に会う。場所は学校の校門前。信号を無視した大型牽引車と、T字路から飛び出した彼が、衝突したらしい。頭はかろうじて残っているが、辺りは贓物と血の海。図らずも、彼女が幻視した光景と同じという訳だ。
以来触れた誰かの未来を視てしまう様になるのだと言う。それはいつもという訳ではなく、ランダム性が富んでいるらしい。未来の内容も、他愛のない日常の時もあれば、相手が何かしらの災難に会う光景であったり、幸福の瞬間だったりする。
問題は話の必然から言ってそれからだろう。彼女は真面目でお人よしが過ぎた。未来が視えるのだから、賭け事に使おうとかそういう頭には辿り着かなかった。ならばどうしたのかと言えば。
……日常をわざわざ人に告げる必要はない。
……かといって、幸福もまた事前に教える必然はない。
――――ならば、朝霧がどうしたかなど問う必要もない。不幸を予言したのだ。その相手に。
確かに造物主の予定表は不確定だ。単なる予定の事項に過ぎない。相手が意識をすれば、その未来は回避可能かもしれない。
だがどうだ?
貴方はこれからどこそこで怪我をするから気を付けて、なんて言う者がいれば、皆はどう思う? 感謝なんてまずないだろう。かと言ってシカトをするには妙にリアリティがあり過ぎる。恐らくは。
不気味。
の一言に尽きるのではないだろうか。
「最初はそれだけで済んでたんだけど、段々エスカレートして……。それから、『魔女』とか『覗き魔』とか『疫病神』とか……後は口だけじゃなくて……いろいろ」
「それでも止めなかったのか?」
お人よしもそこまで行けば立派だな。
「だって、力があるなら人の為に役立ててこそじゃない?」
そんなのは生きた人間の窮屈な論理だ。力に善もなければ悪もない。折角与えられたのなら、自分の自由に使えばいいではないか。泡沫の夢は短い。死んでも使えるとは限らないのだから。……まぁしかし。
「それも用途の一つではあるか」
「うん……そう思ってたんだけど、高校に入ってからは……」
躊躇えるのだろう。自然な感情だ。それで続けていたら、いよいよ能天気だと思っていたところだ。
「あ、だけどね、幼馴染は全然平気だって言ってくれてね」
「なんだ。味方がいたんじゃないか」
私にはお嬢と言う神様が居た様に、彼女にも理解者はあったらしい。辛い境遇でも、無条件に信じられる誰かが居てくれると言うのは心強い事だ。……お嬢は分かっていないだろうが。
大きな池の周りに生える、背の高い葦原が見えてくる。暑さ厳しいこの夏の日、部屋に帰るのは億劫だ。エアコンだの扇風機だのと言う人工物はどうにも好かない。言うまでもないが、水辺と言うのは涼しい。
「それじゃあ、私はこの辺で涼んでから帰る」
「涼む?」
小首を傾げた朝霧を余所に、私はさっさと森の中のその水辺に。
「あ、あのさ! また話とか聞いていい? ……初めてなんだ。こういう話出来る人……」
「ご自由に」
別にそれほど苦でもないし、退屈でもない。
「ああ、それから朝霧さん」
でもどうしても、一つだけ気になったので尋ねてみる事にする。
「人の顔色を見て生きるの、面倒じゃないのか?」
何気ない一言と言うか、彼女の態度を見ていての疑問だったのだが、すると朝霧は言葉を詰まらせて、何も答えないままに走り去る。
「なんなんだ?」
「さーての」
湖から何やら巨大なアンコウが大口を開けて現れた。しかし話を聞くと比較的温厚なやつで、そいつと話しながら日が沈むまで涼んでから、寮へと帰る。
……ところで、アンコウは淡水にいないのだが。なぜわざわざあんな姿なのだろうか。
◇
ダンダンと低く響く、金属の板が殴られる音に目覚める。
「だぁっうるっさいわぁ! どこのどいつだ!?」
朝の7時……まったく今日は自主休講にし、午後からどこかへ向かおうと思っていたところを。この場合のどこかは、本当にどこか。
「ひーなったくーん!」
………………。
とりあえず一発殴った。神代は涙を浮かべて頭をさすりながら、人の横で文句をつらつら並べていた。危険指定害獣の檻をどうやって破ったのか。
とりあえず昨日の朝霧の未来の話は、お前に言ったのは嘘っぱちだと安心させて再びの眠りにつこうとした。のだが、半ば無理やり制服に着替えさせられ登校させられている。本気で……ウザい。
「それで今度ね、部活に入ろうと思うんだ!」
へぇ。
「でね、今他の部員探しをしてるんだけど」
ほぉ。
「日向くんの名前でも入部届け書いて出しといたから」
ふぅん。
「ところで2組のドッペル佐藤さんなんだけど」
……待て。今お前、なんて言った?
「あ、もしかして興味持った? ドッペル佐藤さん」
そんな二重だかゲンガーだか分からんやつに興味はない。その前だ。
「誰をどこの部に入部させたって?」
こいつはまったく、どれだけ痛い目を見れば気が済むのか。言っておくが私は人を痛みつけて悦ぶ性癖の持ち主ではない。怒り心頭に尋ねると、実に邪気のない笑顔で言ってくれる。
「日向くんと僕と天津くんが、めでたくこの度『PR部』に入部しました!」
ぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……………!
………………。
さてと。もう迷って目覚めるなよ。通学路の途中の森の中に墓標を立てる。
「しかしのう、祀」
「なんですか、お嬢」
「部活動とは、同じ趣味の人間同士が集まる場であろう?」
それがどうかしましたか?
「おぬしはこれまで、ずっと神の中で生きておった。……たまには思わぬか? 生きた人間の道を歩こうとは」
――――それは、どういう意味なのか。またいつもの、お嬢の戯れの言葉なのだろうか。あるいは暇つぶしの為に、私に何かをさせようと言うのだろうか。
「分からぬなら良い。それも一つの道じゃ」
道は一つにあらず。
正道などどこにもない。それは、数多の神様から伝え聞いた言葉だ。自分の悪を見定め、自分の善と思うところを欲すれば、おのずと道とは拓ける物。清濁併せのむのは、やはりどこか無理をしなければならない。折角の自分を犠牲にしてまで、何にしがみ付いているのかという意味だ。
しかし今のお嬢の言葉は……まるで……。
「今更、戻れるって……言うんですか?」
過去に自分が捨てた、数々の物。思い出すのは、悲し過ぎて、ずっと蓋をしていた。
例えばそれは、友人と共に河原を駆け、トンボを追う日々。
例えばそれは、親子そろった居間での、暖かな食事。
例えばそれは、級友と学校行事で汗水流す事。
影がない故に捨てざるを得なかった日々。神様の中で生きている私には、決して手の届かない日溜りであり。それはつらく苦しい世を生きた者にだけ許された場所。
選ぶ権利すら、存在の認められない私には与えられなかった。
「――――っ私には、お嬢や式たちが居ます……何も、寂しいなんて事は、ありません」
「……そうか」
そういうお嬢の表情は、ひどく悲しげに見えた。
「はぁーっはっはっはっはっはっはっは!」
……なんだろう、あいつ。
それから会話もなく、まばらに増え行く生徒の群れに馴染み、私とお嬢は学校を目指す。なんとなく、今はどこかをぶらつく気分にもなれなかった。
そして校門が目視できる位に近づくと、そこには自信の満ちた高笑いをする男子生徒がいた。生徒の誰もが一度視線を送ると、関わりたくないとばかりにそそくさと校内へ。
「おぉ!」
突如、知り合いでも見つけたのか、両手を大きく振って合図をする男。しかしその周囲は半径4m以内に誰も入らない空白地帯となっている。しかし、あの男の知り合いだ。よっぽど強烈な個性を持った奴だろう事は想像に難くない。
さてさて、私も他の生徒同様に紛れて避けていこう。変に絡まれても面倒だ。ただでさえ、神代という厄介者が居ると言うのに。
「そこのお前!」
授業はどうやって乗り切ろう。結局退屈なのは変わりない。
「貴様だ!」
やっぱり帰ろうかなぁ。それで寝てようかなぁ。
「お前だと言うに!」
右肩を掴まれた。……高笑いをしていた男子生徒に。
「……冗談だろ?」
人間違いだと信じたかった。
「ああ、俺の様に高貴な者に呼び止められた衝撃はよく分かる。しかし心して聞け」
絶望だよ。自分で高貴とか言ってる辺り、かなり末期だ。
「俺の名は『天津 獅献』。後生にこの大地を総べる者だ! 覚えておけ!」
「とりあえず関わりたくないんだが」
「はっはっは! そう言うな同胞! いや、超絶霊感少年! 貴様の名を教えるがいい!」
なんで名前も知らないやつを探して、おまけに見つけられるのかなぁ。顔を知っていたのかと問えば、当然知る訳がなかろうと言う話。だけど霊感少年ってのは合ってるし……。
「細かいなお前。トーヤの奴から伝え聞いた雰囲気から探しただけだ」
トーヤ? ……さて、どこかで聞いた事がある様な名前の気もするが。どこだったか。自分に知り合いなんてさほど多くはないが。名前からすれば多分人間の……。
「ちょっとちょっとお前、神代東矢だよ。そこで悩むなよ」
「「ああ!」」
それぞれお嬢と私は手の平を拳で叩く。多分今頃森の中で墓標の下にいるだろう。さすがに埋めてはいないから生きていると思うが。
「そこの君も納得してあげないでくれたまえ」
………いや?
恐らく私達はそろってマヌケな顔をしているだろう。この天津と言う男が、『そこの君』と言った視線の先にはだ。
「お前……お嬢が……視えるのか?」
「存在している彼女が視えない方がおかしいと言う物だ!」
「普通は視えないもんじゃがのう」
「見目麗しい幽霊のお嬢さん? 俺はどんな次元の壁さえもぶち壊す男なのだ」
あながち冗談に聞こえない所が怖い。そのうち新しい人類を造り出したり、天空に浮く要塞を作ったりしそうな気配さえある。
「ふむ、さすがの慧眼恐れ入る。それらは俺のプランの一部の話だ」
本気らしい。でもなんで、こいつはこんな自然に神様であるお嬢が視えているのだろうか。問えば天津は、何か腹に一物もっていそうな、歪んだ目を指差して。
「元々視やすい体質でな。それを俺が発明したコンタクトで補っている」
「……ほぉ」
それで神様がいつも視えるってのか? 私には必要はないが、便利な事だな。一体どんな構造なんだ。
「企業秘密だ。それよりもだ、これで俺が何者かは分かったと思う」
全然さっぱりだよ。むしろ謎は深まったよ。とりあえず分かったのは、関わっちゃいけない人種って事だけだ。
「って事で、ここいらでそろそろ、名乗ってくれてもいいんじゃないかい?」
「日向祀。こっちはお嬢」
「うわっ……なんだその『とりあえず要求に答えてさっさと関わりを断ちたいなぁ』オーラは」
言ってくれてありがとう、その通りだ。そして分かってるならさっさと解放してくれ。先ほどから生徒が避けている事に気づかないのか? ……まぁ、こうして話している間にもどんどん通る数は減っているが。
「ところでだが、お嬢さん? 名は?」
「ない。祀はそう呼んでおる。おぬしも好きに呼べ」
しかもこんな往来で堂々と……。普通は視えないって事を忘れていないか? ―――考えても見れば、こいつは私を探している間怪しげに高笑いをしていた。今更気にしないのだろう。
私も気にしない質ではあるが、わざわざ人間の間に波風を起こしたくもないので、なるべく控える。つまりこいつは私以上だ。しかしなるほど。こいつは私を探したのではなく、お嬢を視て私と判別したのか。
「それじゃあさよなら」
「ああ、待ちたまえ待ちたまえ。まだ本題が終わっていない」
本題? ……ああ、そういやなんで私を探してたんだ? 関わりたくないという感情が先行して、失念していた。
「それなんだが、トーヤが一緒に登校してくると聞いたのだが」
「途中まではいたな」
ある地点で土に還ったが。
そうか、と特に気にした様子もなく、要点だけを簡潔に天津は聞いて来る。
「では聞いているか? SR部について」
部活の話か。……神代は確か、自分と、私と……あともう一人の名を上げていただろうか。天津ってこの男の事か。
「お互い災難だな」
こいつも面白い性格をしているし、神様に詳しい様だしであいつにまとわり付かれているのだろう。
「あれは俺の発案だ」
「退部届を貰ってくる」
神代の言う事ならば放置すればいいと思っていたが、この男が相手だとなぜか勝てる気がしない。―――さっさと縁を切れ。直感がそう告げている。この手の感は大抵当たるのだ。
「言っておくが、俺はトーヤの様に甘くはないぞ。一度目を付けた者は、地の果てまでも追い詰めるのが趣味だ」
天津は不敵な、見ているこっちが底冷えする様な邪悪な笑みを浮かべた。それを聞いてしまっては訊かずにはいられないのが人情と言う物だ。
「……ちなみに私は?」
「合格点だ。いや、それどころか俺の相棒はマツリンしかいないと見た!」
背筋に今度こそ悪寒が走った。それから奇妙な愛称を勝手に作って呼ぶな。
「さぁマツリン! 共に世に革命を起こそうじゃないか! 俺の技術はすでに不可視の領域にまで踏み込んだ!」
勝手にやってくれ。私を巻き込むな――――っておい!
天津は細腕の割にすさまじい力で私の腕を引く。脚力も思いの外あり、追いつけずに何度か上体を持って行かれる。それでも転ぶまいとバランスを取る。
彼の指差す方向には果たして何があると言うのだろうか……。
「教室かよ!」
「はっはっは! 俺たちは所詮学生だ。革命の前にまずは勉学に勤しむとしようではないか」
意外に真面目だった。
◇
空を見上げながらぼんやりと考えていた。本来立ち入り禁止の屋上から望める校庭では、食事後の球技に興じる、比較的活発な生徒が見える。
例えばあの中に私が混じる事など、出来るのだろうか―――。その答えはいくら考えても否だ。どうして今朝、お嬢はあんな事を言ったのだろうか。今はいない齢千年超の強力な神様を思い浮かべる。
ずっと一緒だった。あの日出会って以来。
危険指定の八百万の式神が成仏するまで管理をしていた彼女と、影がなく常に人間からあぶれていた私は、孤独であると言う点でよく似ていた。またどこか人間を厭い、世捨て人にも似た感性がお互いを意気投合させたのだろう。
人間の世界は下らない。それがお嬢と私の共通認識であったはずだ。
それが急にあんな事を言い出すのだ。そりゃこちらは混乱もする。
「そう言えば、八百万の式神って言っても、あと……」
どれだけ残っていただろう。私が使役しているのは、ちょうど片方の手で数えられる数だ。それ以外の、自分の意志でどこかに行った者や、反発していなくなった者だって私達は把握していないが……。
……その連中が消えたら、お嬢もまた消えてしまうのだろうか。私達はずっと、このままでいられるのだろうか――――。
「校則違反、発見」
感慨に浸っていると、ここの入り口から咎める気など皆無の声が聞こえた。声の響きで誰かは特定可能である。私は振り返る事もせず、結局忘れる事のなかった彼女の名を言う。一体どういう法則の下に、私は人の記憶に留まれるのだろうか。
「朝霧さん、なんの用?」
「別に用とかそんなのないけど……」
ここから見える校庭の時計を見れば、時刻はすでに一時になろうとしている。一時になればもちろん午後の授業の開始だ。私は元より出る気はないが。
「わたしもさぼっちゃおうかなぁ」
「ご自由に」
「学校はお金払って来てるんだから、ちゃんと出ないとダメだよ?」
優等生みたいな事を仰る朝霧に、少々……そう、戯れだ。悩みを打ち切るきっかけにでもなればいいと、下らない論理を教える。
「……学校の授業を受けなくていい理由を説明してやる」
この国の法律では、教育を受けさせる義務は親が負う。つまり親は子に教育を与えなければならない。しかし子には、教育を受けなければならないと言う義務はない。あるのは権利のみ。権利ってのは、行使するかしないかは持つ者の自由。つまり学校の授業は、受けたくなければ受けなくても良いのだ。
「へえぇ……」
感心した様に、朝霧は口を開けて私を見る。中学の時、不登校の私を見かねた鬱陶しい担任に言ってやったやつだ。以来そいつは二度と私の前に現れる事はなかった。
始業のベルがなる。校庭にはいつの間にか、グラウンドの一角に体操服を着た生徒の一団が集っていた。
「……私は……。私は物心ついた時から、周りには人に視えない連中がいて、その中で育った。結構小さい時から自分は少し周りとは違うって知ってた。だから私は人を遠ざけたんだ。すぐに忘れるからと言って、関わる事を止めた」
気付けば私は何を言っているのだろうか。どんな事も独りで決め、何でも独りでやって来た私は、一体何を恐れていると言うのだろうか。この胸にわだかまる、言い様の知れない不安は何だと言うのか。それは……お嬢たちが居なくなってしまった未来なのか?
「それは……」
あるいは、捨てた物の中に後悔を見出す日を予感しているのだろうか。
「それは、凄く寂しいね」
「―――――っ」
まただ。お嬢に問われた時と同じだ。どこか郷愁にも良く似た感情が、狂おしい程に締め付けて来る。
どうしてだ。どうしようもないのだ。
前に人間の敵があるならば、軽く捻ろう。
後に神の敵があるならば、容易く葬ろう。
天から難題があったとしても、いなして見せる。
地より災いがやって来ても、生を諦め死に生きよう。
その自信はあると言うのに、なぜ内から来る疑問にこれほど悩まされるのだ。
「あ、あのさ。一緒にさ、人を信じられる様に訓練……しない?」
「訓練?」
「そう。わたしも日向くんに言われた通り、中学の事があったからかな。少し人の顔色ばっかり窺ってた。力を知られても嫌われたくないって。それでなし崩し的に生徒会の手伝いとかもしてたんだけど……」
朝霧は何か解放感にでも浸る様に、全身で風を受ける様に諸手を上げる。
「なんか日向くん見てたらバカバカしくなっちゃって。今朝、ぜーんぶ辞めて来た!」
片腕をクロスさせて伸びをする。
「そりゃまた……思い切った事したな。無責任なやつ」
「だってわたし”手伝い”だもん。責任ないもん。それにみんな調子乗り過ぎ。わたしは小間使いじゃないっての!」
聞こえる聞こえるぞ。教室は2つ下の階だからな。
「だから、今度は自分が居たい場所を作ろうって思って。一緒にやる気ない? 例えば……部活動とか!」
なんてタイムリーな話なんだろう。一体誰が彼女に吹き込んだ……のは私か。
「どう?」
……いい機会なのかもしれない。自分がこのまま神様の方に居るのか。それともあるいは……辛い道にはなるが、人の方へと戻るのか。果たしてその価値があるのか。
――――見定めよう。
「SR部? ……そんな部活、うちにあったかしら?」
おいおい先行き不安になって来たぞ。
◇
キーンコーンカーンコーン……と、まぁそんな古典的なベルを鳴らす様な学校でない。何故か校歌のインストを定時に流すのだ。たまに放送員の遊びか、それがゴ○ラや、ダ○スベイダ○や、スパイ○ー○ンやらのテーマ曲になったりはするが。
イントロ……。と同時に、天上にある網目の空洞がバンッと音を立てて開いた。多分空調か通気口かその辺のものだろうが、まさかそんなもんが開かれる日など、誰も意識すらしていなかったので、終業の放送とかそっちのけで目が行く。
「とう!」
なぜかそこから、ガスマスクを装備した天津が滑り下りて来た――――。
誰も何も聞けない。どうしてそんなところから降りて来たのかなど、教員ですらも問えない。だって聞いたら負けな気がするのだ。天津のやつはきょろきょろと周囲を見渡す。
「なんだこのクラスは。まるで阿呆の集団だな」
そしてとんでもない侮辱をかました。
「マシなのはトーヤ。石に交じった玉はマツリン位なものか。やれやれ」
こっちを見るんじゃない。そして手を振るな。数名がこっちを見て、同類がいるみたいな目で見てるだろう。人間界を知ろうとした矢先に、全力で溝を深めてくれるな。
「待ってよシノブー」
……なんでお前が、やつの後から出てくるんだろうな神代。
「おお、お嬢殿にてはご機嫌麗しゅう」
かつかつと、威風堂々たる足取りで、一体お前どこの職業軍人だと言いたくなる風情で私の席へと迫る途中。すぐそこの窓枠で油を売っていたお嬢に、ガスマスクを外して一礼。
「うむ、苦しゅうない。面を上げい。……わらわは深く形式は気にせん。上げてよい」
「はっ」
――――本当なんだこいつ。
全体の総意はそんなところか。傍から見れば一礼して顔を上げただけだ。……虚空に向かって。
「誰だお前」
「はっはっは! これは面白い冗談だ! この俺に会った者は一様にしてお前を忘れる事はないと言うのに!」
そりゃそうだろうな。悪い意味で。
「いいだろう、気に入った。ほら立ち上がれ! そこから道は始まるのだ!」
悪い冗談にしか聞こえない……。天津は私の両腕を取り、無理やり立ち上がらせた。全力で間違えた方向へとひた走らされる様な気がするのは、気のせいなのか?
そして重要な事だが、私は一度も何も承諾していない。
引きずれらながら、未だ呆然とする教室に向けて別れを告げた……。
「どこに連れて行くつもりだ」
「おいおい、人の話を聞けよマツリン。俺たちはSR部の仲間じゃないか」
そもそも、SRって何の略だよ。SLの親戚か? 鉄道なんてこれっぽっちも興味ないんだが。
数分後には、別棟最上階の一角に俺達3人は居た。比較的新しい校舎だと言うのに、階段付近を除いた場所は、クモの巣が蔓延り、あちらこちらに煤だの埃だのの後が見えた。正体不明の赤い染みまでもが壁にある。
「この辺りは、我が校でも異質の部や団体のみに部屋が与えられる。その1つがSR部という訳だ。ちなみに機密に関わる部分もあるので、これ以上の詳細説明はNGだ」
胡散臭い事この上ない。なるほどこの異空間にもよく似た雰囲気に圧倒され、一般生徒は迷い込んでも逃げるのか。はっきり言って夜の樹海の方が幾分マシである。
「ちなみにSRとは、サイキック・リサ―チの略だ」
サイキック(超能力)・リサーチ(調査)……か。
「超能力とは便宜的な言い方で、実際は選別的に人間が持っている能力全般を研究している。君に備わる霊能力もしかりだ」
霊能力者だなんて言った記憶はない。
程なくしてその教室はあった。まるで数世代前の理科室の様に趣きで、中にはホルマリン漬けでもあるんじゃないかと想像させる。またどこか西洋の怪しげな館にも似た……そうか、扉がおかしいのだ。引き戸ではない。わざわざここだけ、ウォード錠前がつけられた、両開きの扉だ。
「頼もう!」
片手で天津は木造の結界を破る。
果たして中に居たのは、マッドサイエンティストでも狂った精神患者でもなく。
「あら、SR部にようこそ」
魔女と言う単語が似合いそうな、挨拶の言葉からも毒が滲み出た女生徒だった。たかだかティーンエイジで、魔性だの妖艶だのが似合う人を初めて見たよ……。手にしたパイプからは、煙が立ち上っている。
教室の中はノスタルジックを飛び越えて、不気味としか言いようのない古臭さが全面的に溢れている。周囲は図書館よりも蔵書は多いのではないか。びっしりと色あせた本で囲まれている。
「悪魔の召喚でもやっていそうじゃな」
素直な感想をお嬢は漏らす。彼女の式の中には西洋の悪魔と呼ばれた神様も居り、召喚術とは神様を呼ぶ事に他ならない点で、私とお嬢の使う式神にも似ている。確か5百年前までは『ダルタリアン2世』という魔も使役し、その知恵は大変興味深い物だったとか。
「あら、正解よ」
「なんだよこの学校! どうしてそんな視える連中がそろってるんだ!?」
「騒がないで日向祀。それならバカも阿呆も同じ、中身の格が知れてしまうわ」
女生徒は平然と言う。口元に手をやって、薄ら笑いをちょくちょく浮かべる所が無性に怖い。そしてどうして私を知っているのだろうか。
「ここはそういう場所なのよ。一般生徒は知らないでしょうけど。でしょう? 天津氏」
「なんだ澪君。末端のくせに俺の正体を知っていたのか?」
どうやら何の組織は知らないが、彼女と天津は上司部下に当たるらしい。
「でなければ、貴方達の入部届なんか受け取らないわ」
彼女は一度、パイプに入った紙くずを灰皿に開けた。紫煙は苦手な私だが、不思議と何ともない。
「あたしは『石金 澪』。表向きはこのSR部の部長を任された者よ。貴方達の情報は分析済み。優先度SSSの日向祀、それとCの神代東矢。……あとまぁ、それからP‐Mr天津でしょう」
言いながら、辺りをぐるりと囲った本棚から一冊の本を取り出す。器用にももう片手でパイプに何かを詰める。本を脇に抱えると、マッチで火をつけた。一度それを吸い、息を吐くと恍惚とした表情を浮かべ、自分専用の席なのだろうか。書物が山積みにされた机に備え付けられた椅子に座る。……まさか危ない薬だとは思えないが。
「ところで澪君。この教室の有様は、一体どういう事だ?」
「形式って大事よ。悪魔と呼ばれる西洋の神々は特にうるさいし。中には、東洋の者ってだけで未開の蛮族ってイメージを持ってたりするし」
石金は暗に自分で教室を改造したのだと言う。
「廊下まで浸出してしまったみたいだけれど。これはこれで構わないわよね?」
クスクスと笑いながら言う。学校管理者は大いに構うと思うが。実際あの天津が、言葉を濁して迷っている。
「ところでプロフェッサー? 貴方がどうして、現場に入ろうなんて思うのかしら?」
彼女が天津に対して入部の動機を問いかける最中、奥にあるドアの向こう側から、けたたましくもおぞましい、この世の物とは思えない獣の咆哮が聞こえた。……神代は聞こえないようで平然としているが、他のお嬢を含めた全員は言葉を失う。
「またねぇ、まったくいい加減にして欲しいわ」
もう一人、聞こえていたにも関わらず平常心の部屋の主。
「本部には何度も、あれを片づけてくれないかって言っているのだけれど……」
「何とも……ないのか?」
「大丈夫。神様には絶対破れない檻の中だから。ちょっと大変だったけれど、こうしてしまえばペット感覚ね」
……ヤバさ倍増だ。よくよく見てみれば、ここの本棚の本、魂の入ってるまずそうな古書の山である。本や絵画、像の魂が神様になると、よく常識を飛んだ神様が出来上がる。何故かと言えば、芸術は空想や虚構の世界が入り混じっているためにそれらを内包した神様となるからだ。天草などいい例で、空想の生物である八岐大蛇そのものだ。
「呼び出して閉じ込めて置く事は出来るけれど、使役って出来ないの。よければ教えてくれなかしら? 日向くんは式神も扱えるのでしょう?」
どこから知り得たのか、ご存じらしい。不思議といつまでも聞いていたくなる様な、特徴的なソプラノと言うには少し低い、アルトに近い声で石金は言う。
忌み名を奪って使役すると言って分かるだろうか。
「忌み名ってあれかしら? 死んだ後の為に、生前に付けておく本当の名前?」
そうだ。生きている間はそれを知られたとして、確固たる肉体と言う存在がある為に影響など皆無だが、死んで神様になると、存在が希薄となる為に影響を受ける。名前とはその存在の意味を示し、それを奪われると言う事は、存在の自由を奪われる事に他ならない。ただしこの忌み名、ただ知るだけでは意味がないとだけは言っておく。
「なるほどね。それじゃあ、あたしには不向きかしら?」
「多分な」
そしてこれは、私に神様業界について語ってくれた神様の受け売り。
「いいわね。気に入ったわ、日向くん。入部許可よ。もちろんそちらのお嬢さんもどうぞ」
面接だったのか。結果が大変残念だよ。
「さてそれで……」
石金は、私と天津の後ろで未だに部屋の雰囲気に圧倒されている神代を見た。
「そこの坊やはどうして連れて来たのかしら?」
「坊やって扱いが酷過ぎない!?」
「あら失礼。でもあたし、一般人って興味がないの。ああ、これは感性とか性格って意味でね。加えてあなた、特筆して何か興味深い能力がある訳でもないし。霊がたまに視えるだけなんて、こっちの業界じゃ一般的過ぎてつまらないわ」
「じゃあ逆に聞くけどさ! どういう人なら興味あるの!?」
涙を浮かべて必死に反論する神代。しかし彼を……まだ侮辱するかの様な上から目線ならば望みはあったが、まるで興味以前に視界にも入れる気のない石金を見ていると、無駄な気配が濃厚だ。
「そうねぇ……。今はパイロキネシスにメイジとかかしら? エクソシストは知り合いがいるし、オリエンタルサマナーとテクノアルケミッカーは目の前にいるし……」
中々におかしな世界にドップリ浸かっているらしい。一応補足しておくと、パイロキネシスとは念発火能力者。エクソシストは悪魔祓い。メイジとは魔術師の事だ。オリエンタルサマナーは、訳すると東洋召喚士だから恐らく私。テクノアルケミッカーってなんだ?
「日本語では錬金科学者って言って、最近樹立した……そうね、超能力者のジャンルよ。代表的な家系は『天津家』。魔術とか霊能力とか超能力とかを、科学や工学で万人に与えようとする派閥よ。古典的な人達からすると異端中の異端ね」
その産物の1つが天津の身に着けていると言うコンタクトレンズなのだろう。
「『魔術は秘匿とすべき物』という前提を真っ向否定か。なるほど敵の多そうな事じゃの」
お嬢は呆れる様に言う。性格以外にも、そんな危ない人物だったのかこの人。
「ちなみにあたしはジャンル的にはサマナーなの。と言っても、セオリー専門だけれど。それで神代くんは何かしら?」
「ぼ、僕は……えっと……」
「坊やに無理は似合わないわ。時に自らの無知を認めるのも必要よ?」
絶対に答えられないだろうと予測している石金は優雅に含み笑い。神代は屈服して「はい……」と、項垂れる。その様子を見た彼女は、実に楽しそうに頷いた。
「その素直さに免じて許可しましょう」
まぁ、いいけどな。
「と、ところで石金さん? うちの校則だと部って確か最低人数5人じゃあ……」
黙ってればいいのに、神代は眼鏡を直しながら聞いた。すると石金は意外な事に、分厚い本を開いて聞こえないふり。
「他の執行部は頭数は揃え、表向きは普通の活動を行うと言うのに。澪君?」
咎める様に天津は言う。しかしそれでも彼女は何も答えない。
どうでもいいんだが、この学校では一体何が行われているのだろうか。こんな怪しげな場所がまだあるのか?
追及の手を緩めない2人と彼女を放って置き、一体いつ終わるのやらとお嬢と共に隅で蔵書を漁ってみる。……ギリシア文字で書かれているが。お嬢の、禁書もあるのーとの呟きに戦慄。
「失礼しまーす……」
控えめに、おっかなびっくりこの部屋の巨大な扉がわずかに開けられる。そこから頭を少しだけ見せたのは。
「朝霧?」
「あ、いた」
そう言えばSR部の話をしたっけか。
あれから彼女は気になって生徒会室に忍び込み(現在仲が険悪らしい)、部の場所などいろいろ調べた様である。
「でもさ、部員1人で活動内容もよく分からないって……。でも休部届は出てないし、かといって勧告しようとしたら、なんか学長が出て来たって謎の部みたいだけど……」
話に聞いていた通りならば、学校がそういった謎の組織に所属し、加えてこの部がその執行機関の1つならば、あり得なくもない話だ。信じたくはないが。
「ああ、そこの貴女、もしかして入部希望者?」
石金は神代と天津の2人を避ける様に、こちらの来訪者を認めて話しかけてくる。
「ちょっと待て澪君、話を逸らすな。末端の人間がそうだと、俺が苦労するのだと言う事をだな……」
そういや不思議なんだが、あんた達何歳だ。見た目は確かに高校生程度に見えるが、その年で全力で道を踏み外しているのか?
「しつこいわねぇ。だから、部員を5人にしてやればいいんでしょう? 勧誘よ勧誘。邪魔しないで頂けるかしら?」
心底面倒そうに石金は言う。そして表情をいきなり穏健に変えると。
「それで、どうなのかしら? あら、どこかで見た顔だと思えば、優先度A、未来視の朝霧さんじゃない」
「え? えっと……?」
どういう事? と私を見る朝霧。私だって事情の半分も理解できた訳ではないが、とりあえずここにいる連中は全員同類で、そして彼女は学校内のそうした能力者を把握しているらしい、と説明する。
「……で、日向くんは入部したの?」
「させられたらしい」
「じゃあいいわ。朝霧海石榴です! 入部します!」
よろしくない。いや、普通の人間の道から全力でここは逸れてるぞ。それでいいのか? 私はもうなんか逃れられない雰囲気だが、朝霧まで入る事は……。
「さて、これできっかり5人。文句は言わせないわよ?」
「まだだぞ澪君。人数を揃えただけでは意味はない。生徒会が納得する形の活動を行わねば」
「あ、あたしの活動を一般人共に晒せと言うのですか!?」
「別に君の活動をという訳ではない。この『部』の活動を、名目でも外に示せと言っている。まったく、トーヤが言うから入ったが、とんだ粗が見つかったものだ。報告次第では左遷ものだ」
「そそそれは困ります! 分かりましたっ分かりましたよっ!」
慌てて取り乱し、自分の研究成果なのだろう。数々の数式やら図やらの羅列された、数百枚には及びそうな書類群を必死に抱えこむ石金。
「コホンッ! 失礼しました。それでは……SR部はこれより、この5名を以って活動を開始します!」
部長の号令に、まばらに、はぁいと間延びした4つの声が古びた屋敷の趣きを持つ部屋に響いた。
まぁ、いきなり一般人に囲まれるよりは、こうした似た者同士が集った場所の方がいい……のかな……?
◇
「荒羅祇、この辺でいい」
「あいよ」
その昔、この国には牛車と言う乗り物があった。もちろん牛に引かせる車の事なのだが、牛を飼うなんて芸当は金持ちだけにしか出来ない。よって専ら貴族階級の移動手段である。普通に移動なら馬だっていいのだから。
しかしその牛車の中に一台だけ、一際強い思いを持った者が居た。私は牛車の神様を彼の他に知らない。
吹きすさぶ火炎の中、自らの主である某国の姫君を護る為にひた走った彼は、その命の半ばで敵の襲撃を受ける。そして崖から転落しバラバラになるも、すでに神として覚醒をしていた彼は長い事その峠に彷徨っていた。その時の姫の命は……。
ずっと、ずっと、何十年も、自分はまだ走れるのだと、姫を守りたいのだと、彼女の姿を探して峠を走り回っていた。願いと恨みと悔恨を秘めて走り回る内に、彼は呪い火をその身に纏っていた。お嬢と彼が出会ったのは、そんなある日らしい。
「しっかし」
森の中に降り立つと、胸元を大きくはだけさせ、引き締まった肉体を惜しげもなく披露した衣装の黒く焼けた肌を持つ男の姿に牛車はなる。彼が『呪火の朧車』と大昔の村で恐れられた荒羅祇だ。彼が走ったその山は、百年に渡り禿山となったのだと言う。もっともその事実は、完全に歴史から抹消されているが。いわゆる抹消指定だ。
「旦那も男にもてますねぇ」
嫌な冗談はよせ。
「いえいえ、だって眼鏡のドン坊に、高飛車がそろってしかも朝っぱらから来るなんて、尋常の事じゃありやせんぜ?」
眼鏡のドン坊とは神代、高飛車とは天津の事だろう。
「運んでくれてありがたいが、口の軽いのは感心しない」
「へいへい。主は物静かなこって」
「わらわも、おぬしには同じことを再三言っていたがな」
疲れた様子を見ると、それらの諸注意はまったく意味をなさなかった様だ。
「おっとこりゃ失敬。これ以上ボロを出す前に退散しますかい」
荒羅祇は虚空に向かって走り去る。消えるその前に、また御用があったら気軽に呼んで下せぇとだけ残し、彼は神様業界へと行った。さてここはどこだろうか。
その前に、こうなった経緯を話そうと思う。
と言っても何の事はない。土曜日で学校はないと言うのに、あのバカは増殖して人の部屋に押しかけて来たのだ。さすがにやってられんと、窓から荒羅祇を呼び出して離脱した。
通常の人間はもちろん、彼で運ぶ事は出来ない。魂ある者は神に触れられるが、あくまで神が触れるのは魂のみ。つまり魂だけが引き剥がされて先行してしまうのだ。しかし私は別であるので、その利点を用いた。追いすがる連中は空を翔る牛車を見送るのみと言う事だ。
「平和じゃなー」
「平和ですねー」
上を見上げれば、葉の合間から木漏れ日が輝いている。早起きの蝉達がすでに活動を開始し、鳴き声があちこちで上がっている。
ここ数日、神代のせいでずっと登校していたのだ。たった数日だと言うのに、その目まぐるしい日々のお陰でこんな日が懐かしい。人間の世界を知ると決意はしたが、やはりこれが私の育った世界だ。
「………」
背後に何やらこちらを伺う命知らず……いや命はないが。まぁとにかく2匹だろう。襲いかかってくれば叩き斬れるよう神無を手にしておく。しかしあれで隠れているつもりなのだろうか。
「あの人、神を操ってた?」
「って事は、あたし達の事視えるのかな?」
……聞こえてる聞こえてる。
「お嬢、行きましょう」
「良いのか?」
「かまうだけ無駄という物です」
草をかき分けて、久しく使われていないけもの道を辿る。さすがに歩きづらいので、とりあえず歩きやすい所まで出よう。
「ほら、早くしないと行っちゃうぞ。いいか、これはチャンスだ!」
「ま、待ってよぅ。心の準備が……」
筒抜けの会話をする2匹は、片方が先走って目の前に現れる。そして少年の姿をした神様は私に指差しながら……。
「やいやい人間! 僕らの縄張りに踏み入れるとは度胸があるな!」
「……………」
――――神無を使うまでもない。私は大きく右足を振りかぶった。
「ハァ、やれやれ……じゃの」
音にはならない音が木霊し、周りの数本の木々が驚いていた。
「人間の癖に! なんで僕らが視えるんだ!?」
腹部をさすりながら、小学生の男の子の姿をしたそいつは私に文句を垂れる。視えるかどうかを試すためにやったんじゃなかったのか。
しかしこいつら、一応は人間の姿をしているが、生前の姿に引っ張られているのか、頭に耳が生えている。
「キツネ?」
「いや、タヌキやもしれん」
「お嬢、案外猫かもしれません」
「ならば犬であろう」
「イタチだ!」
ふーん。マジマジと彼を見つめながら2人で疑わしげに視線を向ける。私はそいつの頭を掴む。びくりと怯える様に震えるが、構いはしない。
「それで? 仲間は?」
もう1匹いたはずだ。こらこら、そっぽ向いて誤魔化そうとしても無駄だぞ?
「カンちゃんを離せ!」
「いて」
何かが後頭部にペチンと軽く当たった。振り向くと、そこには彼と同じくらいの年ごろの少女の姿をした……イタチ? の神様。木の枝を両手で構えている。がしかし、見るからにいっぱいいっぱい精一杯だ。微笑ましいが先行してしまうくらいに。
「君」
なるべく脅かさない様に、棘のない言い方を選んで語りかける。
「その木の枝は折って来たのか?」
正しくは、木の枝の魂。1つながりなので、一部だけ魂がない木を探すと、すぐそこにあった。木の枝は魂のない部分だけすぐに枯れて落ちてしまう。枝の魂を折る事はすなわち、命をも奪う事に他ならない。枝を軽々しく手折り、斬る人間に比べればマシだが。
ゆっくりと頷く彼女を見て、私はその枝を取り上げた。
「返すよ、イタチの悪戯だ。許してやってくれ」
言いながら、折られた木にその魂を放ると大樹はそれを飲み込み、風もないのに葉を揺らした。
「気にするなと言っておる。気の良い者で良かったの」
「神様だったんですか?」
「その様じゃ。出てくる気はないみたいじゃが」
今時珍しい。クローンの木材用の木々が多くなった今、神様までが宿る木は本当に少ないのだ。神様だったと聞くと、イタチの少女は巨木に向けて頭を下げる。
「なんかあんた、人間じゃないみたいだな」
少年は威勢を取り戻して、若干警戒を解いた。まぁそりゃそうだろうが。
「はっ! そうやって手懐けて、自分の式神に!? リナダメだ!」
もう一発、今度はげんこつをくれてやる。
「なんだよ! さっきの牛車の野郎はあんたの式神だろう!? 陰陽師は神様を操るんだって聞いたぞ!」
「だとしても、お前達みたいな弱小要らん。そもそも、私はあいつらがこの世に留まりたいって言うから約束で縛ってるだけだ」
神様は自然消滅する。しかし式神が突然消えてしまっては、陰陽師は商売上がったりである。だから大概の陰陽師は、使役する神と約束を取り交わす。だからこそお嬢の式神は千年経ってもほぼ八百万残っていたのだ。それがお嬢との約束を終わらせた瞬間、大半が消滅した。残った連中もどこかに行ったが、そう長くは持つまい。
そして残ったのは、天草、白銀、荒羅祇、摩天の4名のみ。それが私の使役する式神だ。
「で、お前らは兄妹イタチか? そろって神様になったのか。またどうして……」
「人間に狩られた」
狩られた? ……すぐそこに禁猟区と赤字で書かれた看板が見受けられるのだが。いや、彼らの言葉の方が真実だろう。人間は自分たちのルールを容易く破る。なるほど密猟者か。
「どれくらい前の話だ?」
「13年前だ! だから僕は人間に復讐を……!」
思ったよりも長かった。
「あーはいはい、無駄だから諦めろ」
「なんだと!?」
殺生な話だが、そうやって恨みで神様になった中で、少しでもその積年の恨みを果たせたと言う者はいない。まぁ探せばわずかにはいるが、相当に強い神様のみだ。それも何十年も経って、相手が老人になってからとか。大半は涙を呑んで消えていく。
「あの……あたしは恨みじゃなくて……その……、カンちゃんや皆と、消えるまでひっそりと暮らせればって」
それが賢明だ。しかも長くこの世に留まれる。恨みで神経擦り減らすよりも、のんびり退屈を謳歌した方がいいのは当然だ。消えてしまえばどこに行くかなど、本当に分からないのだから。
「だから、な。お前もこの子を守って平和に生きろ……じゃないな。もう死んでるな」
ややこしい。
しかし説得は無意味の様で、少年は首を振る。
「だとしても! あの建物を建てる時に人間が呼び出した怪物のせいでみんな食われた! 忘れたのかリナ!」
「建物? 怪物?」
知らないのかとこちらを馬鹿にした視線を送る馬鹿はもう一度殴り、少女の方に尋ねる。生意気小僧は少し黙っとけ。しかし呼び出したとは尋常な話ではない。
「あ、あのね。あれは10年前かな。まだあたし達がイタチの姿のままで、死んだ辺りを彷徨ってた時だよ」
その頃、少年はまだマシなぐらいで、今回みたいに人間を見たら襲うまでには至らなかった。あれを襲ったと言うのかどうかはこの際置いておくとしてだ。木々や他の動物の神様と、比較的のんびり暮らしていたそうだ。
そこに、人間の手が及んだ。徐々に切り開かれて道路が造られていく。悪い事に彼らのテリトリーは大きく開かれて、そこに何か建物を建てようとしたそうだ。
最初の内は妨害した。仲間たちで、生きている者も結託し、人間を追い出そうとしたそうだ。そして工事が思ったように進まない人間は苛立ったのか、どうして神様の仕業と思ったのかは知らないが、巨大な鬼を呼び出した。鬼と言うのは正しくない。彼らの話では巨大な犬だ。それも三つ首の。
そいつは工事の妨害をした神々をことごとく引き裂き、食らったのだそうだ。仲間たちは散り散りとなり、現在もそこでは獣の咆哮が木霊し、帰れないのだと言う。
「あれがその建物……」
彼女に連れられて森の中を歩く事1時間。丘の上から下にある建物を指差す。
私には何も聞こえないが、耳の良い彼女には聞こえるのだろう。恐怖に震えて耳を閉じる。私は少女の頭を大丈夫だと撫でた。しかし私は別の意味で驚いていた。
「まさか学校とは……」
「もしや『あれ』ではないかの」
お嬢の言いたい事は分かる。先日私達は、確かに聞いたはずだ。あの学校には内部に様々な者が居ると言うし、召喚できる者がいても不思議はないだろう。
やれやれ、厄介事が増えてしまった。
「それじゃあな、復讐なんて諦めて達者にな」
「おい待てよ人間!」
「お嬢、行きましょう」
イタチの少年の静止を無視し、私は休日の学校へと足を運んだ。
◇
「石金、いるか?」
休日でもさすがに運動部などは活動をしており、校舎内を除いては賑やかだった。私はそれでも特に静かな文化部の部室棟である別棟の階段を登り、異界の雰囲気を相変わらず醸す最上階へ。その奥の一角にあるSR部の扉を開きながら、この部屋の主を呼んだ。なんとなく、彼女はいると思ったのだ。案の定。
「なんだ日向くん。休日だと言うのにどうしたのかしら?」
「ちょっと気になった事があってな。この奥にいるって言う化け物について聞きたいんだ」
「どういう風の吹き回し?」
そして響く、低い唸り声。まともな精神状態ではここにずっと居るなんて出来ないだろう。彼女は本当に平気なのだろうか。
「呼び出したのは誰だ?」
「……知りたい?」
少しためらう様に、彼女はもったい付ける。
「知ってるなら教えてくれ」
「死んだわ。召喚したその日に。あいつに魂を食われて」
比較的あっさり、それも事務報告の様に彼女は言った。そしてその詳細をやはり知っており、機密に触れない範囲内で教えてくれる。
名前は教えられないが、彼女の所属するサマナーの集まりの、先達が呼び出したらしい。彼女はまだその時所属していないので、そんな事があった位にしか聞いていないのだそうだ。
そのいきさつは、組織の末端施設であるこの学校の設立のため。生きている動物はともかく、神様が相手では通常の建設業者では呪いなどの形でしか分からない。実際労働者の間でそのような噂が立ったのだそうだ。それを解消するために、サマナーである彼は神々を消すために強力な悪魔を、西洋の神様業界から呼んだ。しかし悪魔は使役を受け付けず、呼び出した彼本人を食らったらしい。他にも被害者は数十名。
そして近隣の神々の殲滅が終わると、サマナー達の全力を以って封じたのだとか。それを更に、この地に赴任した彼女が強力な檻に閉じ込めた。
「……困ってるのよ。その召喚士が自分の実力に見合わない協力な悪魔を呼んでくれて」
「じゃあ消すのは一向に構わない訳だ」
私の言葉に不信感を覚えた石金は、険しい表情になる。
「待ちなさい日向くん。何を考えてるの?」
「結界は解くのは簡単か?」
一応の確認。張った者なら解けないと言う事はないと思うが。
「え、ええ。1時間もあれば解くのは……」
それは良かった。でなければ、倒した後にお嬢や呼んだ式が出られなくなってしまう。
「まぁ、負けたら放って置いてくれ」
「待て、それだとわらわも道連れじゃぞ」
負ける事など万に1つも考えていないお嬢は、その可能性に納得しかねるのだろう。
「じゃあ待ってますか?」
「いやまぁ、行くがの」
席を立ち、この部屋の更に奥へと続く扉へと向かう。すると石金は私の腕を取って引き留めた。
「死ぬわよ!?」
「私の命だ。精々好きに使わせてもらうさ。それに、石金の組織の為じゃないから気にするな」
腕をやんわりと解き、その扉に手を掛けた。
中は正方形の部屋。幾重にも陣が、床に天上に壁にもそこかしこに描かれている。猛獣を入れている檻とは思えないくらいに中は綺麗だ。まぁ生き物ではないし当然か。
「ナニモノダ……」
片言の日本語が頭上から降りかかる。英語かとも思ったが、なるほど十数年もここにいるのだ。多少は聞こえてくる人間の声から学んだのだろうか。犬は耳が良いって言うし。
「おいあんた、大人しく神様業界に帰る気はあるのか?」
「フザケルナ! ワタシヲ コノチニヨビダシタ トウヨウジン ドモガ! ノコラズ クラッテクレル!」
「交渉決裂……と」
神無を鞘から抜く。
「コゾウ……ワタシヲ ハラオウトイウノカ?」
「なら?」
「ジンノウチニ ハイッタトキガ、キサマノ シヌトキト オモエ!」
へぇ。と呟いて、彼の言うその、陣の中とやらに足を一歩踏み入れた。鋭い爪をむき出しにし、前足を振り下ろす相手は、その陰に隠れた巨大な姿を現した。
『来たれ『天草叢雲薙』、我が呼びに応えよ』
その足を、現れた天草は事もなげに太刀を受け流す。
「主様ぁ! もう少し早めに呼んで下さいよぉ! 5対2で冷や冷やしましたですよぉ!」
おい私を死んでもいいと思ってるのが2匹いるぞ!
犬は自らの巨体の一撃を、突如現れた華奢な少女にあっさりといなされた事に驚いている。しかし質量のない神にとって、巨大な体など何の意味もない。その足に私は神無の刃を突き立て、胴に向けて引き裂く。
「ケルベロスか。比較的有名で強力な神じゃの。冥府とやらの門番らしいのじゃが……」
「ですが所詮三首の犬。八首の蛇とどちらが強いですかね?」
「当然! 7対0で薙に決まっているのですよ!」
言いながら、足を引いて私の神無から逃れた鈍重な獣に向けて一足、十数メートル先の頭までの間合いを詰める天草。両手で構えた剣を、中空にあるままに横に一閃させた。中間の首の犬歯を残らず薙ぎ払い、裂けた口を更に広げさせる天草。
さすがに強力な神だけあり、いつか切り払った雑魚と比べしぶとい。
「ブラザァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
兄弟だったらしい。左の首は青銅を叩いた響きにも良く似た、獣らしくない叫びを上げる。
「オノレェエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!」
右の首は仰け反ると、紅蓮の炎を吹いた。すると天草は私の前に立ち塞がると、背に天叢雲剣を納め、腰から一本の刀を抜き放つ。その剣圧は熱気のない呪炎をも切り裂き、そして消滅させていく。
「薙は水の怒りの具現でもあります。簸川剣の前に、いかなる炎も無力と知りなさいです」
口調こそ普段と変わらないものの、冷酷な殺気を振りまく彼女の姿に恐怖を抱いたケルベロスは、1歩、そして2歩たじろぐ。
天草はそれでも戦意を振り絞ろうとするケルベロスの前へと、まったくの平常と同じ様に歩み寄る。もはや破れかぶれにも近く、左の首は天草へと大口を開いて飛びかかった。
「――――そして」
天草は立ち止まると剣を納め、今度はもう片方の腰より1本の剣を抜いた。覆いかぶさる様に天草の身体は口の中に。
勝利を確信し、にやけたケルベロスの左首がすぐに苦悶の表情に変わる。激痛に喘ぎ、声にならない叫びを上げる首はやがて、胴体と切り離されて空を切り、消滅していった。
後に残っていたのは、鮮やかに太刀を振るった天草のみである。
「これが災厄を除ける草薙剣です」
本来、天叢雲剣と草薙剣は同一視される。しかし神の世で物に名が2つあるならば、それが同時存在する事も珍しくない。
逃げられぬ檻の中で必死に逃げようとするケルベロス。もはや戦意なしとして、天草は剣を納める。悪意なく、戦う気のない相手に剣を向けないのは彼女の誇りである。私はそれを咎める気は毛頭ない。
「おいあんた!」
これではもう、ただの子犬だ。怯えた彼は最初の威厳や自信はどこへやら。その隠れられない巨体を隠す様に、姿勢を低くしてこちらを窺っている。
「改めて聞く。帰る気はあるか?」
勢いよく頷く彼の姿を見て、私は石金を呼ぶ。
「あ、あの怪物を……?」
首の2本足りない姿を、信じられないと言う様子で石金は言う。
「その子が……?」
結界の中で私の腕にしがみ付く、物々しい数の刀を身に着けた少女を指差す。
「はいです。ナギが倒しましたです」
相変わらずの戦闘時でないと気の抜ける様な性格に、やはり現場を見ていない石金は信じられないみたいである。
「いやいや、ケルさんも強かったのですよ? ですが薙の方が上だと7対0の結論なのです」
「話はついた。彼を帰してやりたい。だから結界を解いてくれないか?」
「わ、分かったわ」
石金は急いで周囲の紋様をはがしにかかる。やはりマジックや絵の具ではなく、特殊な染料で描いているらしく、簡単には落ちないらしい。どうやら液体で拭けば消える様なので、私もその作業を手伝う事にする。
お嬢と天草は手伝う事は不可能なので、2人で雑談をしたり他愛もない遊びをしていた。よっぽど退屈なのだろう。
……あいつが本気で従順して帰る気ならいいけど。一抹の不安に警戒だけは緩めないで置く。
一時間後。
「さて、それじゃあ……」
と、石金が手を叩いた瞬間だった。
「コノウラミ! ハラサデオクベキカァアアアアアアアアアアアアアッ!」
「え?」
待ちわびていた様に、ケルベロスの右の首は石金に向けて飛びかかる。
「ア……」
「よう」
注視をしていた私は、天草よりも一瞬早く、彼女の前に立ち塞がり勢いを付けて迫る彼を踵落としで鼻先を叩きのめし、もはや結界のない階下に向けて落とす。しかしその前に彼の額の毛をわしづかみ、引き留めた。右手でまだ抜き身の神無の切っ先を彼の目玉に向けて。
「律令って知ってるか?」
震える眉間に、輝く神殺しの刃を突き立てた。
◇
「あれ? 天草はどうしました?」
「……? さての」
気付けば天草の姿がなかった。何の断りもなく彼女が去るなど珍しいのだが。別段そこまで縛る気は毛頭ないので、深くは探さないし追及もしない。実力的には今、彼女に勝てる者などほぼ皆無な訳であり。
あのケルベロス相手にも分かる事だ。所詮は番犬とは言え、勇名を馳せただろう彼を容易く斬り裁いていた事でも疑い様はない。
「イタチの所に行かぬのか?」
「あいつらも気付けば好きにするでしょう」
あえて干渉する必要はあると思えない。私に出来る事はしたのだから、あとはあの兄妹次第だ。報われない人への恨みを募らせるもまた、それも1つの道ではある。……おススメはしないが。
「三叉路ですね」
しばらく歩くといつか見たこの道。あの時お嬢は確か、カーブミラーのひしゃげた方向へと指差したと思うのだが……さて、今はもうそれがどちらだったか分からない。
真新しい、艶のある橙色のペンキに覆われたそれは、真夏の眩しいほどの光を跳ね返し、今日も車事故の確率を減らすために佇んでいる。役目を終えた彼は今頃、どこにいるのだろうか。
「お嬢、どちらに行きましょう?」
「右じゃ。そこなる道祖神がそう申しておる」
はい? と彼女の指差す方向を見れば、こちらを見て、私達から見て向かって右の道を指差す神様が居た。剥がれた橙色の作業服に、軍人みたいなピシリとした背筋の彼は、新しい配属者と共に、今もこの道を護っているのだろうか。
「じゃ、右に行きましょうか」
「うむ」
影のない私と、名無しのお嬢は、木陰の涼やかな森に伸びる道路に、足を踏み入れた。