第29話 公爵の沈黙/隣国への招待
クロイツ公爵は、すぐには言わなかった。翻訳組合の庭で、彼はしばらく月桂樹を見ていた。夕方の光が葉の縁に乗り、風が静かに動く。遠くで馬車の音がしたが、庭には私たち二人だけだった。私は待った。外交の沈黙は、しばしば駆け引きだ。
けれど今の沈黙は、言葉を選ぶためのものだと分かる。
「私は、あなたを尊敬している」
彼はようやく言った。
「三年前、衝立の後ろから私の発言を正したあなたを見て以来、ずっと」
「見えていたのですか」
「声で分かった。姿は見えなかった」
彼は少しだけ苦笑した。
「その後、あなたの文を何度も読んだ。ヴァルニエ侯爵の名で届いた文の中に、あなたの考えがあった。私は、それを読んでいた」
胸が静かに震えた。私の名は消されていた。けれど、この人は筆跡と考えを読んでいた。
「尊敬は、恋ではないかもしれない」
公爵は続けた。
「だから、私は長く黙っていた。あなたが侯爵家を出た直後に言えば、救いを差し出す形になる。離縁前に言えば、あなたを追い込む。職務中に言えば、契約を汚す」
「それで、今なのですか」
「今も早いかもしれない」
彼は私を見た。
「だが、あなたが自分の名で仕事を選び、離縁し、報酬を記録し、これからの距離を紙にした。今なら、私はあなたに言ってもよいと思った」
風が止まったように感じた。彼の声は低く、少し硬い。
「イザベル・レヴィエ。私はあなたを愛している」
言葉は短かった。飾りも比喩もなかった。けれど、私はその短さで息ができなくなった。言葉を扱う仕事をしている。愛という単語が、どれほど危うく、どれほど便利に使われるか知っている。夫は愛を語らなかったが、妻の義務を語った。社交界は愛人の涙を愛と呼び、私の仕事を冷たさと呼んだ。
だから、愛という言葉を信じるのは怖かった。公爵は私の沈黙を見て、少しだけ顔を伏せた。
「返事は急がない。むしろ、急いでほしくない」
「公爵閣下」
「エルネストでいい。私的な確認事項の範囲なら」
その言い方に、泣きそうなのに笑いそうになった。
「エルネスト様」
「様も、いずれ外してほしい」
「段階があります」
「分かった」
彼は真面目に頷いた。私は胸に手を当てた。答えは、すぐそこにある気がした。けれど、言葉にするには少し時間が必要だった。愛していると言われて、その場の熱だけで返したくなかった。
「私は、あなたといる時、言葉を失います」
私が言うと、公爵の目が揺れた。
「それは困らせているということか」
「違います。怖くない沈黙を、あなたから教わりました」
彼は黙った。今度は彼が言葉を失ったらしい。私は少し笑った。
「返事は、少し時間をください。でも、あなたの言葉を聞けてよかった」
「分かった」
公爵は静かに答えた。月桂樹の葉が、また風で揺れた。愛という言葉は、まだ少し怖い。けれど、その怖さごと扱える相手がいるのだと、私は初めて思った。
◇
カルヴァレン公国から正式な招待状が届いたのは、エルネスト様の告白から三日後だった。宛先は、多言語文書監査官イザベル・レヴィエ。内容は、国境保護附属書の運用確認のため、カルヴァレン側の公文書館と救護記録室を視察してほしいというものだった。
仕事の招待だ。しかし署名は、エルネスト・クロイツ。私はしばらく封筒を見つめた。オリーヌが横でにこにこしている。
「何ですか」
「いいえ。正式な招待状ですね」
「正式です」
「紙質もよいです」
「紙質の話ですか」
「はい」
彼女の目が笑っていた。サラはもっと直接だった。
「行くんですか」
「業務上必要なら」
「必要そうです」
「あなたは何を根拠に」
「エルネスト様が呼んでます」
「公爵閣下です」
「私的な確認事項の範囲なら、エルネスト様なんですよね」
なぜ知っているのか。私はサラを見た。彼女は素知らぬ顔で封筒を整えている。マルタを見ると、目をそらした。
「マルタ」
「庭は声が通ります」
「聞いていたのですか」
「聞こえた分だけでございます」
侍女とは、時に外交官より手強い。外務卿へ視察の許可を求めると、すぐに承認された。
「カルヴァレン側の運用確認は必要だ。ついでに、公文書館の監査制度を見てこい」
「ついでが大きいです」
「君なら見るだろう」
「見ます」
旅程は三日。同行者はオリーヌとサラ、護衛二名。マルタも身の回りの世話として同行する。私は初めて、侯爵家でも王国外務院でもない理由で、隣国へ渡ることになった。出発前日、エルネスト様が公文書館へ来た。
「招待状は届いたか」
「届きました。正式な業務招待として受けます」
「よかった」
「私的な意味を含めていませんね」
「含めたら、あなたに怒られると思った」
「怒りはしません。記録を求めます」
「それも怖い」
彼が少し笑った。私は封筒を机に置いた。
「カルヴァレンへ行けば、あなたの家を見ることになります」
「ああ」
「エリーズ様の記録室も」
「見てほしい」
彼の声は静かだった。
「妹の名を正しい場所へ戻したあと、私はまだ、その場所へ行っていない。あなたが一緒なら行けると思う」
私は胸が痛くなった。
「業務に含めますか」
「いいや」
彼は首を振った。
「これは私的な願いだ。断ってもよい」
私は少し考えた。断る理由はなかった。
「一緒に行きます」
エルネスト様は、安堵したように息を吐いた。隣国への招待状は、仕事の紙だ。けれど、その旅には仕事だけではないものが含まれていた。私はそれを恐れずに読もうと思った。




