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ボタン一つの距離

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/11/07

ボタンは、逃げるように転がった。

会議室の白い床で小さく跳ね、椅子の脚に当たって、からん、と情けないほど澄んだ音を立てる。


商談開始まで、あと二十分。

高瀬圭一は自分の胸元を見下ろした。

白いシャツの、上から二つ目が、ない。


シャツを開けているのではない。開いてしまうのだ。

これから大事な客を迎える三十六歳の営業社員として、その差はあまりに大きかった。


「高瀬さん」


資料を抱えた倉田紗代が、ドアのところで足を止めた。

同期で総務の彼女は、圭一の顔ではなく胸元に視線を落とした。


「それで出る気ですか」

「出る気でした。さっきまでは」


紗代はため息をつき、資料をテーブルに置くと、部屋の隅の保管棚から小さな裁縫箱を取り出した。

圭一は目を瞬いた。


「なぜ会議室に裁縫箱が」

「総務は何でもあります。先月はドライバーで、来客用の椅子も直しました」

「心強い職場だな」

「糸は赤しかありませんけど」

彼女は平然と言った。


白いシャツに赤い糸。

それは修理というより、ささやかな宣戦布告に近かった。


「……ほかに選択肢は」

「このまま出るか、赤で付けるか」


圭一は転がったボタンを拾い、神妙な顔で差し出した。


「お願いします」


紗代が近づくと、圭一はなぜか直立した。

背筋を伸ばし、顎を引き、両手を体の横にそろえる。

入社式の写真撮影でも、ここまで正しく立ったことはなかった。


「動かないでください」

「はい」

「呼吸も、できれば浅く」

「それは、まあまあ死にます」

「大げさです」


彼女の指が、布をそっと押さえた。

針が薄い綿をすくうたび、シャツの向こう側の動きが気になる。


近い。普段なら普通に会話が成り立つ距離なのに、針一本が間にあるだけで、空気の意味が変わってしまう。

紗代の髪からは、香水ではない、洗い立てのような清潔な香りがした。

圭一は咄嗟に、資料の三ページ目にあったはずの数字を思い出そうとした。


が、思い出せなかった。

代わりに、彼女のまつげが思っていたより長いことだけが、はっきり分かった。


「商談の件数、前期より増えてますね」


平静を装って、紗代が言った。


「ええ。ボタンが取れるくらいには」

「縁起がいいかもしれませんよ。身軽になった分だけ」

「前向きだな、倉田さんは」

「糸、切ります。もう少しだけ動かないでください」


圭一は素直に動きを止めた。

その姿があまりに真剣で、紗代は吹き出しそうになるのを、針を持つ責任感でなんとか堪えた。


糸を切り終える頃には、彼の首筋はうっすら赤くなっていた。

運動もしていないのに、である。


白いシャツの上に、赤い糸が小さく×印を描いた。

思ったほど派手ではない。

けれど、思ったよりずっと目立った。

誰かの手が、そこに確かに触れた証拠のように。


二人の目が合った。

その瞬間、どちらも同時に半歩下がった。

圭一は、椅子の脚に引っかかって、情けないほどよろけた。


「……何事もありません」

「ええ、何事も」


***


商談は滞りなく進んだ。むしろ上出来だった。

先方の部長は帰り際、圭一の胸元をちらりと見て、人好きのする笑い方をした。


「高瀬くん、その赤い糸。奥さんの仕業かい」


会議室に残っていた紗代と圭一は、同時に答えた。


「違います」


間が、完璧だった。

部長はますます楽しそうに笑った。


「息まで合うとは、たいしたもんだ」


否定は、もう追いつかなかった。

客を見送ってから、圭一は改めて礼を言った。


「助かりました。今度、昼をごちそうします」

「総務の備品を使っただけです」

「じゃあ、白い糸を買って寄付します」

「それが一番助かります」


彼女はそう言って笑い、裁縫箱を棚に戻した。

何事もなかったような顔だった。

ただ、耳だけがほんの少し赤かった気がしたのは、夕方の西日のせいかもしれない。


***


月曜の朝、圭一は同じシャツで出社した。

正確には、洗濯をして、きちんとアイロンをかけて、その赤い糸のボタンのまま。

紗代はエレベーター前でそれを見つけ、少しだけ目を見開いた。


「白い糸、買いましたよ」

「ああ、ありがとうございます」

「付け直しますか」


圭一は胸元の小さな赤い×印を見下ろし、少し考えてから言った。


「取れるまで、これでいきます。縁起がよかったので」


紗代は手元の資料で口元を隠した。


「……ボタンは、予備も買ってくださいね」

「はい」


エレベーターの扉が開く。

二人は何事もない顔で乗り込み、ボタンひとつ分の距離をあけて、並んで立った。


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― 新着の感想 ―
いい作品ですね。いい距離感ですね。この絶妙さが良い。 お互いに照れてる感じが良い。 赤いボタンの糸、付けて欲しいです。
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