陽炎の青年
結構……かなり長いです。本気で書いてるので、途中で投げ出すことはありません。ちょっとでも面白いな、読んでやってもよいな、と思われましたら、お付き合いいただけたら幸いです。
◇ 序章 陽炎の青年 ◇
夕焼けに彩られた、オレンジのアスファルトの坂道を下る。崖際にあるガードレールも今は紅蓮の色をし、そこかしこの小石が、黒の淵を造っていた。
その向かい、ふと上の方には、一人の青年が歩いていた。青年は少々高めの身長に、短い黒髪、少々冷酷の気はありそうな切れ長の目に黒の瞳を入れた、この日本全国どこにでもいそうな、普通の青年だった。小さなボストンバックを肩に引っさげ、姿勢も正しく単調に歩を進めている。
「あれ?」
ふと私には、その青年に見覚えがある気がした。どこでだろうと、思い返してみる。しかしどういう訳か、失ってしまった幼き日の宝箱の様に、所在がどうにも分からない。
やがて、山の端に太陽が隠れようという時、青年とすれ違う。私にはどうにも、その青年に言葉を投げかけなくてはいけない気がして。
「こ、こんばんわ!」
振り返って、大声で叫んでしまった。
するとどうだろう。青年は振り返ると、目を見開いて驚いている。それは単に、私が突然に挨拶をした事に対する驚きだけではない様に見えた。どうしてそう見えたかは、今考えても分からない。ただ、その青年は、道行く人が自分を知る事も、話しかけることがない事も、あらかじめ決めつけている。いや、知っている様な、そんな雰囲気を身にまとっていた。
しばらくそのまま、私たちはお互いに見つめ合っていたが、ふと、青年の口の端がゆるむと。
「こんばんわ」
低い声で言い、元の自分の目指した方へと向き直る。
彼の目指す場所は、一体どこなのだろうか。以来私は、その不思議な青年と会う事はなかった。
◇
今は正午を過ぎたばかりの、太陽の日差し盛んな時間。日照は遠慮の欠片もなく、この人間が住まう大地を焦がす。緑の稲はうだるような暑さを耐えながらも、姿勢よく水田を整列している。その様子は、この国で失われて久しい軍隊の様で、なんだか笑えた。
「お嬢、学校ってどっちでしたっけ?」
自分の行き先がすっかり曇ってから数時間。自分のすぐ左上に浮かぶ『彼女』に、私は尋ねてみる。
「わらわが知る訳がなかろう」
そりゃそうですよね。と案の定の返答にため息交じりに呟いた。
この、少々昔交じりな言葉を話す、半透明の浮いた人間の形をした存在は、いわゆる世の人の言う所の神様、あるいは幽霊という存在に当たる。着物姿で扇子を片手に、自分は平安貴族だったのだと豪語するお嬢。それが嘘か真かは知らないが、深い深い山に広がる森の奥の苔むした文明の届かない大樹のすぐ下の大きなお堂に、奉られていた。名前は……ない。
「まぁいいですか。こんな日もあるって事で。学校なんて生きてる間の無駄な知識を付ける場所です」
「おぬし、根っから生者に向いておらんの。どちらかと言えばその発想、神に近しいぞ」
「仕方ないでしょう。昔っから神様の中で育ってるんですから」
お嬢は普通の神様とちょっと違う事を分かってくれればいい。普通神様には、名前があるものなのだ。
そして、私も少々事情が人とは異なる。どう表現すればいいのやら、自分でもよく理解できていない。その昔、ある神様に言われたままに伝えるならば、私には『影がない』。別に今アスファルト舗装されていないあぜ道に、太陽と反対側に黒い染みがないかと言えば、それはある訳で。
ただ……生きている人はよく私を忘れる。
そんなこんなでそれが原因らしいのだが、私の目には常に神様もとい、幽霊が見える。そしてそれが、普通のれいのーりょくしゃとか言う、本当なんだか嘘っぱちなんだかよく分からない人々と違って、常に見える。自然、人間社会に馴染みづらかった私は、自然そちらの世界の中で暮らしていた。経験から言える事で、普通の人は波長の合った奴しか見えないものなのだ。
しかし中には確かに見やすい人と、見づらい人といる。そして見やすい人って言うのは、私をよく覚えていている。影がないって言うのは、多分そういう事。『視えない人は、すぐに忘れてしまう』。私はそんな存在。
しかも視える人は少ない訳で。
「三叉路ですね」
錆びたオレンジ色のカーブミラーが、夏の終わりに花の重くなったヒマワリの様に傾いている。
「右じゃ。そこの鏡が若干そっち向きになっておる」
「じゃ左に行きましょう」
私は教科書のほとんど入っていない鞄を持ち変え、お嬢の言った方とは逆の道へと足を向ける。むぅ、と顔をしかめて不機嫌をあらわにするも、長い黒髪を翻して私のすぐ後ろをついて来る。道をこうして気分で決めるのは、ずっと昔からの癖だ。そのお陰で道に迷う事も日常茶飯事なのだが、改めようとは思わない。
アスファルトで舗装された山道に入りしばらく行くと、事故多発の看板が斜めに立っていた。近い過去に、ここに車でもぶつかったのか、ひしゃげている。すぐ先にはトンネル。あの中で速度を上げた車が、ここの急カーブで曲がりきれずに衝突するのだろう。……だが、そんな物理的な事情だけではなさそうだ。多分最初の一人は確かに偶然の不注意の事故だろう。しかしそれ以降はそれだけが理由と決めつけるのは早計である。事故や事件が連続するというジンクスみたいなものが、非科学的と言えども信じる人々があるが、あれはこちら側から証明の出来る物である。
「通るのかー? なんかいろいろ居るぞー?」
「じゃあ引き返します? 一本道ですよ?」
割と神様は垢抜けるまで時間がかかり、その前に自然消滅(平均10年くらい)してしまうのがほとんどである。9割9部はそうだ。よくよく、「幽霊なんて本当にいたら、この世界は幽霊だらけ」と言う浅慮の輩がいる。どうして消えないと言い切れるのか、不思議でしょうがない。
そしてそれまで神様たちがどこに留まっているかと言えば、やはり自分の遺体がある場所や思い出深い場所、死んだ場所などである。
「しかし、襲ってきたらどうするのじゃ?」
「斬ります」
「単純明快で結構じゃな。まぁこんな場所に囚われ消滅を待つよりも、さっさと消された方が幸せやもしれん。それか天草でも呼べ。嬉々として連中を膾にしてくれるであろう」
「……こんな事に式を使う気になりませんよ」
まぁ全滅させれば、しばらくはここの事故も減るかもしれない。しかし私にとっては生者の事などどうでもいいのだ。わざわざやってやる義理もないし、天草の手を煩わせるのも可愛そうだ。変な話、明日親がここで事故にあっても「へぇ」の一言で片づけられる。
「お嬢、式神はもともとお嬢の者達でしょう。少しは労わってあげてください」
「あー、ないない。神は基本、皆暇じゃ。呼んでやれば喜びこそすれ、文句は垂れんじゃろ。それに八百万も昔は居ったからのぅ。全てに目をかけるのは面倒と言うものじゃ」
お嬢には名前がない。しかしないものの、若干その存在は有名だ。ヤオヨロズという言葉をご存じだろうか。まぁ八百万って書くんだが、途方もなくたくさんの何かっていう意味。今で言う所の∞の代表の数字だ。『八百万の神々』って、アニミズムの思想のこの国では聞いた事があるだろう。あれである。その語源がお嬢な訳だ。……民俗学者も国語のお偉いさんも知らないけど。
どういう意味でかと言えば、もちろん彼女の率いた式神の数である。曰く享年18歳(数え年)。にしてそれだけの神を従えたとはこれ如何に。彼女の目に阿倍清明などの陰陽師はどう映ったのだろうか。興味はあまりないので聞いた事はない。……そしてしかも、その式神は全部危ないと言うか、凄いやつらばかり。天草だって、かの有名な……。
「怖気づいたか?」
考え込む私に、挑むような、からかうような口調で、顔を覗き込んでくるお嬢。……まさか。
「行きますよ、お嬢」
「うむ」
位トンネルの先はほぼ暗闇。蛍光灯のオレンジの光は、人の不安を和らげると言う意味には役に立たず、そこに潜む死者たちの存在を際立たせている。
……ところで、私は今どの辺を歩いているのだろうか。町内は出ていない……と思うのだが。多分。いや、恐らく……。
トンネルの内部には、まぁうろちょろと大小さまざまな変な形した連中がいた。神様に定型なんていないので、その姿はかなり気まぐれだ。しかし不定形なんて事を自覚するまでは、やはり生前の姿が多い。だがたまに、性同一性障害の人なんかは、性別が逆転していたりする。あと、物に宿った神様は、傾向的に人間の姿を好む。
車が来た時でも恐らく同じ事をするのだろう。入った瞬間に数十匹が張り付いて来た。ので、問答無用にその中の一匹を、鞄から取り出した短刀『神無』でぶった斬る。斬ったところで血も感触もないので、別に感慨もためらいもない。ただそいつが消えるだけだ。
この短刀『神無』とは縁深く、お嬢と出会ったお堂に納められていた、錆びた太刀のなれの果てである。神様を斬れるって事は、これにも魂はあるんだろうが、神様にはなっていないらしい。神様は神様か、魂を持つものしか触れないから。
三匹ぐらい斬ったら、「あいつはヤバい」とでも悟ったのか、ここに住んでる連中は遠目に眺め始めた。ほとんど元は人間だろうが原型を留めていない。あれは怪物か?
「鬱陶しいのう」
トンネルと言う閉鎖された環境がこれを作っているのだろう。お嬢が言う神様界にでも行けば、退屈で自由な生活が消えるまで出来ると言うのに。どこにあるのかは知らないが、そこでは宴会ばかりやっているらしい。というか他にやる事がないらしい。自ら死のうとは思わないが、人生を全う出来たならそこに行きたいものである。
周囲の警戒も緩んできた頃、緩い曲り道を曲がりきると、遠くから光が差し込んできた。あともう少しのようだ。
やがて、粘つく空気の異形の巣窟から抜ける。すると元通り、緑の多い山道……と言っても、今度は下り道があった。
―――なんだ、せっかく登ったのに、今度は下りるのか。なんとなく努力が無駄になった気がして喪失感。しかし、ふと視線を下ろせばそこにあったのは。
「あ、学校」
見慣れた巨大な真新しい白の校舎が、森の中を悠然と立っていた。寮からとんだ回り道をしたものである。通学路を用いれば、三十分程度。バスを使えば十五分の道だと言うのに、何時間かかったのやら。
やれやれ、ついでに顔を出していくかな。
「学校は嫌いじゃ。フツーを傘に着た連中が大勢おって、祀と話せないから退屈で仕方がない」
お嬢はむくれていた。
◇
人はよく犬とか猫って同じ顔をしてるよねー……と言うが、私に言わせれば人間だってほとんど同じ顔をしている。個性の分かる顔をしているのは、知り合いだけだ。その他大勢はタレントだろーが、浮浪者だろーが、国会議員だろーが、似たようなもんである。
正門から昇降口までの途中にある、校庭をふと見てみれば誰もいない。今の時間はどこのクラスも体育がないらしい。ならば今は、校舎の中に千名近くの人間がいるのだろうが、シンと静まり返っている。自然は豊かな夏に浮かれていると言うのに、勉強熱心な事だ。
「死ねば意味のない事を、よくする気になるの」
「皆が皆、死後の事を知っている訳ではないので。巧く生きるのに精一杯なんですよ」
「つまらん世の中じゃ。どうせ生きておるのなら、生きている間にしか出来ぬ事を楽しめば良いものを」
それはみんな、死んだ後にしかきっと分からない。お嬢にしてみれば、勉強なんて生きてても死んでても出来るのだ。勉強なんて最悪、なくたって生きられるし。それを強いる世の中に向かって、つまらないと言いたいのだろう。大学全入の時代という言葉でさえ、老人は恵まれていると言うかもしれないが、窮屈だ。
下駄箱で靴を履き替え、校舎の中へ。静かなリノリウムの廊下に、私の足音のみが響き渡る。
しかしこの学校、片田舎にあるにしてはずいぶん大きな土地を持っている。全寮制の私立校なので、結構遠方から受験をする者もいるとか。かく言う私も、自然に囲まれたという立地環境と、家を離れられるという利点から、受験をした。それなりに勉強はしたが、大した事はなかったが。へん……なんとかって値は、65だっただろうか。基準は知らないが、不真面目に授業を受けていた……というか、出席日数ぎりぎりで卒業した私が無難に入れたのだから、きっと大した学力の学校ではないのだろう。
黒板の前で授業をする教師が、引き戸に開けられた窓から見える。私はガラガラと教室の後ろ側から入ると、全員がにわかにこちらを向いた。冴えない数学教師は、眼鏡を直すと素っ頓狂な事を言う。
「……あー、君は誰だ? 授業中なんだが」
何度目か忘れた問答。
「出席番号23番。日向 祀。一身上の都合で遅刻しました」
にわかにクラスの中ではささやき声。「そんな奴いたか?」と。しかし名簿を見てみればいい。確かにいるから。言っておくが入学からもはや一年が過ぎている。このクラスも二年目だ。このクラスの連中が特別記憶力がない訳でなく、ついでに言えば、私は去年年がら年中休んでいた訳ではない。いる時は朝からいた時もあった。
こんな反応は別段珍しい事じゃない。……かといって、彼らは嫌がらせでやっている訳ではなく、本気で言っているのだ。影がないって言うのはこういう事なのだと思う。ほとんど誰の印象にも、記憶にも、留まれないのだ。慣れたので今更どうでもいいが。
「あ、ああ。確かにある……な。あれ? 消えた?」
そんな確認をしている間に、すでに自分の席に着く。窓際なので早くも外を眺め、人間という面倒くさい存在を視界から消す。授業何て流し聞いていれば大体わかる。
お嬢は私の席に一番近い窓のわくに腰かけている。しかしその窓枠、魂もないらしくて結局浮いているだけである。教師はため息を吐くと、関わらないのが吉と思ったのか、早々に授業に戻る。懸命な判断感謝しよう、名も知らぬ先生。
◇
5限目の終わり。休み時間。来て早々だが、もう次が終われば下校である。もちろんだが、私が部活動なんて所属しているハズもない。退屈な時間など2時間で十分だ。しかし少し張り合いがないな―――と思っていると、そこでふとある決断をする。
―――――よし、今日は学校内を探索しよう。
今まで外にばかり目が向いていたが、考えてみればこの中を見回った事がない。灯台下暗し、正に盲点である。部活をしている連中は、各々活動場所か部室棟に行くだろうし、下校組はとっとと寮に戻るから、人もきっと少ないだろう。
そう思えば、次の国語の授業も楽しく聞き流せた。文法なんて伝わればなんでもいいじゃないか、と思いながらだが。
「のう、こんな人工の建築物、面白い場所なんぞないと思うのじゃが」
「いいじゃないですか。たまには」
人がはけるまで少々時間はかかったか。まだ日は長くなり始めた初夏。若干西日の橙色が含んだ中、もう少しすれば校舎内も斜陽の色だ。時計を見れば、短針は4の近くを差している。
本校舎の一階から三階まで、まずはざっと見てみる。……一階には職員室、事務室、教員準備室に家庭科室、あれ暗室……? 二階には1年の教室が7つに、音楽室と理科室、生物室。三階には2年の教室と地学教室、物理教室、図書室、美術室、書道教室と……。そして四階には3年の教室と視聴覚室に、多目的ホールか……。いや何て言うか。
「代わり映えせんの」
「ですね」
自然の風景基準である。海や空や草原は、何時間一か所で見ていても飽きないと言うのに、人工物と言うのは一度見ただけでもういい。基本的に、生命の息吹の欠片も感じられないので飽きる。
本棟はこんなもんだろう。別棟なら部室棟や柔道場や剣道場に体育館もあるが……。
「今は人がたくさんおるじゃろうが」
「ですがついでですし、行ってみますか?」
「ふわぁぁあぁ。……そーじゃの。まぁ物のついでじゃの」
と、退屈そうに欠伸をするお嬢の許可も取り付け、私はその二つをつなぐ、二階の渡り廊下へ向かう。
そしてそこで、不愉快な物を目にした。どこの学校にでもいるものである。自分より弱者を見つけ、それを虐げて自己満足する厄介な存在。会話も通じないので、変な悪い神様よりも性質が悪い。
渡り廊下を超えた別棟の柱の陰で、眼鏡をかけた純朴そうな青年が、所謂真面目で勤勉そうな学生さん3人組に蹴られていた。
蹴られている少年も少年(ネクタイが同じ年)だ。少し反抗すれば、最近のそういう連中は見かけ倒しばかりなのだから。全てとは言わないが、7割方は。
「お、神が憑いておる」
「はい?」
耳障り目障りだが、関わるのも面倒なので通り過ぎようとすると、お嬢が声を上げる。疑問に思ってよく見てみれば、3人組の方に、一様に黒い影がしがみ付いていた。
……ふむ。普通の神様は物理的な事は、ほぼなんら起こせない(例外あり)が、生命の感情なんかには得てして作用することが出来る。殺人事件のあった場所には、その恨みつらみを持った神が徘徊するので、その感情が移って次の事件の引き金となる事は珍しくない。
あの青年3人は、普段は臆病か大人しいのかもしれないが腹に一物は持っていて、それがあれらの神様の凶暴性を借りてイジメに発展と……そんなところか。私はそちらに足を向け直す。
「関わるのか?」
「戯れです」
わざとお嬢の言葉を借りて言う。しかし本当に遊びだ。私の行動に基準なんてない。そこにあるのは、ほぼただの気まぐれだ。
「おいあんた達」
あ? といかにも『らしく』こちらに顔を向ける。
「誰だお前? こいつの友達か?」
「いんや」
「じゃあなんだ? 先生に言いたきゃ言ってみろよ」
「どうしてそんな面倒で無駄な事するんだ?」
真面目で成績優秀で通っているのだそうで、先生の信頼は厚いから取り合ってくれないだろうとの事だ。アホか。先生と生徒の間の関係なんて、たかだか3年。しかもあっちは仕事だ。そこまでの信頼は、狭い世界しか知らない生徒の幻想に過ぎない。ただ単に関わるのが面倒で取り合わないだけだろう。
「正義の味方気取りか?」
「別に……ただバカが喚いて耳障りだったから」
さてさて、手を出してそれこそ『せんせい』に言われても面倒だな。下手すれば停学? うわぁ、私の行動制限されるの? 勘弁願いたいねぇ。
たかだかこの程度の問答にムキになって、拳を振り下ろしてくる。昔の剣豪たちの剣や、明らかに異形に近い神様の攻撃に比べれば、はるかに遅々とした単調な攻撃を、私は息乱すことなく避ける。
さて、問題は背後の神様……神無を取り出せば、それこそ警察沙汰か。かといって殴った程度じゃ消えないだろうし。
私は一人の青年の蹴りを、思い切り後ろに跳ぶことで避ける。そして小さく、3人組や少年に聞こえない様に呟いた。
『来たれ『天草叢雲薙』。我が呼びに応えよ』
言い終わると同時に、周囲の空気の重量が増える感覚が、その場の全員に襲う。天草の、この魂なき建物に収まりきらない姿が、私には映っている。がしかしその有名すぎる姿を、この場の私以外は認識できていないだろう。だがその気配だけは十分に感じられるはずだ。よっぽど、鈍感な生き物でない限り。人間は動物としての本能が薄い生き物。だからこそ逃げるには至らない。
天草は齢千年など悠に超えた、怪物中の怪物。神の中でも古株であり、抱える歴史は驚異の一言でしかない。その存在の威圧感は、例え見えない者にでも伝播する。
「天草、ただいままかり越しました。主様、今回はどのような御用ですか?」
日本書紀にも書かれた、巨大な八首の大蛇は恭しく私の前でひれ伏す。元が剣なので、忠義だなんだうるさいのが玉に傷だ。
「そこの3人に憑いた愚かな神々を斬れ」
一度目蓋を閉じ、再び開くと、そこには大蛇の姿はなく、代わりに左右の腰に計6本。背には1本の大太刀を携えた、可憐な少女が片膝立ちでそこにいた。
「7対0。その命、確かに拝命致しますです」
左肩にかかる大刀に手を掛け、甲高い金属と鞘の擦れる音をわずかに響かせながら、天草は立ち上がる。そして腰を砕いて、床に倒れる3人組を見る。彼らには彼女の姿が視えている訳ではないようだが、立ち上る殺気を直に当たり、金縛りにでもあったかの様に動かない。いや、動けない。
相変わらず、生きている人間にでさえ臨戦態勢は被害がある……か。申し訳ないが、つくづく連れては歩けない。
「御免」
天草は小さく言うと、異変に戸惑う3体の神に向けて太刀を、駆け抜けざまに一閃。一度に消されていく異形の形をした連中。
残心の後に、血潮を浴びてもいないのに一度刀を払うと、慣れた手付きで刀を納める。……そして。
「主様主様! 見てました見てました!?」
威厳は3分と持たなかった。はぁ……。
「う、うわぁぁあああぁあぁ!」
きっかけと言うか、後ろ盾と言うか、原因と言うか……。その神を失った3人組は、何が何だか分かってるのかは知らないが、大声を上げながら逃げていく。これで悪さをしようとも思わないだろう。心の中で暴力を振るうのは自由だが、現実に持ち出さないだけの自制心が、あると信じて。
「主様、臣下が頑張った時はですね、5対2で褒めるべきだと思っているのですよ」
「ああ、偉い偉い。よくやったな」
頭を撫でる。こっちとしては、相手は体温も質量もない神なので、なんとも微妙な感覚だが、天草はそれでも気持ちいいらしい。目を細めている。
……さっきから、7対0だの5対2だのって言うのは、彼女の頭の中にいる……いやまぁ、八岐大蛇の残り7つ分の頭の意見な訳だ。脳内民主主義を行う、正に今日の日本の象徴とも言うべき剣である。もちろん彼女は、あの伝承のあの怪物の尻尾から見つかったって言う剣な訳で、源平の戦で失われる前に、お嬢が従えたのだそうだ。感情を持っていると、使うのに不便だからって理由で。ついでに剣の名と真名が若干違うのは、よくある事。
「少年、少しは抵抗をする事を覚えておけ」
「あ……はい! あの……」
何かを言おうとする少年に手を振って、私はその場を後にする。感謝される筋合いも、文句を言われる筋合いもない。実際私は何もしていないのだし、何をしようと迷惑はかけた覚えがないので勝手だ。
「お嬢様、お久しぶりです!」
「天草、壮健であったか」
「あははっ! やぁですねぇ! わたし達が病気する訳ないじゃないですか!」
「何、久しき者への社交儀礼という奴じゃ」
社交『辞令』です、お嬢。
かしましい2人の神様の会話に、頭の中で突っ込みを入れながら、部室棟の方へと歩き出す。
「あの……ありがとうございます! 絶対に忘れませんから!」
その心意気だけは受け取って置くよ少年(同学年)。どうせ君は、明日になれば私の事なんて綺麗さっぱり忘れているだろうから。
果たして――――。
その次の日、珍しく朝から登校してみた時、昨日の少年が同じ教室にいた事に驚いた。しかし更に驚いた事はと言えばだ。
「あ、おはようございます日向さん。ところで聞きたかったんですが、昨日のあの蛇って日向さんが出したんですよね!?」
「まさか……」
「視えておったとは……」
「7対0で予想外でした」←天草(まだ帰ってなかった)
……少年もとい、この黒縁メガネのよく似合う『神代 東矢』君は、視える人だった……。
何が面倒? 説明が一番面倒だ。
しかし果たして、この内気なのに行動力だけはなぜか人一倍の神代に、これから振り回される事になろうと、いかな神様と言えど想像出来ないのであった。神のみぞ知るならぬ、神すらも知らず……違うか。