ボタン一つの距離
ボタンは、逃げるように転がった。
会議室の白い床で小さく跳ね、椅子の脚に当たって、からん、と情けないほど澄んだ音を立てる。
商談開始まで、あと二十分。
高瀬圭一は自分の胸元を見下ろした。
白いシャツの、上から二つ目が、ない。
シャツを開けているのではない。開いてしまうのだ。
これから大事な客を迎える三十六歳の営業社員として、その差はあまりに大きかった。
「高瀬さん」
資料を抱えた倉田紗代が、ドアのところで足を止めた。
同期で総務の彼女は、圭一の顔ではなく胸元に視線を落とした。
「それで出る気ですか」
「出る気でした。さっきまでは」
紗代はため息をつき、資料をテーブルに置くと、部屋の隅の保管棚から小さな裁縫箱を取り出した。
圭一は目を瞬いた。
「なぜ会議室に裁縫箱が」
「総務は何でもあります。先月はドライバーで、来客用の椅子も直しました」
「心強い職場だな」
「糸は赤しかありませんけど」
彼女は平然と言った。
白いシャツに赤い糸。
それは修理というより、ささやかな宣戦布告に近かった。
「……ほかに選択肢は」
「このまま出るか、赤で付けるか」
圭一は転がったボタンを拾い、神妙な顔で差し出した。
「お願いします」
紗代が近づくと、圭一はなぜか直立した。
背筋を伸ばし、顎を引き、両手を体の横にそろえる。
入社式の写真撮影でも、ここまで正しく立ったことはなかった。
「動かないでください」
「はい」
「呼吸も、できれば浅く」
「それは、まあまあ死にます」
「大げさです」
彼女の指が、布をそっと押さえた。
針が薄い綿をすくうたび、シャツの向こう側の動きが気になる。
近い。普段なら普通に会話が成り立つ距離なのに、針一本が間にあるだけで、空気の意味が変わってしまう。
紗代の髪からは、香水ではない、洗い立てのような清潔な香りがした。
圭一は咄嗟に、資料の三ページ目にあったはずの数字を思い出そうとした。
が、思い出せなかった。
代わりに、彼女のまつげが思っていたより長いことだけが、はっきり分かった。
「商談の件数、前期より増えてますね」
平静を装って、紗代が言った。
「ええ。ボタンが取れるくらいには」
「縁起がいいかもしれませんよ。身軽になった分だけ」
「前向きだな、倉田さんは」
「糸、切ります。もう少しだけ動かないでください」
圭一は素直に動きを止めた。
その姿があまりに真剣で、紗代は吹き出しそうになるのを、針を持つ責任感でなんとか堪えた。
糸を切り終える頃には、彼の首筋はうっすら赤くなっていた。
運動もしていないのに、である。
白いシャツの上に、赤い糸が小さく×印を描いた。
思ったほど派手ではない。
けれど、思ったよりずっと目立った。
誰かの手が、そこに確かに触れた証拠のように。
二人の目が合った。
その瞬間、どちらも同時に半歩下がった。
圭一は、椅子の脚に引っかかって、情けないほどよろけた。
「……何事もありません」
「ええ、何事も」
***
商談は滞りなく進んだ。むしろ上出来だった。
先方の部長は帰り際、圭一の胸元をちらりと見て、人好きのする笑い方をした。
「高瀬くん、その赤い糸。奥さんの仕業かい」
会議室に残っていた紗代と圭一は、同時に答えた。
「違います」
間が、完璧だった。
部長はますます楽しそうに笑った。
「息まで合うとは、たいしたもんだ」
否定は、もう追いつかなかった。
客を見送ってから、圭一は改めて礼を言った。
「助かりました。今度、昼をごちそうします」
「総務の備品を使っただけです」
「じゃあ、白い糸を買って寄付します」
「それが一番助かります」
彼女はそう言って笑い、裁縫箱を棚に戻した。
何事もなかったような顔だった。
ただ、耳だけがほんの少し赤かった気がしたのは、夕方の西日のせいかもしれない。
***
月曜の朝、圭一は同じシャツで出社した。
正確には、洗濯をして、きちんとアイロンをかけて、その赤い糸のボタンのまま。
紗代はエレベーター前でそれを見つけ、少しだけ目を見開いた。
「白い糸、買いましたよ」
「ああ、ありがとうございます」
「付け直しますか」
圭一は胸元の小さな赤い×印を見下ろし、少し考えてから言った。
「取れるまで、これでいきます。縁起がよかったので」
紗代は手元の資料で口元を隠した。
「……ボタンは、予備も買ってくださいね」
「はい」
エレベーターの扉が開く。
二人は何事もない顔で乗り込み、ボタンひとつ分の距離をあけて、並んで立った。




